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別れ

基地を後にして一時間程経ったお昼の十二時過ぎに僕はクレリバーの街に立っていた。転属先のアルモアの街にはクレリバーから汽車が出ている。アルモア行きの最終の汽車の時刻は夜の七時だからまだまだ時間はある。僕はその間にエヴァと会わなければならないのだ。

昼間のクレリバーの街は僕が住んでいた頃よりは少し騒々しくなっていた。以前は閑静な住宅街だったが今はその頃より活気があるように感じる。駅前は人がごった返していて皆忙しそうにしていた。その様子を見ていると僕が一番動作が遅いように思えた。そしてその人混みの中には僕のように軍服を着ている人間が多いことに気が付いた。軍人がバタバタしているその風景は戦争の足音がこの街にも近づいていることを示しているようだった。

僕は駅前からすこし離れた通りに面している薬局へ向かった。平日のこの時間はエヴァは薬局で働いている筈だ。僕はエヴァがどんな反応をするか想像すると怖かった。別れると言っているのにのこのこと現れる男にエヴァは嫌悪感を剥き出しにしてくるかもしれない。そんなエヴァは見たくはないがここまで来たのだ。僕は薬局の前に立つと勇気を振り絞ってドアを開けた。しかしエヴァは薬局にはいなかった。薬局にいる別の店員に聞くと今日は体調が悪いのでつい先ほど帰ったという。僕は慌てて薬局を出てエヴァの家までの道をキョロキョロしながら走った。

暫く走ってふと前方を見ると少し背の高いスタイルのいい女の後ろ姿が目に入った。間違いない。エヴァだ。エヴァなんて遠目で見ようが後ろ姿だろうが僕にはすぐ分かる。僕はその女の人のすぐ近くまで走って行き叫んだ。

「エヴァ!」

その女性はびっくりして振り返った。やはりエヴァだった。彼女は驚いた後に一瞬泣きそうな表情をしたように見えたがすぐにクールな表情を装った。僕は彼女の前で立ち止まりハアハアと息をしながら膝に手をつき呼吸を落ち着かせようとして彼女の顔を見た。彼女の表情は冷静だったがどこか寂しげに見えた。そして僕の鼓動が落ち着いて呼吸が安定したその次の瞬間に彼女はゆっくりと口を開いた。

「フランツ…あなたに手紙を書いたのよ。まだ読んでないの?」

彼女の声は冷たかった。だが僕にはその冷たさは無理に作っているもののように聞こえた。

「…読んだよ。」

「じゃあ何故ここに来たの?あたしはあなたと別れようって言ってるのよ!」

彼女の声量は急に大きくなった。その声は周りの通行人を振り向かせるぐらい大きなものだった。僕はすこし間を置いてから静かな声で言った。

「…信じられなかった。」

「え?」

「信じられなかったんだよ。ついこの前まであんなに仲良かったのに君が急に別れようって言い出したことがね。軍人の僕がもし戦争なんかが始まったら戦地へ赴くことぐらい頭の良い君ならとっくに分かっていただろ?君はそういったことも理解しつつ僕のことを愛してくれていた筈だ。違うかい?」

僕の言葉を聞いてエヴァは俯いた。そして急に顔を上げたかと思うと突然僕に抱きついてきて大声で泣き出した。僕の胸の中で泣きじゃくるエヴァはいつものエヴァではなかった。何か心の中で押さえつけていたものが急に弾けたかのようだった。周囲の人は皆僕らを見ていたがエヴァは構わず泣き続け僕も構わず彼女を抱きしめ続けた。僕はエヴァの頭を優しく撫でつつ彼女が落ち着くのを待ってから二人きりでゆっくり話の出来る場所に移動しようと思った。クレリバーにはその街の名前となっているクレリバーという大きな川がある。エヴァの家から近くを流れる川でその川の両側には遊歩道がありそこにはベンチがあって数ヶ月前はよく二人でデートしたところだ。僕は泣いているエヴァの肩を抱いてゆっくりとクレリバーの方へ向かって歩き出した。


適当なベンチを見つけて腰を掛け二人並んで静かな川の流れを見ていた。冬でまだ寒いこともあって周りには人はほとんどいなかった。僕らは肩を寄せ合いながら無言で座っていたが暫くしてエヴァが口を開いた。

