06年3月:変なやつとの出会い。あと今月は漬物を買う余裕は無い。
二十八歳、独身。ここまでなら共感を得られることも多い。
床屋で「結婚は考えないのか?」だとか、先輩との会話で「合コン行かねーか?」だとか、聞きなれた質問がしばしば飛んでくる程度だ。
それでは項目を追加しよう。
職業フリーター。 現在 無職。
フリーターという言葉でごまかしたいけど、今はどんな仕事をしているのかと言えば、自室にこもって履歴書で指を汚すことぐらいしかしていない。無職としか言えない。
自分なりに丁寧に書いたつもりの履歴書が宝くじの代わりにでもなってくれれば良いのだが、残念ながらシュレッダーにかけられるだけの可燃ゴミとなっているようだ。
代わりに送られてくる封筒は人力シュレッダーにて細分化されるだけの可燃ゴミだ。
おかげさまで握力が学生の頃より増した気がする。
採用されるのは日雇いの仕事ばかり。
炎天下の中、椅子に座りながら看板を支える仕事とか、通った車の数だけ親指を動かす仕事とか。いや、それだって立派な仕事だ。それがあるからこそ大きな何かが成立するんだ。
と、ぼやいたところで賛同は得られない。それも分かっている。
随分と前に最後の同期から飲み会に誘われ、酒に酔った勢いでそんなことを力説したのは鮮明に覚えている。
最後の同期、というのは何度か留年したからで、最初の同期は立派に社会人として生計を立て、どうやら家庭を持っている奴も何人かいるらしい。
最後の同期とはそれっきり飲み会の誘いなんて来ないし、懐かしい名前から一斉送信で送られてきた結婚報告のメールは焦燥感だけを刺激した。
そのメールを受信したのが酔った帰り道だったので携帯を投げ捨てそうになったが、そこで思い留まったのは我ながら英断だった。
ちなみにその飲み会では年上だからと見栄を張って、付け焼刃に学生の頃に使っていたパソコンを売り払って財布に千円札を増やしてから臨んだ、なんていう経緯もある。
ほとんど使ってないパソコンは新古品として売れてくれた。
しかし奢るつもりで臨んだ最後の飲み会も、年下と割り勘して、幸せいっぱいで憎さ百倍のメールを信号待ちの合間に見るイベントを締めに終了した。
どうやら他のメンバーは初任給の後だったらしく、俺以上に財布が潤っていたようだ。
それに比べ、携帯の支払いが限界の俺。
そうなるぐらいなら元から入っているゲームで暇を潰したり、日記を書いて波乱万丈な自伝出版の糧にしたりとか、パソコンでもやれることはいくらかあったかもしれないと後悔している。
「波乱万丈じゃなくて、怠けていただけっす。そんな自分をどこに売り込むつもりっすか?」
そう、その通り。留年したのも親の仕送りで生活できるのを良いことに遊び呆けたせいだ。
単位なんてギリギリの出席でギリギリの点数を取っていれば貰えるんだ。質なんて関係ない。
そう思って何度も不合格の通知を嘲笑っていた。
尻に火がついたところで猛勉強を繰り返していたが、結果は五分と五分。
勝てば、どうだ見たか、といきり立ち、負ければ、こんなもので人は評価できない、鼻で笑い、それを何度も繰り返し、気付けば卒業もギリギリのラインに立っていたわけだ。
ようやく現実を見た俺に、不合格の烙印を面と向かって押される日が来た。
就職相談。大学を卒業しどうやって社会的に自立していくかを相談する場面。
そこで今までは優しい言葉で俺を否定することもなかった担当の教授が言ったのは「この学歴を見て良い印象を持つ企業があると思っているのかな?」との一言。
追い打ちで「でも学歴で人を判断する企業は良い企業とは言えないね」と笑いながら。
リズミカルな二連撃はようやく現実を見始めた俺に鈍痛を残した。
楽観的すぎる人生だったのを悔み、最後の武器である大学卒業の学歴すら、社会的には否定されなければいけない。自らが招いた結果がそれなのだと、人に言われて初めて痛感した。
まぁ、現実を見たからこそ、自分の学歴やスキルに対して危機を感じていたのも事実だ。それが相手の攻撃力を底上げし、落ち込み度を増大させていたのかもしれない。
練習で書いた履歴書は、本来ならば大学の斡旋でどこかの企業へと送られる事もあるはずだが、さすがに大学も推薦状を書くに値しないと判断したのだろう。
有望なストレート進学の生徒が大多数だ。限られた切符はそちらに渡るのも道理だ。
卒業することすら必死な俺に、未来を展望する光り輝く切符を手にする資格はなかった。
それでも何とか卒業し、直前に両親に公言した一人暮らしでフリーター生活突入。
両親の反対を振り切って一人生活を始め、落ちこぼれが成功するなんて素晴しいストーリーじゃないか!
