退院
「凄いわね、フランツ! もう杖無しでも歩くのは大丈夫ね。 」
リリーが僕に向かって微笑みかける。
「ありがとう、リリー。君がリハビリに付き合ってくれたおかげだよ。」
入院して二週間、僕は多少の痛みはあったものの傷はほぼ癒えて歩くことが出来るまでに回復していた。その日も病院の廊下を手摺にも杖にも頼らず歩く訓練を朝からしていたのだ。
「今日はこれぐらいにしておきましょう。もう夕方よ。部屋に戻ってて。食事を持ってくるわね。」
彼女はそう言うと病院の一階にある炊事場に行ってしまった。僕は一人部屋に戻りベッドに腰掛けて彼女が来るのを待っていた。
「はい、お待たせ。今日は野菜たっぷり栄養満点のスープよ。どうぞ召し上がれ。」
彼女は満面の笑みで僕に食事を運んできた。
「また野菜か、たまには肉が食べたいよ。」
「お肉なんてもう食べられないかもよ。あたしもここへ来てからは野菜とパンしか食べてないんだから。さあ、一緒に食べましょう。」
彼女はそう言うとまたニコッと微笑んだ。そして僕らは二人で食事を始めた。
「フランツ、あなただいぶ元気になったわね。」
「君が面倒を見てくれたからさ。」
僕らはスプーンですくったスープを口に運びながら会話を始めた。だが暫くするとリリーはその手を止めて急に黙ってしまった。
「どうしたんだい?」
リリーの様子がおかしいのに気付き僕がふと彼女の顔に目を遣ると彼女は目に涙を溜めていた。僕は驚いてスプーンをトレーの上に置いた。彼女はそんな僕に気が付いて慌てて涙を拭って言った。
「ごめんなさい。あなたが元気になってくれるのは嬉しいんだけどあなたがこのまま回復したらまた戦場に戻ってしまうでしょ?それを思ったらつい……」
彼女はそこまで言うと堪えきれなくなったようで泣き崩れた。彼女は僕に好意を持ってくれているのだ。それはすこし前から何となく気が付いていた。だが怪我が治れば僕は必然的にここには居られなくなる。エヴァとひどい別れ方をしてから恋人のいない僕もこの二週間献身的に支えてくれたリリーには好意を抱き始めていた。だが怪我が治っていつかこの病院を離れることが分かっている僕がリリーに僕の気持ちを伝えていいものだろうか?余計別れの日が来た時に辛い思いをするのではないだろうか?それを思うと僕は自然にリリーとの距離を取っていた。だが今日はリリーの雰囲気がいつもと違った。リリーは身体を寄せて自分から僕に抱きついてきた。そして僕らはその時初めて口づけを交わした。彼女の唇の温もりが僕の唇に伝わってくる。僕も彼女に対する気持ちを抑えきれなくなった。
「リリー! 」
「あぁ、フランツ! 」
その後僕らは激しく愛し合った。その抱擁は少なくともその日の時点ではお互いの生と心が通い合っているということを確認する作業のようでもあった。
「さぁ、フランツ、起きて!お客様が来られてるわよ!」
次の日の朝僕はリリーの優しい声で目が覚めた。一緒に寝ていたはずのリリーはもう既に起きて仕事をしている。僕は昨夜からかなりぐっすりと眠っていたようだった。それでもまだ寝足りない僕は目を擦りながらリリーにおはようのキスをした後に問いかけた。
「誰だい? 客って? 」
「ハンス・メルケル曹長って言ってたわよ。」
「え! ハンス!? 」
僕は思わず飛び起きた。急いでパジャマを着ると客人が待つ一階の部屋へと下りて行きその部屋の扉を開けた。するとこの前まで一緒に戦車に搭乗していたハンスが目の前にいた。ハンスは僕の顔を見るとニコッと笑った。ハンスは軍服を着ていて二週間前と全く変わっていないように見える。僕も思わずニヤッとしてしまった。
「フランツ少尉! やっぱり少尉だったんですね! たまたまさっき名簿で名前を見かけたものですから。僕も隣の病棟に入院していたんですよ。 」
「そうだったのか!? でも元気そうじゃないか! ハハッ! 」
僕らはお互い命があることを抱き合って喜んだ。
「少尉は怪我の方はもう大丈夫なのですか?」
パジャマ姿の僕を見ながらハンスが言った。
「脇腹と足に破片を喰らっていたよ。でももう歩けるようにはなったけどな。お前は? 」
「私は右肩をやられました。まだ完治してはいませんが前線は人手不足らしく明日マイハに戻ります。」
「明日? そりゃ急だな。ところでリールとピエールは? あの二人はどうしてるか知ってるか? 」
僕がそう言うとハンスの顔が急に曇った。暫く間をおいてハンスはすこし俯きながら言った。
「あの二人は……脱出出来ませんでした。」
