晴れ前の訪問者
荷物をまとめた。
昨日の自分のしたことを思い起こし、自分のしでかした過ちを悔いた。これから先のことは何も分からない。怖い。でも、此処に居てしまったら、彼女の優しさに甘えてしまう。彼女に嫌悪感を抱いてしまうわたしをわたしは許してしまう。わたしの過去を殺してしまう。どうしてもそれが嫌だった。彼女の中のわたしも消えてしまうのかもしれない。わたしがそこにいるのに、彼女に仕えているのに、彼女はわたしを知らない人のように接してしまうことになるかもしれない。
そんなの耐えられない。
ここ数日の幸福があったからこそ、余計に寂しさも大きい。
言葉に責任をとれないわたしをどうか許してほしい、だなんて自分勝手だろうか。
朝食にスコーンを用意し、傍に『暇をもらいます』とメモ書きを添えた。何回も何回も書き直したメモだ。震えて文字が大きくなっていたのだ。ようやく綺麗に書けたメモのひとつを選んで置いた。わたしの文字は下手だけれど、あのメモの文字は読めるだろう。
そして、思い出のあの本はメモの重しにしている。あの本に思い入れがあるのはあるが、彼女は宝物と称した物を私が持っていくなんて出来なかった。
自室の物は元から少なく、荷物にまとめるのは容易だった。がらんとした部屋は埃一つない。荷物を背負い、部屋のドアを閉める。
玄関に立ち、家のドアと対面すると躊躇いが生まれた。今此処を出て行ってしまって、彼女はきちんと生活出来るだろうか。ずぼらな彼女。掃除も、料理も、洗い物も、研究以外何一つ出来ない彼女が。
傘を握りしめる。
わたしの働き口はあるのだろうか。こんな幼い年のわたしを雇ってくれるところなんてあるのだろうか。
世間はそんなに甘く無く、残酷なことをよく知っている。
息を吸う。
もう決めたことだ。
ドアノブに手を伸ばす。
しかし、そのドアノブはわたしの手を避け、ドアが内側に開け放たれる。思わず額にドアがぶつかり、その場に尻もちをつく。
木製なんだから、痛いのは当然。決心した矢先の出来事で痛みが後から後からにこみ上げてきた。
「おやおや、失礼」
じんじんと額に熱さが染み渡っていく。手を額にやり、熱さを冷ましながら、訪問者の方を見上げた。
そこには黄土色のコートを着ていた男がいた。雨でコートの端は濡れ、こげ茶色に色を変えている。その人は頭に黒い帽子を被っていて、目が細かった。目尻にはいくつものしわが刻まれている。大柄な男で、わたしの体丸ごとを男の影で覆い尽くされた。
見下げられてる。その大きな体で見下げられてる。
体に刻まれてる記憶が、わたしに敬語を強要したあの男の記憶が、わたしの視界全てを埋める。
瞬間、体が震えた。
怖い。
手に力が入らなくなる。だらんと肩を落としてしまった。
「彼女はいるかい?」
優しげな男の低い声が耳に入ってくる。
「はい」正直に答えた。目が見れなかった。
「それなら、呼んで来てもらえないかい?小さなお嬢さん。私は政府の役人なんだ」
政府の…そんな偉い人が来るなんて初めてだった。しかし、要件は分かる。この雨のことだろう。
「はい」
わたしは人形のようにこくんとした。
彼女が起きる時間ではないのに、今日はすぐに目を覚ました。ただ一言「政府の役人の方が」と告げただけだ。彼女はその単語に反応し、飛び起き、支度を済ませた。わたしの外出用の服なんか気にも止めない。
わたしもわたしで、お客様がいらっしゃるのに、机の上に朝食と書き置きなんて物を置いておけるはずもなく、全て片付け、服もいつもの服に着替えた。そして、お客様をダイニングへと丁寧に引き入れた。
「君みたいな小さな子が居ると知らなかったよ」
政府の役人の方へお茶とお菓子を差し出すと、御機嫌になったようにペラペラとわたしに話しかけてきた。わたしは「はぁ」や「そうですね」と適当に相槌をうった。こう言った人に恐怖しか抱けなかった。怖いのだ。大きな男が。
「私にも君みたいな小さな子供が居るんだ。でも、君みたいにしっかりしていなくてね。君は此処に来て長いのかい?」
またわたしは愛想笑いを浮かべてみた。
お役人の方も子供がいる。だから、こんなに気さくにわたしに話しかけてくるのかもしれない。人の子の親なら、この男は安全なのかもしれない。
「わたしは、彼女に拾われたんです」
「そうか」男が大きく目を見開き、驚く。「あの彼女が、人を、ね。」何か気がかりなことでもあるように指で顎を挟み、大袈裟に考えていた。
「はい。わたしは彼女に救われたんです」
「救われたその時、彼女が魔法を使っていたかい?」
「はい……?」
質問の意図が分からなかった。
「私の友人を弄るのはその辺にしてくれ」
階段を降りながら、彼女はダイニングに現れた。声色がいつもより鋭く、どことなく怒っているような気がした。「情報を聞き出すために、自身の情報を明かす、政府の常套手段だ」
役人の男が彼女の声に答えるかのように小さく不気味に笑った。「懐を明かしてもらうにはある程度こちらの情報を明かす必要がある。魔法も同様だろ」
「だけど、あんた自身の情報はいつも嘘っぱちだよね」
彼女の身なりは整っている。彼女が人前に出る時に寝癖を整えるのを初めて見た。いつもは身なりなんか気にしないのに、髪の毛が跳ねていたのが治っている。
そして、彼女は流れるようにお役人様の前の席に腰を下ろした。
「あんたに子供はいない」彼女が人差し指を役人に差した。
子供がいない…それなら、先ほどのペラペラと喋りだした内容全て嘘だと言うのだろうか。大人は嘘が上手いのは知っていた。表情にも、声にも目にも、どこのも本心を曝け出さず、こんなに上手く嘘をつけるなんて思ってもみなかった。こんなに華麗にわたしは騙されてたなんて。
途端に恥ずかしくなった。
転がされた。弄ばれた。
「やあ、久しぶりだね」
役人が気軽に返す。
「会いたくはなかった」彼女が顔を顰める。
「良かった。魔法はまだ使えるんだね。噂では、君はもう魔法を使えなくなったと…」
「生憎、まだまだ現役で魔女をやれる」
彼女のお茶を手早く用意し、音を立てずにそっと置いた。お茶菓子も出したので、この場でのわたしに要はない。それに恥ずかしさの余り今にも悶えそうだった。彼女に目配せをすると、もう既に役人の男との会話に興じている。なら、この場を後にしても構わないだろう。
あの頃は場の空気を読まなければ、わたしに存在価値はなかった。体に染み付くように覚えている。
文字の読み書きも、食事の食べ方も、男に対する接し方も、勉強の仕方も、親との距離も、何もかも知らなかったあの頃でも自分の身の置き方のルールは理解していた。
歩く音をさせずにダイニングを後にした。