病院
目の前に大きな川が流れている。その川の水は濁っていて流れも早そうだった。僕は河畔に立ってその濁流の様子をぼんやりと眺めていた。すると対岸に誰かが立っている。よく見てみるとそれは士官学校時代の同期のオットーだった。久しぶりに見るオットーはぶくぶくに太った体型といい愛嬌のある顔といい以前と何も変わっていなかった。手にワインとワイングラスを二つ持って僕の方を見ている。僕はオットーに話しかけた。
「おい!オットー!そんなところで何してるんだ?」
オットーは僕の問いかけには答えずただ僕の方を見ているだけだった。僕は笑ながらもう一度問いかけた。
「返事くらいしろよ!ひょっとしてお前、手にそんなもの持ってるってことは俺と一緒に飲みたいのか?」
オットーは何も声を発しないが少し微笑んだように見えた。
「ちっ!しょうがねえなぁ!」
僕はオットーのいる対岸へ渡ろうと川へ入っていった。思ったより深く水は腰くらいまである。
「結構深いな!それに流れも早い。そっちまで行けるかな?」
僕がそう言うとオットーは悲しんでいるようにも見えたし微笑み続けているようにも見えた。僕は何も喋らないオットーにすこしイライラして言った。
「何か喋れよ!お前は俺に来て欲しいのか欲しくないのかどっちなんだよ!」
僕がそう叫ぶと今度は僕が立っていた河畔の方から声がした。女の声だ。
「フランツ少尉!」
「エヴァ?エヴァかい?」
その女の声がエヴァのものと思って僕はエヴァの名前を呼んだが河畔には白衣を着た見知らぬ女が立っていた。それが誰か分からなかったので僕はオットーに訊こうとしてまた対岸の方に振り返った。するとオットーは相変わらず複雑な表情のままだったが急に僕に背を向けて何処かへ行ってしまった。
「おい!オットー!何処に行くんだよ!?」
「フランツ少尉、朝ですよ、そろそろ起きましょう。」
その声で僕はハッと目を覚ました。すると目の前には白衣を身にまとった女性が立っている。知らない女性だったので僕は驚いて上半身を動かそうとした。すると腹部に激痛が走った。
「痛っ!」
「まだ急に身体を動かしてはいけないわ。あなたは手術を終えたばかりなんだから。」
「手術だって?」
その女性は微笑みながら僕に話しかけてきたが僕には何のことか分からなかった。白衣を着ていることからどうも彼女は看護婦らしい。僕は自分がどういう状況におかれているのか分からずぼんやりと部屋の中を見渡しながら彼女に問いかけた。
「ここは…病院かい?」
「そうよ。あなたは怪我をして戦場からこの病院へ運び込まれたのよ。」
「怪我をして?」
彼女の言葉を頭の中で反芻して考えているうちに僕は少しずつ記憶を取り戻していった。そしてモヤモヤとしてはっきりしなかった記憶がようやく頭の中で繋がり全てを思い出した時僕は思わず「あっ!」と大声をあげていた。だがその自分の発する声ですら腹に響いて激痛がまた僕を襲った。
「思い出してきた?手術の麻酔の効果で今までは頭がぼんやりしていたのよ。」
激痛に襲われながらも僕は全てを思い出した。雪の中の戦闘で敵部隊を壊滅させたこと、その後被弾して脱出する時にバウアー大尉に助けてもらったこと、その時身体が言うことを聞かなかったこと。僕は自分がどこを怪我したのか気になってベッドの上の毛布をめくって自分の身体を見た。すると右足の太腿がぐるぐると包帯巻きにされていた。着ているシャツをめくると腹にも包帯が巻かれている。
「あなたは脇腹と太腿に鉄片が食い込んでいたの。その鉄片を取り除く手術をしたのよ。でももう大丈夫。手術は無事に終わったから。」
彼女はそう言って僕にまた微笑みかけた。
「被弾した時足に力が入らなかったんだ!俺は…ひょっとして…もう歩けないのか?」
思わず僕は彼女に聞いた。歩けなくなる自分なんて今まで想像したこともなく急に不安になったからだった。
「大丈夫よ。今は無理をしてはいけないけれど時間が経って回復すればすぐに歩くどころか走ることも出来るわ。」
彼女のその言葉を聞きながらも僕は不安で仕方がなかったので自分の両足を触ってみた。すると足にはちゃんと感覚があった。良かった!下半身付随ではなさそうだ。そう思うと僕は無意識にほっと大きな溜息をついた。そして足のつま先から両手の指先まで自分の身体で欠けている部分がないかを丹念に調べたが大丈夫なようだった。その様子を見て彼女は笑った。
「大丈夫だって言ってるのに、疑り深いわね。」
「そうだ!話は変わるけど俺と一緒に戦車に乗っていた連中がどうなったか知らないか?上官に助けてもらったことは覚えてるんだけどその上官以外の連中を見た記憶がないんだ!」
僕は彼女に早口で聞いた。ハンス、リール、ピエール。あいつらは脱出出来たのだろうか?