「え……?」
僕はハンスの言葉を聞いた瞬間その言葉の意味が理解出来なかった。頭の中で何度もその言葉の意味を咀嚼しなければならなかった。
「リールはおそらく即死だったと思います。僕が脱出する時にリールの方を見たら既にぐったりとしていて動く気配はありませんでしたから。ピエールは脱出したものだと思っていたのですが……残念です。」
「……そうか」
彼ら二人のことを考えると寂しい気持ちになる。短い期間ではあったが共に戦った仲間である彼らの人生の幕は閉じてもう二度と開かれることはない。人間の一生なんて儚いものだとつくづく思った。
「……いつ死んでもいいようにその日その日を精一杯生きろって誰かが言ってたな。本当にその通りだな。」
僕は思わず独り言を呟いた。その後二人の間にしばしの沈黙が流れる。だが暫くするとハンスが時計を見ながら立ち上がった。
「少尉、僕はそろそろ行きますよ。トラックがもう来る時間なんです。先にマイハで待ってますね。」
「そうか、時間が無いのにわざわざ来てくれてすまない。バウアー大尉に会ったら宜しく言っておいてくれ。」
ハンスは帽子を被りながらニヤッと笑って言った。
「大尉を一人前線に残してすみませんでした! って謝っておきますね。」
「ハハッ! その時蹴りを喰らわないようにな。じゃあな、頑張れよ、ハンス。」
僕らは最後に握手をして別れた。そしてその日の三日後に僕にも前線へ戻れという命令が下った。
「リリー、今まで本当にありがとう。君がいてくれたからこそ怪我もすぐ治ったんだよ。僕が元気になれたのは君のおかげさ。」
原隊復帰の命令が出た翌日の朝、リリーと僕はベッドに並んで座っていた。僕はいつも着ていた病人用のパジャマでは無く新しい軍服を身に纏っている。僕は彼女の左手の上に右手を重ねて優しく話しかけたが彼女は反応しない。目に涙を溜めてずっと下を向いている。
「こっちを向いてよ、リリー。」
そう言ってもリリーは僕の方を向いてくれなかった。今日は僕がいよいよ戦場に戻る日なのである。怪我の痛みは辛かったがリリーと過ごしたこの二十日間は僕に取って楽しすぎる日々だった。正直戦場に帰るのは嫌で逃げ出したかった。また死の恐怖と常に隣り合わせの生活に戻らなければならないのだ。このままリリーと二人で過ごせればどんなに安心で安全な生活を送れるか。だがそれは出来ない。戦場ではバウアー大尉や、ハンスが祖国の為に頑張っているのだ。そして死んでいった者達の為にも僕は義務を果たさねばならない。僕はチラッと時計を見た。もう迎えのトラックが来るまで十分しかなかった。するとリリーはその僕の様子に気が付き初めて声を発した。
「……そろそろ行かなきゃね。」
「あぁ、そうだね。」
彼女は立ち上がるとテーブルの上に置いてあった僕の上着を持ってきてくれた。
「ありがとう。」
僕はそう言って立ち上がり上着を着た後彼女を抱きしめた。ひょっとしたらもう二度と会えないのかもしれない。ふとそう考えると僕の目にもいつの間にか涙が溢れていた。リリーへの愛情と感謝、そして別れの辛さ。それに加えて過酷な戦場に戻らねばならない自分の運命への嘆き。いろいろなことが頭の中を駆け巡る。だがこれが現実なのだ。受け入れなくてはならない。僕は考えるのをやめた。
「……手紙……書いてね。」
リリーが僕の胸の中でハンカチを目に当てながら小さな声を発した。僕も涙がこぼれ落ちそうになるのを堪えながら返事をした。
「勿論さ。じゃあ行くね。」
本当は「戦争が終わったらまた会おう」とか「今度負傷して帰ってきたらまた手厚く看護して」とか彼女を喜ばせる台詞を言ってあげたかった。でも僕自身に生きて帰れるという自信も根拠もないのにそんな言葉を彼女にかけてあげたところでそれは薄っぺらい気休めに過ぎない。僕はそう思ってそれ以上は何も言わなかった。僕はリリーとお別れのキスをして彼女を一人残し部屋を出た。そして階段を下り病院の玄関まで歩いていくとマイハ行きのバスが見えた。
「急いで下さい! そろそろ出発なんで! 」
トラックの運転手らしき男が声をかけてきた。
「待たせたな、すまない。」
僕はそう言うと幌で覆われているトラックの荷台に乗りこんだ。
「では出ます! 」
運転手の掛け声の後トラックは動き出した。トラックの後方部分の幌は開けっ放しになっていてそこからはリリーと過ごした病院が見えている。僕はトラックの荷台から小さくなっていく病院を見えなくなるまでずっと眺めていた。




