頭の中の掃除
彼女はずぼらな性格だった。朝にきちんとした時間に起きるのは苦手だったし、夜は長いこと起きていることもよくある。洋服も頓着しなくて、地味な服ばかり着ている。だから、お洒落もしない。ご飯を食べるのは豪快で、男だと見間違う程だった。
「最近いらない物が増えたから、掃除してたんだ」
だから、彼女の部屋はいつも汚かった。本は溢れていて、床を見えないまで覆いつくし、積まれた本は天井まで届くタワーが作られていた。本棚には空きがあるのに、そこに入れようせず積んでいるて、肝心の本棚はよく分からない彼女の趣味の産物が飾られていた。部屋に小さなビル街が作られたように本が様々な高さに積まれていた。紙も多い。床に打ち捨てられた紙も多いのだが、本に挟まれていて窒息してそうな紙もままあり、本に挟まれた紙を見たが、ちらっと見ただけで卒倒しそうな理解出来ない文字列が並べられていた。流石国の魔法研究の第一人者だと感じられる本の量だ。
「これ全ていらないものですか?」
掃除をすると、日が暮れてしまいそうだ。
「いや、全部じゃないよ。知らないうちに変なものまで紛れ込んでいたから、資料として役に立たないものだけ片付けようと思ってね」
「変なもの、ですか」
本棚に飾られている物は、彼女の大切な物?だろうか。人の形をなしていない捩れている人体模型が押し込まれているけど、あれはいるものだろうか。と、言うか資料として役に立つのだろうか。甚だ疑問だが、今はごくんと疑問もろとも彼女の適当さを飲み込む。
「どんな物が変なものですか? もしくは、役に立たない資料など言ってもらえれば、仕分けします」
ついでに本をあるべき本棚へと戻そう。
「それを探すのに苦労してるんだ」
呆れてわたしは押し黙ってしまった。彼女の掃除は掃除の意味をなしていない。掃除ではなく、探し物だ。
「確か、このぐらい」と両手で丸を描き、大きさを示す。彼女の肩幅くらいの大きさで思ったより大きかった。「汚い絵本だよ」
「絵本…」
絵本は妹にしばしば彼女が読み聞かせた物が多かった。そんな思い出深い絵本を優しい彼女は捨てるはずもないので、きっと彼女が妹様に読み聞かせようとし、買い、その役割をなさずいつの間にかこの本の山に埋もれてしまったものだろう。
「了解しました。わたしも探します」
「待て待て」わたしが腕まくりをし、意気込む前に彼女が手をかざした。「まだある。こぉれぐらいの」今度はさっきより小さく手を動かす。「カップだ」
カップ。カップなんて、沢山あるだろう。部屋の窓傍にある机の上にカップが十個は優に見える。 知らないうちに食器棚からカップがなくなっていたりするから、わたしが預かり知らないカップがまだこの得体の知れない部屋にあるはずだ。
「どのカップですか」
机に目をやりつつ、彼女の言葉を待つが、彼女は考え込んでしまい返って来ない。職業病だろうか彼女は考え込むことが多い。しかも考えると長い。気難しい哲学者や賢い学者にありがちなことが彼女の頭の中で起こっている。わたしに彼女の頭を覗くことが出来てもその全ての知識はわたしの足りない頭では理解できないに違いない。
彼女の思考についていけたのは彼女の兄ぐらいだろうか。彼女ら兄妹は仲が良く何か複雑な議論戦を繰り広げていた。妹は年が離れていたので議論には入りこめてはいなかった。彼女の高説にうんうんと頷き飽きたら眠っていた。しかし兄は彼女と夜遅くまでこの部屋で語り明かしていた。夜が明け朝ご飯になると二人が目に濃い隈を刻み込み一緒に現れて、「寝不足なんだ」と薄ら笑いをしていた。あの日はコーヒーが苦手な兄が珍しくコーヒーを頼んだ。苦々しいと顔を歪め、普段は浮世のことなど関心がないのに、らしくなく「政府は一体何してるんだ」と昨夜の語り合いが抜けきっていない風に見えていた。
「あの中にはない。確か新品のまま放り投げられていた」
彼女がようやく話し出した。嫌いなピーマンを食べた後ように彼女の顔は苦悶の色が伺えた。カップがこれだけあるのだから思い出すだけでも一苦労だろう。
「新品、と言いますと、包み紙に包んだままですか」
わたしもない頭を捻ってみる。想像力は人並みにはあるはずだ。兄妹の方々にいろんなことを教えてもらったのだから。
「そうだった」ぽんっと彼女は手を打つ。「そうだ、包み紙だ。茶色の紙に御丁寧に包まれていた」
今度こそ作業に取り掛かろうと彼女の顔を伺い、何もないと悟ると「分かりました」と告げた。「では、探します」