だけど、そんな話は宝くじに当たるよりも低い確率で、それも努力した人間が偶然にも報われた物語を描いた、本屋で売っている帯付きの書籍でしか繰り広げられないストーリー。
現実は努力と結果が比例しながらも、報われないことが多いらしい。
ゼロに何を掛けてもゼロなのだから、仕方ない。
「そんな現ニートの君にチャンス! 収入ゼロから勝ち組へ、ビッグなお話っす!」
そうだ、そんな話があれば乗ってみたいものだ。
今月は家賃の支払いもきつい。水道は何とかなりそうだが、ガスと電気は来月にでも止まる見込み。
この際どんな話でも乗ってやる。
卒業と同時に失踪するように始めた一人暮らし。
留年した事で必要な単位は早々に取得したと思い込み、およそ一年をかけて大学斡旋のバイトと仕送りを貯め込んで、住まいまでも先に押さえて計画していた自立への道。
最後の最後で必須単位を見落としていて、一ヶ月はバイトを止めたが、一年は生活できるように計画していた事が幸いし、当初は一人で生きていることに陶酔して、一種の自己満足を味わっていた。
一方で捜索願いの一つぐらい出してくれるとどこかで期待している自分も居た。
しかし今になっても何の連絡もないのは勘当でもされたからだろう。
一人暮らしを公言したときに反対されたというのも格好をつけたいがための脚色。
実際は「そうか」と言われただけ。何の興味も持たれなかった。
学生寮の時は備え付けの電話でしか連絡はしなかったし、したと思えば仕送りの話ぐらいで淡泊なものだった。
自分では人生の岐路を告白する重大なイベントだった電話の内容も、結局は三文字で終わってしまい、その後に続いたのは今月の仕送りのタイミングを報告するものだけだった。
卒業してしまえば学費という出費は消えるし、内定の知らせもなければ職無し能無し扱い。
それに向こうでは兄貴が両親を安心させるために実家通いで仕事をしているはず。
俺が学生の時点で課長、さらに昇格の話が来ていると聞いたことがある。
五年近く前の話だが、四歳違いの兄貴はあの時点で出世街道に軌道を乗せていたのだ。
そんな成功者が隣にいて、今でも無理矢理契約している携帯への連絡も無いということは、もう見捨てられていると考えても仕方ないだろう。
事実、俺を見捨てたところで金食い虫が一人減るだけなのだ。
それも早とちりだと考えたいが、そう思いながら携帯の着信履歴を毎朝チェックし始めてから早二年が経過している。
諦めて実家に戻ったところで罵声を浴び、一人でやってきた二年間を否定されるだけ。
それなら自立の道を選ぶ!
事実、フリーターとしてこれまで生きて来れたじゃないか!
「でも借金生活目の前っすよ? 現実は甘くないっす」
それも分かっている。
ただ世の中にはそんな人はいくらでもいるはずだ。
「だから、そんな窮地に助け舟がこうしてやってきたっす。感謝しろっす。素直に手を伸ばせば生活も一変、もしかしたら一戸建ても買えちゃう人生に?」
さっきから訳のわからないことを一体誰が・・・・・・
「どなたですか?」
「今気づいてるあたりボンクラそのものっす。でもボンクラでもネクラでも来る者拒まず、それがルカのような妖精のモットーっす!」
それは突然現れて、場違いな明るさで、信じられないぐらい自信満々の、変な生き物だった。
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年齢は二十歳ぐらいだろうか?
