救われた日
自室には元々物が少なく、しかも荷物をまとめてしまったので余計居づらいかった。本当なら今頃この家を出て、外の森の中の小道を歩いていたはずだった。大粒の雨を見つつ、傘に当たるぽつぽつと言う寂しい音を聞いているはずだった。出ていくつもりだったならどうせ雨を見たい。
傘を差す。
行くあてもないが、雨を見つめ続けながら歩いてみたくなった。
梅雨がのしかかる葉っぱは重そうだ。今日は町に行くつもりもない。そんな気持ちもない。ただ、やるせない気持ちがどこにも行くあてがないように、わたしも何処へ行けばいいのか分からなくなっていた。あそこにいていいのだろうか。あそこはわたしの居場所なのだろうか、少しだけ考えてみるけれど、分からない。そんな気持ちがあてどなく歩みを進ませていた。
草が生い茂る道を選ぶ。
醜いけもの道はわたしみたいで、ついそちらに足が向いてしまった。
森の木々が視界を暗くする。暗い視界が広がっていって、ついには音まで静かさが染みわたっていく。でも、どこかで違う音が広がっているようで…
音が聞こえるようで…?
あれ? 雨の音は聞こえないのに、うるさい。
曇り空、傘も差してもらえず街の隅で蹲った。
寒い。
もう何時間もそうしていた。誰にも見向きもしてもらえず、腹もすかせている。物乞いをしたら、あの人に怒られるし、この状況で誰かに関わるのも暴力が酷くなるから出来なかった。
暴力を振るい、言葉を禁止したあの人はわたしが思い通りにならないと時々家の外に放り出した。こうして育ててもらえるだけ有難い、のだろう。
あの人、はわたしが物心つく以前に死んでしまった両親の遠い親戚で親切にもわたしを引き取ってくれた里親だった男だ。
大柄な男で、細い目をしていた。そして、時に優しく抱きしめてくれる。…それだけなら、まだ良かったのかもしれない。
わたしが住んでいた街は荒れた貧民街で、誰もが誰も人の家の子供に気にかける余裕はなかった。 お金もない、時間もない。救える余裕は誰もなかった。
はあと息を吐き、悴んだ手を温める。
こうして一生をこの街で過ごすんだと信じていた。誰にも見向きもされず、埋もれていく。そして、誰もわたしの存在なんか知らずに死に、路上に死体は捨てられる。死んだ後も死体として煙たがられ、行き着くのはゴミための中。自身を憐れむようなことは飽きた。憐れんだって現状は変えられない。自分を慰めるだけだ。それをしたら、余計に悲しくなるから。悲しくなれば冷たい目から雨が降る。降ったとしても、何も変わらない。ざーざーと降る雨にわたしの雨が紛れるだけだ。
「助けて」声は虚しく掠れていた。
叫んだって変わらなかった。
変わらない。
かわらない。
カワラナイ。
まるで人形のように大人の男に弄ばれて、痛みに耐えて、悲惨な現状に嘆いていた。嘆くのはひどく疲れる行為だったので、わたしは人形だと、物だと信じ込んだ。その方が楽だった。何も変えられない物。醜い物。わたしの命って一体何だったのだろうか。物としての一生を迎えるために生きていたなんて、呆れるけれど、仕方がなかった。こういう運命だったんだって。
口から零れるのは人形らしい肯定の言葉だけたった。
「はい」「そうですね」わたしは人を否定出来ない。敵意がある目で見れない。否定して、鋭い目で見て、返ってくるのは終わらない日常に繰り返される大人の力だけだ。
だから、怖いのだ。彼らの見下げる目が、全てを決めつけていくあの言葉が。わたしはどうしようもなく怖くて、今でも体が反応するのだ。小刻みに震えだし、あの頃のわたしのように人形になる。
「助けてあげる」
えっ。
人が通り過ぎていく中でその人はわたしの前で歩みを止め、傘を差しかけてきた。
身なりの良い服装をしていた。上流階級の人だろうか。わたしの薄い白のワンピースとは正反対に黒い温かそうなそうなコートを羽織っていた。しかし、黒い髪先が跳ねていて、上流階級には見えない部分もあった。長髪をくしでとかせば、もっと髪は綺麗に見えたのに、面倒くさがりな女性なのか、寝癖をそのまま靡かせていた。
すぐには彼女の言葉を理解が出来ず、わたしに言っていないのではないかと思い、周りを見渡すが、他に蹲っている人もいない。まっすぐにわたしを見つめていた。
「私、魔女なんだ」
そんな大きな存在がわたしの目の前にいるなんて思えなくて、目を大きく見開いた。やはり、そこに彼女はいたのだ。
「あなたにはいくつかの現実があるよね」
見下げられてるその姿にぶるっと震える。何をしてくるのだろうか。何かしてくる、例えば憐れんでお金を握らせてくるのなら、あの人からは喜ばれるけれど、その分機嫌が良くなって思いっきり抱きしめてくる。そして…。例えば、食べ物だとすれば、あの人は甘ったれるなと言って叩いてくる。罰が返ってくる。
しかし、魔女だと名乗る彼女を否定することも出来なかった。
「そうだね…現実の一つとして、あなたは虐待を受けてる」
ワンピースから覗く痣が見られた。恥ずかしくなってもっと体を丸めて、腕で隠した。そしたら、彼女はわたしと同じ目線に立つようにしゃがんだ。膝に肘を乗せ、頬に掌を添える。もう片方の手で傘を握っていた。見下げられる恐怖がなくなって、随分と震えが収まった。彼女なりの配慮かもしれない。
「そして、お腹が空いている」
