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早期退院

「少尉、痛みはあるかね? 」

白髪で眼鏡をかけた目の細い軍医は僕が手術を受けた右肩の傷の周辺を手で触りながらそう聞いてきた。

「軍医殿、今は殆ど痛みはありません。」

「本当かね? では右腕を横に開いてそのまままっすぐ上に伸ばせるかね? 」

僕の返事を疑うように軍医はそう指示してきた。僕は言われた通り右腕を動かそうとしたが途中で出来なくなった。右肩に激痛が走ったからだ。僕は思わず顔をしかめた。その様子を横で見ていたリリーが心配そうに僕に寄り添う。

「痛いだろう? やっぱりまだ治っとらん。もう暫く我慢して入院せい。」

軍医は僕にそう言った。だが僕は軍医に負けずに言い返した。

「ですが軍医殿、私は原隊になるべく早く復帰するように言われております。戦車兵ですから右腕を使って手榴弾を投げることもありません。退院の許可を頂けないでしょうか? 」

実は僕はシラー少将から早く前線に戻れという催促を何度も受けていたのだ。催促を受けてしまった以上は努力はせねばならないと思い今日の僕は診察室で軍医を相手に早期退院の許可を得ようといろいろ頑張っていたのだ。だが軍医は僕の背後にまわりこみ肩を触診しながら目すら合わさずに言った。

「今無理をすると一生肩が上がらなくなるぞ。お前さんのような若いもんは人生まだまだこれからだ。身体は大切にしろ。言われた通りにせい。」

「しかし軍医殿、私の戦友は最前線で今も戦っております。彼らの元に一日でも早く帰るように言われているのです。」

「駄目だ。」

軍医の態度には全く取り付く島がなかった。でも僕は軍医に食い下がった。

「そこを何とかお願い出来ませんでしょうか? 」

「くどいっ! 」

軍医は怒ってしまったようでそこで診察は中断となってしまった。僕は上着を渡されると診察室からリリー共々追い出されてしまった。

「先生は嫌なのよ。若い兵士の怪我をきちんと治すことも出来ない間に戦場に送り返さなければならない現状がね。だからあんなに怒ったの。悪い人ではないのよ。」

診察室を出てドアを閉め自分達の病室に向って歩きだすとリリーは僕に上着を羽織らせながらそう言った。

「軍医殿の思いも分かるけど今は大変な時期だからね。前線では一人でも多くの兵士が必要だろうし。……でも正直なところほっとしたよ。」

「え? 」

リリーは驚いた顔をして僕の方を見た。

「前線では皆辛い思いをしてる。早く戻って皆を助けなきゃいけないって気持ちは勿論あるんだけど正直戦場に戻りたくない気持ちの方が強いよ。僕が本気で戦場に戻りたいと言っているとでも思ったのかい? そんな訳ないよ! だから軍医殿が僕に退院を許可しなかった時は正直嬉しかった。君とのここでの暮らしは天国だよ。戦友には申し訳ないけどね。」

それを聞いてリリーは言った。

「……良かった。さっきの話を聞いていたらあなたが本気で早くここから離れたいと思っているのかと思って悲しかったの。でもフランツ、あなたは今までしっかり義務を果たしてきたわ。怪我をした今はすこしぐらいここでゆっくりしたっていいとあたしは思うわ。」

リリーはそう言うと俯いてすこし寂しそうな顔をした。リリーのその表情を見て僕はこの時以降リリーの前では退院の話はしないでおこうと思った。


「おい! フランツ! 」

自分の病室のドアを開けて中に入ろうとしていると背後から声を掛けられた。その太く低い声に振り向くとバウアー大尉が病院の廊下を小走りに僕に向かって近づいてきている。大尉は全身黒の戦車兵用の制服を着ていて僕はその姿を見てピンときた。大尉はおそらく今から前線に帰るのだ。

「フランツ、俺は今からアマクヤードに戻ることになった。お前はまだ暫く入院しているのか? 」

敬礼もそこそこに大尉は僕にそう話し掛けてきた。僕は大尉に申し訳ないと思いつつ正直に答えた。

「さっき軍医殿からはまだ入院していろと言われました。第七装甲師団としては一人でも多くの兵を早く前線に戻らせたいところなのでしょうが……」

そこまで言いかけると大尉は笑いながら僕の話を遮って言った。

「フランツ、今は何も気にせずゆっくりと身体を休めろ。俺や前線のハンス達に気を遣うこともない。お前は今まで頑張ってきたんだ。すこしぐらい休憩したって誰も文句は言わん。」

大尉は優しい目で僕とリリーを交互に見ながらそう言った。

「今ぐらいしかゆっくり出来る時はないぞ。病院での彼女との生活を楽しんでおけ。戦場に戻ればこんな綺麗なお嬢さんにはお目にかかれないのだからな。」

大尉はそう言うと微笑んだ。リリーはすこし顔を赤らめている。だが恥ずかしかしそうにしながらも彼女はしっかりと大尉に会釈をした

「じゃあな、フランツ。」

そう言うと大尉は僕らに背を向けて去っていった。その後姿を見送りながらリリーが僕に言った。

「あの人がフランツの上司なの? 」

「そうだよ、バウアー大尉には昔からずっとお世話になっていてさ、厳しいけど凄くいい人だよ。」

僕がそう言うとリリーは頷いてこう言った。

「あなたのことをとっても気に掛けてるのが分かるわ。いい上司に巡り会えて良かったわね。」

リリーはそう言うとすこし寂しげに笑った。僕は何も言わずに彼女の肩を左手で抱き寄せるとそのまま部屋に入ってドアを閉めた。そして僕達は強く抱きしめあった。それは大尉の言葉によって無意識のうちに刺激された僕らが二人だけの限りある時間をすこしでも密に過ごそうとしているかのようであった。