まずはカップから取りかかった。机のカップは何日、下手すれば何年も前から置いてあるものばかりだった。行方不明であることを数日前に気付いたものまで。机だけで二十個も。新しいカップもあるから彼女が買い足したものもあるのかもしれない。カップを片付けるたびに横から「それは、大切に扱ってくれよ」とか「それは気に入ってるんだ、置いておいてくれ」とか茶々入れが入って来る。置いておけって、これはインテリアか。汚いので、彼女の言ったことは無視して回収した。キッチンの流し台に運ぶと流し台はカップで隙間がなくなった。食器棚にしまえるかはこの際置いとくとして、気になるカップがいくつかあった。
彼女のカップの趣味は花柄のような装飾が付いていないシンプルなもので、それ以外のデザインのカップを使うことを嫌がった。しかし回収したカップの中にはカラフルな彩のある華やかなカップがいくつか見受けられた。それはどちらかと言えば兄の趣味で、可愛らしいものが好きなあの人らしかったのだけど、彼女はそんなカップは知らないと言い切ったのだ。兄と議論する中、兄がカップを持ってきたと考える方が自然だった。「本当に知らないのですか」と尋ねると、彼女は鬱陶しそうに「そんなカップは捨ててしまえ」と言い捨てた。しかし、それらのカップがあの人の物だとしたら、きっと彼女は後悔する。彼らが彼女を捨ててこの家から出ていったのを怒って彼女は知らないと強情を張ったのかもしれないが、彼らの怒りや彼女への恐れが冷めた時再びこの家に訪れることだってあり得るのだから、簡単に切り捨てて良い思い出の品でも、感情でもない。わたしは今幸せだ。それは単に辛い過去があったからだ。だから、過去を切り捨ててしまったら私の幸福はないように、彼女もまたその幸福を、過去を切り捨てることでなくして欲しくはなかった。
だから、本を片付ける前に彼女には内緒でいくつかのカラフルなカップをさっと濯ぎ、食器棚の奥にしまった。
続いて、本を片付ける。本棚に飾られている何だか分からない代物の数々を捻り出し、積まれた本をしまう。彼女は諦めて何も言ってこなくなっていた。そうしていくうちに出てくるのは、カップはもちろんのこと、彼女の思い出の品の多かった。わたしや妹に母や彼女が読み聞かせてくれた絵本に、妹のお気に入りのハンカチが出てきて懐かしんだ。どの絵本が彼女にとっていらない本か分からないので、山積みになった本が置いてあった場所に積み上げておく。
「こんなに」わたしが作業の手を止めずに黙々と片付けていくと、サボって物の思い出にふける彼女はわたしの積み上げた絵本を漁った。「こんなに要らない物があるなんて」
思わず手が止まった。
絵本の思い出を『要らないもの』なんて彼女は言う人だっただろうか。
「これも、これも、わたしが感知していなかった変なものだ」絵本を次々に『要らないもの』としてわたしが渡してあったゴミ袋に放り込む。
「待ってください」
口を出さずにはいられなかった。こんなに優しくない彼女は見たことがなかった。
絵本は、彼女が昔大切にしていた物だ。彼女が探しやすいようにと、まとめて本棚に入れようと思って、わたしが知っている絵本と知らない絵本とを両方一箇所に積み上げておいた。それを彼女は全てゴミ袋へと投げ入れる。しかもわたしに読んだ絵本ではなく、妹に読んだ絵本ばかりを、次々に入れていった。透明なゴミ袋の中の絵本は乱暴に扱われてページがへし折れている。
「本当に、いいんですか」わたしは彼女の傍に駆け寄り、彼女の瞳を見つめた。瞳を見れば、いつもの彼女がそこにあると思っていた。寂しさに苛まれて絵本を捨てずにいられない悲しげな瞳があると信じていた。「それはゴミなんですか」でも、彼女の瞳の色はあの雨の日のように冷たく、温かみのない色をしていた。
「要らないものだ。つまりは廃棄物だ、ゴミだ」
「分かりました」心の中で再び反芻する。分かりました。これは、彼女にとってもうどうでもいいもの。では「探し物は?」探し物とはなんだったのだろうかと思い呟いていた。
「見つけたよ。この汚い絵本全てだ」
おかしい。あなたはそんな人じゃない。わたしに本を読んでくれたことだってある。あの絵本とか…
「どうしたの?」彼女の声が耳元で反響する。
「わたしに読み聞かせてくださったあの絵本は?」
「あれは、大事な物だから本棚の奥にある…よ?」
すくっと立ち上がり、本棚に足を進める。
あの本は?
先ほど本棚にしまった本を次々と落としてゆく。
どこ?
