プロローグ 霧
私の目の前には濃い霧が立ち込めていた。
霧の他には何も見えないし、何も聞こえない。
ここはどこ、
なんてありふれた言葉を発してみても、きっと私の耳には届かないだろう。
どこか現実感に欠けるその場所で、私はそんなことを思っていた。
不安を紛らわそうとして。
本当は泣きたいくらいに不安だったけれど、誰もいないこの場所で泣いていても助かりはしないから。
私は目の前の霧を見つめた。
「あっ」
私は小さく声を上げて、後ずさった。
霧の中に、目が二つ、浮かんでいた。
緑色のその目は、好奇心をありありと浮かべ、恐怖に見開かれた私の目を見つめていた。
私はもう一歩後ろへさがった。
それにつられるようにようにして、緑の目の持ち主は、その全貌を露わにした。
それは、私より小さな男の子だった。
私はきょとんとして、男の子を見つめた。
クセのある茶髪と、白い肌を持った男の子である。
男の子?
獰猛な獣とか、見たことも無い生物ではなくて、私は一人の男の子に怯えてたんだ。
私は小さく笑った。
私の笑顔に安堵したのか、男の子は口を開いた。
「どうして、こんなところに一人でいるの?」
ですか?
と後から付け加えて首を傾げた。私は、その子が日本語を話したことに驚いた。
「道に迷っちゃって」
「なるほど。ここの人じゃないですよね…ですか?」
敬語が苦手なのかな、と思いつつ私は頷いた。
「だからか。どこに行きたいの…ですか?」
「どこ」
私はハッとして呟いた。
私はどこに行きたいのだろう。
待って、そもそも私はどこから来て、今どこにいるの?
「ねぇ、ここはどこ?」
「ここ?」
男の子は誇らしげに笑った。
「Dream Villege」
「夢の、村?」
「この村にくる旅人は皆そう言うんだ。あぁ、夢のようだ、って。だからいつしかそう呼ばれるようになったの。です!」
私の頭の中は混乱していた。
ここは、どこなの? 日本じゃないの?
でも、この男の子は日本語も英語も一応話せるようだし。
「で、どこに行きたいんだっけですか?」
「分からないの」
記憶喪失とかいうヤツかしら。実感の湧かないまま、恐怖に支配された頭でそんなことを考える。
「とりあえず、こんな霧がないところかな」
男の子は不思議そうに私を見た。
「家じゃないの? ですか?」
「家、ね……」
私は何気無く下を向いた。
私の家って、どこだろう。
足元は霧のせいで霞んで見えた。いや、本当は霧ではなくて涙のせいだったかもしれない。
「もしかして、家出?」
男の子は言いにくそうに言った。
「ううん。でも、私、家がどこだかさっぱり分からないの」
「そっか。です」
男の子は心底同情してくれているようだった。
「じゃあ、村の中心に行こう」
そう言って私の手を引っ張って歩き出した。
道中、私は男の子の名前を知った。
レーヌ、というのだそうだ。
レーヌは自己紹介をしてくれたが、私は名乗ることしか出来なかった。
敬語じゃなくて良いよ、と言うとレーヌは嬉しそうに笑った。
「月夢」
レーヌは私の名前を呼ぶと、振り返って言った。
「村に着いたらどうするの?」
「どうしようかな」
私には何も分からなかった。
「泊まれる場所はある?」
「宿屋は僕たちの村にはないから、そうだな、とりあえず僕の家においでよ」
「いいの?」
「いいよ」
今はレーヌに頼るしかなかった。
「ありがとう。でも、申し訳ないな」
「何言ってるのさ。放っておけるわけないじゃん」
私は立ち止まってありがとう、とレーヌに頭を下げた。
やめてよ、とセーヌは笑いながら言った。
「あのさ」
ふと真面目な声になってレーヌは言った。
私は顔を上げてレーヌを見た。
「月夢は、どの地域から来たの? ほら、その、髪も目も黒いし、名前は漢字だし。どこか遠いところから来たの?」
「レーヌ、あのね」
「うん?」
「私ね、過去の記憶が無いの」
そう言うと、再び恐怖が蘇って来た。
私はこれからどうなってしまうの?
「どういうこと?」
「記憶喪失……かな」
「あ、だからか……」
レーヌは納得したようだったが、驚きを隠せないでいた。
「だから、自分の家が分からなかったんだ」
「そう」
私は大きなため息をついて空を見上げた。零れかけた涙を乾かすために。
「私、家に帰れるのかな」
「月夢」
突然の大きな声に、私は驚いてレーヌを見た。
「僕、いい事思いついた」
レーヌはその場で二、三度嬉しそうに飛び跳ねてから言った。
「ネユージュにお願いしよう」
私は頭上にはてなマークを浮かべたまま彼を見ていた。
「ネユージュは、僕たちの村の祭司なんだ」
予想外の単語が出てきて私は戸惑った。だが、私は藁をも掴む思いで頷いた。
「うん。そうしよう、そうしよう」
レーヌはまた私の手を引いて歩き始めた。
いつしか霧は薄くなっていて、視界いっぱいに草原の緑が広がっていた。