ぐぅぅぅぅぅぅ〜とわたしの腹の中にいる獣が唸った。もっとずっと恥ずかしくなって、顔を伏せた。
あはははと彼女が笑う。若い女性相応の豪快な笑い方をしていた。彼女は何をもってして笑うのか、分からなかった。
人の辱めがそんなに笑えるのだろうか。それならば、性格がよくない魔女だ。
魔女の存在はあの人から教わっていた。貧民街には居ない、珍しい人種だ。貧民街に居ない理由は魔女なだけで、政府が優遇するためだ。魔法が使える者を魔女と定義し、魔女が使う魔法を有効活用する。時には雨を止ませたり、晴れ模様を雨模様に変えたりと言った天変地異を変動させるような魔法を使わせる。
この話を聞いた時、学のないわたしには全て理解出来なかったが、わたしと同じような利用される存在なんだと親近感を持った。
彼女もまた当時はそうだったのかもしれない。しかし出張帰りに寄った貧民街での彼女の行動は人形と呼ぶには逸していた。
「気候を変動させるような大きな魔法を使う歴代の魔女は愚かな者が多かった。自分のことしか考えず、人を救うこともしない。みな自分の魔法の対価など考えず、魔法を振るい、威張り散らした…と聞く。私もそうなるだろうと思ってた。でもね、今、この瞬間にね、人を救いたいなぁんて、思っちゃったの。あなたにはどうでもいいでしょうけど、ね」
また彼女は続ける。
「あなたの現実は不幸一色に染まっているよね」まるで、悪魔との契約のように感じられた。「ねえ、あなたは幸せになりたくない?」
瞬間、顔を上げた。
わたしには、そんな言葉をかけてくれる人なんて居なかったから、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。彼女は悪魔のように見えたのに不思議と温かかった。
ここで、こんな言葉言っていいのだろうか。こんな自由な言葉を、心の中で抱いていいのだろうか。わたしはわたしでいいのだろうか。
「大丈夫。誰もあなたの心の中なんて分からない。あなたはあなたらしく言ったらいいの」
震えていた。
体じゃなくて、心が震えていた。心の奥底から言いたくてたまらなかった言葉だったのだ。
呆れなくていい。
虚しくなくていい。
叫んでいい。
「ーーなりたい」小さい声がぽつりと漏れ出た。
彼女が頭を傾げる。
「何に?」
「幸せになりたいです」
魔女はにっこりと微笑んでいた。丸まった顔にえくぼがぽっくりと刻まれる。見ていて、安心する顔だった。
「大丈夫。あなたを幸せにしてあげる」
すくっと立ち上がり、二三歩下がる。
「魔法は見たことある?」
トントンとブーツを鳴らし、彼女はステップを踏む。これから起こることに祝福している。そう思えてならなかった。
「魔法は奇跡も起こすの」
誰でもない特別な力を特別な力もない醜いわたしに彼女は使ってくれる。
嗚呼、思い出しても、彼女をこう思わずにはいられない。
「神様」
わたしはあなたに救われた。心も状況も、現実も、未来も、何もかも。だから、わたしの全てをあなたに尽くさないと、あなたが与えてくれた恩に報いることなんて出来ない。
「私は神様じゃない」
傘から彼女は手を離す。
「魔女」
雨に濡れるのも気にせず、手を叩いた。
その瞬間、雲は切れ、お日様はこちらを覗いた。
何も聞こえない。
雨が頬に伝っていて、誰かの声が鼓膜を揺らしていた。その声だけが鮮明に聞こえてくる。傘を持つ手とは違う手で耳を塞いでいるのに、心の中からぶつくさと喋りかけてくる。
うるさい。うるさいよ。
「黙れえええええええええ」
自分の声に怒り散らしてしまった。
彼女を見捨てて出ていこうとしたのは、わたしだ。神様に、この身以上の幸福を与えてくださったのは彼女だった。彼女のためにこの身はあるのに、彼女に嫌悪を抱くなんて、彼女を裏切るなんて…
心の声がうるさい。
「わたしは出ていくタイミングを外されたの」
わたしが悪い。わたしは悪くない。どっちかもう判断なんて出来ない。
自分勝手な理由で出ていく理由を作ったのだ。わたしは……彼女の、傍に居ていいのかな?
ある本で遺伝子の事を書いている本があった。遺伝子で子供の性格は決まるのではなく、環境によって性格は大いに左右される、と。彼女が魔法をわたしにかけた後、わたしを育ててくれたあの人はすぐに原因不明の病気で亡くなったが、わたしはあの人と長く居た。長く過ごした。環境によって性格が決まるなら、あの人の嫌らしい性格がわたしに乗り移ったのかもしれない。
自分勝手で、傲慢で、横暴で、大っ嫌いな自分。頭の中に悪い虫が居座っている。
彼女に出会って、わたしに「幸せになれる」魔法をかけてもらってから、望むものなら何でも手に入った。幸せな家庭も、家族も、彼女の傍も。こんなに幸せになっていいのか分からないぐらいに。
だから、罰が当たったんだ。
傘を差す気力もなくなり、肩の力が抜ける。膝が折れ、その場に座り込んだ。
寂しいから、嫌いだから、神様もろとも自分から捨てようとしていた。いけないことを自らしてしまうなんて、なんて馬鹿なことをしてしまったのだろうか。
自分が怖い。
家事をして肌荒れが酷くなったかさかさの手を見つめた。いつか彼女を殺してしまう日が来てしまったらどうしようか。
「お嬢さん、風邪引くよ」
甘い声がわたしの心を切り裂き鼓膜を揺らした。
まるで、あの人みたい。