その後僕とリリーは一週間ずっと一緒にいた。僕らは二人で食事をしたり散歩したりしただけなのだがそれは最高に楽しい一時だった。戦争前であればたわいなかったことが今ではとても特別なことに感じる。だが皮肉なことに僕の肩の具合はどんどん良くなって殆ど痛みを感じないようになってきていた。毎日一回僕は診察を受けるのだがいつ軍医が「怪我はもう治っている」というのかと思うと怖くて仕方がなかった。だがバウアー大尉と別れてから八日目の診察の時、その瞬間は訪れてしまった。

「ふむ、だいぶ良くなっているようじゃな。」

軍医は僕の上半身の服を脱がせ肩の傷の周辺を触りながらそう言った。軍医は僕の回復の早さに驚いたような様子で言葉を続けた。

「もうすこし時間が掛かると思ったがもう大丈夫だろう。リリーの手厚い看護のお蔭だぞ、これは。」

軍医はそう言ってニヤニヤしながら僕とリリーを見た。リリーは顔を真っ赤にして軍医の視線から逃れるように僕の背中へその小さい身体を隠すようにしている。

「では退院ということでしょうか? 」

この数日間のリリーとの甘い生活が終わってしまうかもしれない、そう思うと切なさに身を切られる思いだったが僕は思い切って軍医に聞いた。

「今がこんな御時世でなければあと四〜五日は念の為様子を見たいところじゃがな。この病院自体に軍から動ける負傷兵の七十%を最前線に戻せという命令が届いておる。お前は明朝退院だ。」

僕はその言葉を聞いて一瞬何も考えられなくなりただ軍医の顔を見つめていた。頭の中がし〜んと静かになって何を喋ったらいいのかも分からない。その後僕の感覚としては一時間ぐらい軍医の顔をただ見つめているだけのような感じだった。

「だが無理をしてはいかんぞ。肩は完全に治っている訳ではないのだからな。」

軍医が続けて発したその言葉が頭の中の静寂を破って僕はようやく正気に戻った。僕は軍医に何か言わなければいけないと思い慌てて御礼を言った。

「軍医殿、今までありがとうございました。」

僕は短くそう言うと自分が受けたショックを隠すように上着を羽織り急いで診察室を出ようとした。もうこの病院にはいることは出来ず僕はまた死の恐怖に怯える生活に戻りリリーとも別れなければならない。そう思うと覚悟はしていたとはいえ辛さが胸にこみ上げる。だがバウアー大尉やハンス達は今も最前線で戦っているのだ。僕一人楽を続けて良い訳はなかった。そういったさまざまな思いが一瞬にして頭を駆け巡る。診察室を出てふとリリーを見ると彼女はもう大粒の涙をこぼしていた。彼女も辛いのだ。僕らは部屋に戻ってから次の日の朝まで抱き合ったまま何も喋らなかった。


「じゃあ……行くね。」

次の日の朝出発の支度を終えると僕はベッドに座っているリリーにそう言った。だが彼女は俯いたまま何も言わない。

「リリー、僕がここまで順調に回復したのは君のお蔭だよ。ありがとう。」

僕はそう言うと彼女の頭を撫でた。もう二度と会えないかもしれないと思うと涙が出そうになる。だが僕が兵士である以上はもうこの別れは仕方のないことなのだ。僕はその考えで自分の感情を必死に抑えた。そして黙ったままの彼女に背を向けて部屋を出ようとした。すると小さく彼女が言葉を発した。

「手紙……ちょうだい。」

「えっ? 」

僕が振り向くとようやく彼女はベッドから立ち上がり僕の顔を悲しげな瞳で見つめている。

「あなた、この前の入院のあとあたしに二回しか手紙をくれてないわ。もっとちょうだい。」

前回入院してから今日までリリーは沢山の手紙を僕に送ってくれていたが僕は彼女の指摘通り二回しか返事をしていなかった。僕はもともと筆不精でそんな僕が任務の合間に二回も手紙を書いたのは凄いことだと自分では思っていたのだが彼女にすればそれは不満らしい。僕はようやく口をきいてくれた彼女に微笑んで言った。

「分かったよ。もっと書くようにするよ。」

僕はそう言うとまた彼女の髪を撫でた。彼女は僕の顔を見つめていたがその目にはまたどんどん涙が溜まってきている。

「それと……生きてまたここへ帰ってきて。」

彼女がその言葉を絞り出した瞬間彼女の頬を涙が伝った。僕は彼女を抱きしめて言った。

「努力するよ。」

僕はそれだけ言うと彼女にキスをして部屋を出ていった。本当は「必ず生きて帰るよ。」と言ってあげたかった。だが僕がどうしようとも生きて帰れる保証など得ることは出来ないのだ。そう思うとその言葉はとても軽くその場凌ぎなものに感じられたから僕は使うことは出来なかった。僕は彼女との甘い生活への未練を断ち切るようにそのまま一度も振り返らずに病院を後にした。

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