「ごめんなさい。そこまでは分からないわ。この病院には毎日何人もの人が運ばれてくるけれどそれが誰かってことまでは私達には分からないの。」
彼女はすこし俯いて申し訳なさそうに言った。確かに彼女の言う通りだ。看護婦が患者の所属部隊を知っている訳はないのだ。
「あ…すまない。ところで君の名前は?」
「私はリリーよ。リリー・アッカーマン。あなたの担当看護婦よ。よろしくね。」
「あぁ、僕はフランツ。フランツ・マイヤーだ。」
リリーは金髪で眼鏡をかけているがその眼鏡がよく似合う可愛い女の子だった。顔が小さくて背が低く年は二十歳ぐらいだろうか。愛嬌のある笑顔が印象的な女の子だ。
「ではフランツ少尉、お腹は空いてないかしら?」
「そういえば…空いてるね。何か食べる物があるのかい?」
「リンゴがあるから剥いてあげるわね。」
「ありがとう。」
僕は彼女が皮を剥いてくれたリンゴを口に入れた。そのリンゴはとても甘くて美味しかった。そして僕がムシャムシャとリンゴを食べていると急に部屋の外が騒がしくなった。
「何だろう?」
僕は彼女に聞いた。
「また怪我をした人が運び込まれたのよ。最近怪我人が多すぎて重傷者を本国の病院まで運んでいる間に適切な処置が出来なくて命を落とす人が多くなったからこのイカサの町に急遽臨時の病院が作られたのよ。」
「えっ!?ここはイカサなのかい?」
「そうよ。」
「イカサってこの前僕らが占領したところだぜ!危険は無いの?」
「そりゃあるわよ!昨日だって軍のトラックが放火されて燃やされたわ。犯人は分からないけど多分レジスタンスじゃないかって誰かが言ってたわ。」
「怖くないの?君の親や親戚は君がここへ来たことを知っているのかい?」
「誰も知らないわ。国内の何処かの病院にいると皆思ってる。でも私は何か役に立てないかと思って従軍看護婦に自分から志願したの。だから覚悟は出来てるわ。そりゃ怖いけど…。」
彼女はそう言って俯いた。僕は彼女の顔を見つめながら言った。
「リリーは偉いね。戦争なんて関係無いって顔をしてのうのうと暮らす輩も多いのにね。」
「そんなことないわ。普通よ。それに今は私みたいに志願する女は結構いるの。愛国心に燃えている女は以外と多いのよ。」
彼女は顔を上げるとそう言って微笑んだ。その表情には国家に奉仕している自分への満足感と戦場へ来てしまったことへの後悔とが入り混じっているように見えた。僕は彼女に何も言えなかった。
「じゃあ私は別の仕事があるから。何かあったら何時でも呼んで。また昼頃来るわね。」
そう言って彼女は部屋を出て行った。彼女もいろいろ辛い思いをしているだろうにそのことを感じさせまいとする彼女の態度に僕は心を打たれた。彼女にはなるべく迷惑をかけるまいと僕は思った。そして僕は一人部屋で身体を動かそうと試みた。だが激痛で思うようには動かせなかった。治るのには時間がかかりそうだが足や手が無くなった訳ではなくリリーの言う通り日が経てば元通り動けるようになると思うと僕は急に安心してとてつもない睡魔に襲われた。そしてまたベッドの上で深い眠りに落ちていった。