どこ。あれは。
どさどさと落として本が傷むのなんか気にしない。本棚に入れた苦労も、片付ける手間も今はどうでもよかった。
手を払って払って、本を探す。
古びてかびた茶色い本も、物珍しい派手な装飾を施した本も、雨に濡れてふやけた本も、みな平等に、あの本以外は全て同じ。
「ちょっと?どうしたの」
彼女は何が何か分からず、わたしの傍に駆け寄る。隣に立たれると、余計悲しくなる。彼女のことが分からなくなっていた。
彼女は優しいのに、今は優しくない。
一つ目が終わり、二つ目の本棚に移った。二つ目の本棚の端。そこにあの本が見えた。
摩訶不思議な国に誘うあの可愛らしい女の子の話。大好きだった。『あなたは自由なんだから、この少女のように何を想像したっていいの。夢もうつつも全てあなたの物よ』本を読み終えた時の彼女の言葉今でも覚えてる。心を落ち着けて、絵本を抜きとる。何回も何回も読んだのか、本が擦り切れている。年月を何年も重ねている。手に持つ重さがあの頃より軽い。
「この本覚えてますか?」
彼女のあの顔を見たくなくて、絵本を抱きしめ、俯いたまま問いかけた。
「覚えてる」
「あなたから、読み聞かせてもらった本です。」
「宝物だ」
「誰に、読み聞かせたか覚えてますか?」
心がざわついた。痛み出した果汁が胸に染みだし、体に行き渡り痺れる。この感情は何なんだろうか。悲しくて、哀しくて、でも仕方なくて、どす黒いのに、切なくて、わたしには分からない。
「そんなの、簡単」
「あなたでしょ」
頭に痛みが走る。
この本はわたしと妹に彼女が読み聞かせたものなのに、彼女は覚えてないんだ。
彼女に抱くこの感情。なんだか薄ぼんやりと分かった。彼女に初めて嫌悪感を抱いてるんだ。彼女が大好きなのに、一生を彼女に尽くしていいって思ってる一方で、妹を覚えない彼女を嫌悪してしまってる。何で彼女は忘れてしまっているのだろう。辛くて寂しくて魔法の効果を自分に使って記憶を消してしまったのだろうか。
「ごめんなさい」
声を出すと震えていた。絵本を抱えている腕が笑っている。
「ごめんなさい。今日はもう、休みます。明日にまた片付けるので…」
喉の奥から涙がこみ上げてきた。目からは何も出ない。乾ききっていて、虚しく見開いてしまう。 数回の瞬きの後、彼女を直視した。
あっ、と息を漏らす。言葉が出てこなかった。彼女の顔に不安が浮かんでいる。こんな顔にしてしまって、なんと謝り方をしたらいいか分からなくなってしまった。敬語なら、許してくれるだろうか。敬語なら、あの頃は許してくれた。彼女の不安な表情は、わたしのせいだ。
訳分からない行動をしてしまって、あなたに嫌悪感を抱くなんてしてはいけないことをしてしまって…でも、
謝り方はどうしたらいいっけ?
放心してしまった。どうしたらいいのかも、もう分からない。
だから、逃げた。
絵本を抱えたまま。
頭をドアにぶつけながら、家から飛び出し、外に出る。
雨に体を打たれながら、本が濡れないように背中を空に向かせて、頭を突き出して、そのまま、走った。
家の周囲には森が広がっている。地面には荒れた草。足が草に絡まる。転がりそうになるけれど、無理矢理に足を前に踏み出すと、転がらずに走り続けることが出来た。
走って走って。
怒涛のような雨が銃弾のように体を撃ち続けた。森の木の間を抜ける。足が疲れて悲鳴を上げているし、呼吸が荒い。もう、足を止めて、その場に座り込みたい。
と、思った矢先太い幹に頭を当てる。その反動で、後ろに二三歩ふらつく。重心が後ろに向く。棒のように足が動かない。腰が落ちて、膝が折れて、そのまま自然にその場に落ちるようにへたりこんだ。
嗚呼、嫌悪感と悲しみと…どんな感情かを言い当てても、もう何がなんだか分からなかった。どの感情も一緒に押し寄せてくる。
彼女はもうあの幸せな家族を覚えてないのかもしれない。
わたしが、寂しいだけ。
わたしだけが、あの家族を覚えているんだ。
では、「対等になりたい」や「寂しいじゃない」と言った彼女は何だったのだろう。記憶を消した彼女の中に生まれた寂しさがあれを言わせたのだろうか。
嗚呼、悲しい。
彼女の言葉が有難いのがあいまいって、寂しさや悲しさが込み上げてくる。私しか知らないことがあるのが虚しい。何で、なんで。な、ん…で。
「何であなたは…」
そんなことをしたの?
熱いものが頬に伝う。
手に握る本に目を移すと、既に雨で濡れて表紙のイラストさえ分からなくなっていた。