『読書』
雨が降り続けているにもかかわらず、まだ国民は彼女に押しかけない。
窓からそっと空の雲を見ると、昨日より今日の方が黒く、分厚くなっている。
わたしも人だから、こう毎日晴れ間が見えないと気が滅入る。
洗濯物も室内で干すより、お日様がある下で乾かす方がふんわりと乾いていい。
あの晴れ間が来る魔法を彼女が使ったらいいのだが、彼女はしたがらない。魔法を使うにはそれなりの時間が必要なのかもしれない。
魔法が使えないわたしからしたら、魔法なんて未知の力だ。
使う時は、何を感じているのだろうか。温かいのか、冷たいのか、痛いのか、柔らかいのか、固いのか、想像するだけでも面白い世界だ。
魔法は誰かを救える良い力だ。それは彼女のような人に相応しい力だと言える。
優しい彼女に。
「対等になりたい」と言ってくれたあの日から彼女は朝ご飯を共に作ってくれる。
「わたしなんて」を禁止にしたのはすぐに忘れたのに、朝ご飯の約束だけはしっかりと守った。
でも、作るのはいいが、包丁も持ったことがない彼女はいつも皿を落とし割らす。そして、包丁で手を切る。日をまたぐうちに彼女の手は傷だらけになっていった。
作るのを手伝う心がけは嬉しいのだけれど、作る手間が二倍になるのはくたびれる。それでも変わらず朝起きて作るのは彼女の優しさからなのだろう。
…こうして考えては、思って、頷く度に「彼女」、「彼女」ばっかりだ。
わたしは彼女に心酔しているのは分かっていた。
彼女がわたしの心を暴く魔法を使えば、一日中恥ずかしくて彼女に顔向けできなくなるに違いない。それに彼女に依存していては彼女に暇を出された時どうして生きていられるのだろうか。彼女が、居なくても生きていけるようにしなければ、彼女に重い十字架を背負わすことになる。せめて自分の思考だけでも彼女から離れないと。
まずは、今日一日の計画を立て、頭を仕事でいっぱいにする事から始めよう。
もう成人にもなる年齢になるのだから、一人前に自分の主体を持たないと。見た目の幼さ同様に馬鹿にされるだけだ。これでは彼女から救われた意味もない。
洗い物をし終わると、わたしはダイニングの机の上に紙と鉛筆を用意した。
今日の洗い物は手早く終わった。
昨日の彼女はやると言って聞かなかったから、「お願いしますね」と頼むと、いち早く皿を床に落としてしまった。
今日は大人しくすごすごと部屋に帰っていったけれど、何か思うところがあったのだろうか。
雨が降ってから悩んでいるとは思っていたけど、何か悩んでいるのなら相談してほしい。召使いの領分ではないので、そんなことを思うのもいけないのかもしれない。
と、また考えてしまった。尽くしすぎるのも不憫だ。
再び紙に目をやる。
街から郵便で届くチラシの裏が白紙になっているのを利用している。チラシの内容は街の市場で売っている野菜が特売の知らせ。数日前のチラシだ。
今はこんなチラシを送られてはこない。街の市場の状況は芳しくはない。
魔法があるこの世界で農家の負担は減ってはいるけど、それでも気候には左右される。
食物に必要なのは雨による恵と晴れの光で、それらを欠けさせ魔法に頼ると食物は美味しくはなくなる。手間暇あってこその作物なのだろう。魔法が作物や生き物などの命に追いつくまで後何百年とかかると、偉い学者は言っていた。
そうだ。まずは久しぶりに本を読むのもいいかもしれない。
わたしが偉い学者などと呼ぶのはもちろん彼女ではなく、本の著者だ。
実はわたしは生い立ちが余り良くない。彼女のように飛び級で学校を卒業し、社会に貢献するような頭脳を持ち合わせる以前に、生きることができるなら、そんな頭脳は無駄なものだと勝手に思い込んでいた。
だから、此処の家に来て、妹や兄に文字の読み書きを教えてもらった時は世界が広がった。本に触れ、様々な考えがあると知った。生きること以外への関心を持てた。
本は仕事の合間に今も読んでいる。しかし、文字一つ一つ確認し読むからどうしても遅くなる。数ヶ月に一冊、読めるか読めないかぐらい。時間をとって読めばすぐに読めるかもしれない。
鉛筆を握り、チラシに「読書」と書く。なかなかに上出来の字だ。
子供っぽいガタガタとした角張った字だけれど最初の頃よりは断然良い。あとは読書の「読」の字の口が大きくなくて、「書」の頭でっかちを直し、全体的に小さく書けば、活字みたいな美しい文字になる。
それでは次はどうしようか。
掃除はするにしても、洗濯物の量は少ないし、すぐ終わってしまう。本で一日を明かすだけの一日、それもそれでいいかもしれないが物足りない。
鉛筆を置き、チラシを前にかざした。チラシの上端を持っているから、下がひらひらと落ち着かない。
チラシにはわたしの歪な「読書」だけが書かれている。大部分は余白で埋め尽くされ、読書が白に押しつぶされそうで可哀想に見えてきた。
もう少し何か書いてみるのもありか。でも、それでは字の練習になってしまって、このよく出来た「読書」が文字の海に溺れてしまう。それもそれで、もったいない気もする。
チラシを机に置く。
こんな時自分の考えが遅いことは腹が立つ。もう少しきっぱりと決められたらいいのだけれど、難しい。生来そうだから、周りにもわたしは疎まれる。愚図なわたしはどうしても周りには好かれない性質なんだといつもいつも身に染み込ませている。
さて、どうしよう。
「ねえねえ」
じっと見つめていると、話しかけられた。
こんな昼後になんだろう、と顔を上げた。誰が尋ねているのか分かっていたから、安心して上げられる。
「はい、何でしょうか」
彼女は申し訳なさそうに眉を顰めていた。
これはとても困っている。力にならないと。
そんな意識からか「なんなりとお申し付けください」と付け加えた。
「手伝って欲しいんだ」もごもごと口に何かを含ませて彼女は次の言葉を紡いだ。
「掃除、終わらなくて」
「お掃除なら、任せてください」
わたしは彼女に声高らかに答えた。
掃除は大の得意だ。得意分野を彼女の為に使えるなんて、光栄だった。
チラシを捨てた。
彼女のことを考えないなど、わたしには不可能なのはどこかで分かっていた。