雰囲気というと漠然としているが、身長は小柄、顔立ちもあわせると見た目は十代半ばともとれるが、何となくそれよりも大人びている感じがする。
薄い緑の髪を頭上で束ね、ポニーテールというやつだろうか、束ねた先はうなじ辺りまで垂れている。
アニメやゲームの世界ならまだしも、こんな目立つ色に染めている人は街中では見たことない。
それに髪よりも少し濃いめの緑の瞳。
カラーコンタクトでも付けているのだろうか。
耳は人の耳というには横に伸びていて、先端の尖りが目立つ長めのもの。
ゲームとかでよく見るエルフの耳? 形容するならそれだ。
中でも目立つのが背中に付いている二つの羽らしきもの。
何に似ているかと言えば、強いて言えるのが蜻蛉のそれ。
ただ大きさは両手を広げてようやく両方の端に届くかどうかで、それこそアニメやゲームの世界でありがちのアレ。
身にまとう服装も少なからず路上で見かけるような服装ではない。
不思議なのは、どう見てもハロウィンぐらいでしか見かけないコスプレをしているよく分らない少女の像が、違和感なく佇んでいる。そう感じてしまっていること。
「あの、申し訳ありませんが、どこから入ってきました?」
そんな不思議生物に対して俺が投げかけた最初の質問。
所感なんてどうでもいい。とりあえず不法侵入だろ!
何故かその一点に対して譲れないものがあった。
「押入れからっす」
「押入れに外からの出入り口はありません」
「ずっと住んでいたから出入りはしていないっす」
「二年間、ですか?」
「ずっと引きこもってたっす」
いやはや何という精神力だろうか。
二年間も布団を出し入れする時ぐらいしか光の射さない空間で籠りっきりとは。
この少女が入れるようなスペースは残ってなかったと思うが。
「で、僕に何の用件でしょうか」
「さっき説明したはずっす。ボンクラに加えトリ頭、と」
気付けば少女は何かを何かにメモし始めた。
視線はそらしていないはずだが、メモ帳らしき何かとペンらしき何かがどこから出されたかは確認できなかった。
奇術が得意なコスプレ不法侵入者か。
ついでに語尾が変なのと口が悪い。
「では、百歩譲ってさっきの話が本当だとして。妖精とは一体誰のことでしょうか?」
「ルカのことっす。確かめてみてもいいっすよ?」
ルカとはこの少女の名前だろうか。
確かめてみろと仁王立ちされても何をどう信じろというのか。
とりあえずこれ以上関わっていると頭痛がしてきそうだ。
俺は少女の後ろまで歩いて羽らしきものを摘んで思いっきり引っ張った。もちろん玄関へと。
「とにかく不法侵入ですから出てってください」
「痛いっす! ちぎれるっす! ルカの羽は繊細っす! 思いっきり引張るなっす!」
少女の悲痛な声と同時に指が離れた。
年頃の若い女の子の声が部屋に響き渡り焦ったから、とかそういう理由じゃない。
摘んでいた羽らしきそれが動いたからだ。
正確には他の三翅がばたついて、摘んでいた羽は腕を振りほどけるぐらいの力で抵抗してくるのを指先に感じた。
感じ取った力の強さからして、小柄な人であれば宙に浮かすことも出来そうだ。
力いっぱいに三本指で摘んでいた俺の指は抵抗する間もなく羽らしきそれから離れ、驚いて咄嗟に振り返った。
思っていた通り、少女が宙に浮いている。天井すれすれぐらいのところで頬を膨らましながら。
「確かめるのにもやり方があるっす! ちぎれたら慰謝料ものっす! こうなったら契約が成立しても対価追加っす!」
言っていることはよく分からないが、あの薄い服の中にモーターを仕込んでいて、それが羽を動かしていて、その力で宙に浮くことが出来て。
それはさすがに有り得ない。
「…人間じゃない?」
そうつぶやいたのは適切だったと思う。
「ボンクラ! さっきからそう言ってるっす!」
それに対し今日一番の勢いで叫ばれた。
言葉遣いが少々荒いが、見た目のせいでそれも愛嬌に感じる。
何だか信じるには材料が少なすぎるが、否定するにも材料が欠けている。
今のところは危害も加える様子もない。
「話ぐらい聞きやがれっす。悪い話をしに来たわけじゃないっすよ」
話を聞くぐらいなら良いだろう。
俺は混乱する頭をなだめながら大きく溜め息をついた。
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普段は布団を敷くスペース、八畳間のど真ん中辺りまで少女を誘導して座らせる。
一人暮らしで座布団の一つもないことに不平を洩らしたが、押入れ引きこもり歴二年なだけあって衣食住に対する懐事情は知っているようで、不平のあとすぐに納得された。実にムカつく。
少し間をおいて対面に座ってみるが、その容姿はやはり不思議としか言いようがない。
可愛くないと言うと嘘になる。ゲームのキャラなら真先にパーティに加えても良い。
ただ現実となれば不気味に感じるだろう。遊び呆けていた学生時代に何度か妄想した『もし現実世界にこのキャラが居たら理論』からすればそうなるはずだ。
それが予想を裏切り、妄想世界でしか存在し得なかった目の前のそれを、冷静なはずの頭が受け入れている。
嬉しい誤算と言うべきか。
「何想像してるっすか。大事な話っすよ」
「あ、いや、悪い」
どうでも良いことを考えたら口調まで弛んでしまった。
自分自身ゲーム脳なのかと疑った事は多々あるが、目の前のこれは明らかにゲームの世界だ。
「むー、でもそっちの方が良いかもしれないっす。他人行儀はあまり好きじゃないっすから」
「そっち?」
「話し方っす。いわばルカは同居人っすよ。運命共同体っす」
うん、やっぱり何を言っているかよく分からない。
ただし話し方はフランクな方が良いようだ。
拒否反応も無くなってきたところだ。俺もそっちの方が気楽かもしれない。
「で、契約ってのは?」
「ようやく聞く気になったっすか? それじゃあ説明するっす!」
随分と嬉しそうに少女が説明を始めた。
突然出現した何枚かの説明用資料らしきものには突っ込まないでおこう。
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[ボンクラにも分かりやすい! 妖精との契約について]
1.妖精の雇用について
妖精を雇用するにあたり雇用主(今回はボンクラのことっす)は必要に応じた対価(お金とは言ってないっす。でもルカに対する給料っす)を支払うことで、妖精を然るべき(ようは何でもいいってことっす)業務に従事させ、その報酬(給料っす)を得ることができるものとする。
(あと細かいところは飛ばすっす。ルカへの給料が止まらなければルカの働いた分はボンクラに入るっていう算段っす)
2.妖精の従事レベルについて
従事レベルとは年間を通じての報酬により(つまりルカの年収のことっす)以下のように決定する。
レベル0:0ポイント以上百ポイント未満
レベル1:百ポイント以上三百ポイント未満
レベル2(これ以上はボンクラとは無縁な話っす。省略っす)
従事レベルは契約時に決定し、契約解消まで変更できないものとする。
3.対価について
必要な対価の定義は明記せず、(面倒だから省略っす! 気分次第ってことっす)
4.福利厚生
(とてつもなく面倒だから全略っす! 言葉で説明した方が早いっす!しても意味ないっすけど)
5.多重契約について
(浮気、ダメ、ゼッタイっす)
6.再契約について
(ボンクラはそんなこと言ってる場合じゃないっす)
(以下余白っす)
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「以上っす!」
随分と自信満々だ。
「質問」
「どうぞっす」
「よく分らない」
「えー」
いや、こっちの科白だよ。
「えーと、順番にいくと、君が働いた分の給料は貰っても良いけど、対価として何かを支払わないといけない。まずそれが何か教えてほしい」
「従事レベルはどうするっすか?」
と言われても困る。
何せ睨めっこを強いられているこの資料、その従事レベルについての項は省略が激しすぎる。
「まずポイントって何のことで?」
「あ、そういえばそこまで消してたっす。ポイントは1ポイントにつき一万円っす。つまり百ポイントは年収百万円の収入をルカが得るってことっすね」
なるほど。つまり年間百万円相当の対価を払えば、俺が働かなくても収入が得られると。
三百ポイント以上が消されていたのはそういうことか。歯がゆい。
「ちなみに従事レベルを決定した後からでも契約するかどうかは選べるっす。でも対価は言わないっす。それを言ってボンクラが余計に働かなくなったらもう一枚の資料を出すしかないっす。ひとつ約束できるのは表示されている従事レベルの対価ならボンクラでも払えるってことっす」
今頃だがボンクラって俺のことか。癪だがこの不思議生命体に呼び名の抗議をしても無駄か。
もう一枚の資料とやらが気になるが、従事レベルに関しての選択肢は0か1か。
仮に0だとすれば0ポイント、つまりそこに存在するだけで対価は要求されるお荷物となる場合もあるというわけだ。これでは最初の口振りからして内容が矛盾する。
「なら、従事レベルは1、かな」
「了解っす!」
働くことがそんなに嬉しいのだろうか。目を輝かせて笑顔で返事を返してくる少女。
「それじゃあ百ポイントぐらいでいくっす! それなら今のボンクラでも払えるっす!」
年間百万円とするなら月に約八万円。家賃と光熱費、食費を込みで少し足が出る程度。
それに自分の給与が全部上乗せされる。今の生活水準ならば一気に楽になる。
確かに悪い話じゃない。
それに『今の俺』でも十分に払える対価と言うのだ。
「じゃあ、対価を教えてくれるのを条件に契約しよう」
しかし嘘とは言い切れない。他の全てが本当だとしても対価の部分が嘘では良い話どころか詐欺話だ。
念の為にと何気なく加えた条件だが、結果として少女の表情をようやく思い通りに操作することが出来た。ちょっとした反撃に成功した気分だ。
「ボンクラと思いきや考えてるところは考えてるっすね」
「当然のことだろ」
得意げに言ってみたが、その発想に辿り着く根拠は過去の日雇いの仕事で文面に誤魔化され、時給の半分以下も貰えず狸寝入りした経験があったためだ。
高い賃金に騙されて重労働をした結果、良い話には裏があると教訓を得るだけに終わった。
「むむむ…分かったっす。対価は『同棲させてくれる』ってことっす。ご飯はいらないっす。人間みたいな空腹感は持ってないっすから」
なるほど、それなら確かに支払える対価だ。
「……いや、ちょっと待った。同棲って、今までも押入れに居たんじゃないのか?」
「えーと、既に姿が具現化された以上は思念体の時のように押入れにこもるなんて無理っす。一つ屋根の下で同じ人間として同棲するしかないっす。じゃないと、ルカは路頭に迷うしか、ないっす…」
うぐ、思いもよらない反撃だ。
さっきまで随分と活発だった少女がいきなり怯えるように俯いた。
突然のこのギャップは卑怯だ。
どういう事情があるのかは知らないが、食費もかからない年収百万円の、それも割と見た目も良い少女が、俺の判断一つでホームレスの仲間入りって話なのか?
何でそうなるか何一つ理由は分からないが、何故だかそんな気がする。
理性を保っている部分の意識が、ここで断ることに全力で警鐘を鳴らしているのも根拠の一つだ。
「分かった。分かったから、それでいい。契約とやらも成立させる。大丈夫だから」
何を言っているのか。俺の理性が選んだ言葉がよく分らないぞ。
「本当ならここに印を押すっす…認印でいいっす」
駄目だ。この感じだと断りきれない。いや、断る気が百パーセントってわけじゃないが。
認印でも良いならさっきまで書いていた履歴書の横に置いてあるはず。
ただ焦りながら判子を手に取ると、すぐに印を押していた。
「…これで契約成立っす! よろしくっす!」
手のひらを返すとはこれか。
別人のように表情を明るくする少女にハッとなる。
押した瞬間に大げさな煙を立てて消えてなくなる資料。
原理は不明だが時すでに遅しか!
「どうしたんすかー? ちょっとルカが心配にでもなったっすかー?」
意地悪な笑みでこちらを覗きこむ少女に俺は言い返せなかった。
「感傷的になってるなら冷静に認印なんて単語出さないっす。それに契約したからには一年間は破棄出来ないっす」
「そんなこと書いてなかっただろ…」
「省略したっす。ボンクラにその選択肢はなかったっす」
余白の目立つ資料恐るべし。同じ内容について延々と書かれているのも怖いが。
「それじゃあ路頭に迷うってのは演技か?」
「それは本当っす。でも、信じた相手にしか本当の姿を見せないのが妖精っす」
「俺の何を信じたって言うんだよ」
「えーとっすね、一人暮らしを選んだ本当の理由、とかっすかね」
少女が笑った。
その笑顔に俺は何も返す言葉が思い浮かばなかった。
「そんなことよりも、自分のことを心配した方がいいんじゃないっすか?」
そうだ。そもそも来月の生活が危ないのだ。
この子が働くとしても、俺が働き先を見つけてすぐに収入を得なければ目先が真っ暗だ。
「ま、それも込みでサポートするのがうちらの仕事っす。安心するっす」
そう言って見せてきたのは採用通知の紙が一枚と履歴書が一枚。
黒髪で黒い瞳の少女は清楚な印象を受け、履歴書は整った書体で見本として見るような綺麗なものだ。
「ボンクラにはルカがの髪の色とか、どう見えてるっすか?」
「どうって、緑としか言いようがないし。そもそもその羽は」
「確かにルカの姿はそれが正解っすけど、他の人間にはそうは見えないっす。飛んだりしなければ他の人間と区別はつかないはずっすよ。服も一般的なものなら作ることもできるっす」
なんというご都合スキル。しかし何とも便利な能力だ。
すぐに「自分のしか作れないっすけど」と加えられたのは思考を先読みされた結果だろう。
「明日から働き始めて給料は来月頭に入るっす。百ポイント程度の仕事なら受かるも働くも楽勝っす!」
この微妙に刺さる毒さえ吐かなければ本当に良いのだが。
しかし採用通知も履歴書も偽物じゃなさそうだからぐうの音も出ない。
「あ、言い忘れてたっすけど、対価をもう一つ追加するっすよー?」
羽を引っ張った時に言ってたやつか。
ああ、この際だ。何でも言ってこい。
「夕食に白米とたくあんが欲しいっす!」
「は? たくあんって漬物の沢庵漬けか?」
「そうっす! あれがあれば三百ポイントでも頑張れるっすよ!」
「何個ぐらい」
「そうっすねー茶碗一杯の白米に三個ぐらいは欲しいっすね!」
「無かったら?」
「気が狂っちゃうっす! たくあんが無いと許さないっす!」
沢庵漬け:大根を糠と塩などで漬けた漬物。一日三切れ、月に千五百円ぐらい。
「わかった。わかったよ。なんだか悲しくなってきた」
「本当っすか! やったっす! 言ってみるもんっす!」
何で沢庵。もうこの少女に対しての『何で』は考えない方が吉かもしれない。
「じゃあ今日から名前はタクアン。タクアンって呼ぶからな」
「え、なんでそうなるっすか。うちにはルカって名前が」
「買ってあげないぞ。そもそも契約後に対価を追加するのは良いのか?」
「うぐ、そ、それはダメっすけど…」
「なら沢庵の対価はタクアンって呼び名」
「そ、それならせめてクアンの方が良いっす! タクアンだと漬物妖精だとか言われて馬鹿にされそうっす!」
「クアンだと言いにくいな…クアで譲歩しよう。その代わり俺のことも名前で呼ぶよな?」
「むむ、でもたくあんの為なら何でも受け入れるしかないっす」
謎の執着心だが、少女に対してはいいネタを掴んだようだ。
いや、クアと呼ぶべきか。
「俺はタカオ。履歴書にも書いてあるだろ」
「分かったっす。これからはタカオっす」
クアは不服そうな顔をしながらも素直に従った。
これからはこれをネタに先手を取れそうだ。
「とにかく、タカオ、これからよろしくっす!」
こうしてよく分らないうちにクアとの共同生活が半ば強制的に始まってしまった。
訳が分からないし、理解できない部分も残されたままだ。
布団は一枚しかないけど、しばらくは畳で寝るのも悪くない、かもしれない。
一人じゃないのも悪くない、かもしれない。
ようやく片付けることの出来た写真立てや床に散らばった紙くずを袋に入れながら、そんなことを考えていると、少し気持ちが落ち着いていくのを感じた。
「しかし何もない寂しい部屋っすねー。すぐに家具とか買ってあげるっす」
「余計な御世話だ」
願わくば、こんな不思議な存在のヒモにだけはなりませんように。
いや、ならないようにどうか万事平穏に進み、クアよりもまともに働けますように。
落ち着いた一方で、焦り交じりの競争心が生まれるのも確かに感じた。