「…さっきは取り乱しちゃってごめんなさい。」

「いや、いいんだよ。」

短い会話の間も彼女の視線は川の流れから外れることはなかった。そしてまた数分の沈黙の後彼女は口を開いた。

「フランツ、あなたに言わなければいけないことがあるわ。」

「何?」

「あなたはもう気付いているんじゃないのかしら。そしてあなたはこれを聞いたら多分私から離れていくわ。もう会いたいとも言わなくなると思う。」

「どう思うかは聞いてみないと分からないよ。何?」

「…あたしカーソン教なの。」

予想していたことではあったがやはりエヴァの口からその真実を聞くことは僕にとってショックなことだった。僕の鼓動は一気に早くなりその音は僕の体の中でドクンドクンと大きく響いていた。だけど僕はその音を打ち消すかのように声を絞り出した。

「…知ってたよ。」

「いつから?この前家に来た時じゃないの?」

「そうだよ。たまたま新聞を見てしまった。」

「そうよね。トイレのマガジンラックの雑誌の置き方が変わってるってパパが言ってたわ。だからあなたが私の秘密に気が付いたって私も思ったの。だからあんな手紙を書いたのよ。」

彼女の目にはいつの間にかまた大粒の涙が溜まっていた。

「今まであたしは彼氏なんか出来なかったわ。彼氏どころか親友ですら一人も出来たことないかもしれない。だって誰とどんなに仲良くなったってこのことだけは誰にも言えなかったから。もしあたしがカーソン教だって皆が知ったら今まで接してきた皆の態度が豹変するんじゃないかと思うとあたしは怖くてこのことだけはずっと誰にも言えなかったわ!」

彼女の目からは涙が流れ落ちた。

「友達は皆カーソン教のことを悪く言うわ。皆あたしがカーソン教だなんて夢にも思わないからカーソン教の話になったらあたしの目の前で皆カーソン教の悪口を滅茶苦茶に言うの。でもあたしとパパとママにとっては大事なもので心の支えなのよ!」

そこまで言うと彼女はハンカチを取り出し目頭を拭った。そして一呼吸置いてからまた続けた。

「昔はこのまま一生誰とも心の底から打ち解けられなくてもいいと思ってたわ。パパとママと三人で暮らしていけばいいって。でもあたしはあなたに出会ってしまったの。あなたと会ってるうちにあたしはあなたのことをどんどん好きになっていったわ。そして初めてこの人とならずっと一緒にいたいと思ったわ。でもその為にはいつかこのことをあなたに言わなければいけない。物凄く悩んでたわ。その悩んでる時にあなたが家に来たの。そしてあの新聞を見てしまった。悩んではいたけれどもいざあなたに秘密を知られたかと思うとあたしは急に怖くなったの。あなたに酷いことを言われて辛い思いをするくらいならもうあなたと会うのをやめようと思ったわ。だからあんな手紙を書いたのよ!でも世間で言われているほどカーソン教はひどいものじゃないのよ!」

僕は彼女に何と言っていいのか分からなかった。カーソン教に対しての嫌悪感はあるが彼女のことは好きなのだ。彼女はおそらく苦労して自分を育ててくれた両親の信仰する宗教に自然とのめりこんだのだろう。確かに彼女の話す姿を見ているとカーソン教に対する純粋な気持しか感じられなかった。その彼女の前ではカーソン教に対する侮辱を口にすることは出来なかった。だが僕が今まで周囲から聞いてきた噂というのは彼女はどう思っているのだろうか?僕は彼女の意見が聞きたくてそれとなく問いかけた。

「僕も悪い噂は聞いたことがあるよ。強引な勧誘のこととかね。」

「確かにそういう人もいるみたいね。そういう人のおかげでイメージがどんどん悪くなっているのも事実だと思うわ。でもあたしもパパもママもそんなことはしていないわ。パパなんかは逆にカーソン教信者であることを周囲に絶対悟られてはいけないっていつも言っているわ。それを知られることでどんな目に会うか今の御時勢だと分からないって。パパはあなたがあたしの家で新聞を見たかもしれないということにひどくうろたえていたわ。そしてあたしにあなたとこれ以上会うなと言ってきたわ。でもあたしはフランツは皆にそういったことを言いふらしたりするような人じゃないと言い返したの。それでもパパは不安だったみたいで家族に何事も起こらないように策を何か考えるとも言っていたわ。それぐらいあたし達は臆病なの。強引な勧誘なんて出来る訳ないわ!」

エヴァは自分の家族がいかに純粋な信者であるかということを言いたかったようだった。だが僕の心の中にはエヴァの父親が言ったという「僕に会うな」という台詞と「策を考える」という台詞が一番大きく響いていた。そしてその言葉を反芻しているうちに僕はピーンときた。僕が何故急遽転属を命令されたのか、昇進を取り消されたのか、全てが通じる結論が僕の頭の中で出てしまった。僕の心の中でエヴァの父親に対する怒りの炎が燃え盛った。そして僕は思わず彼女の顔を覗き込むように見た。

「…何?」

彼女はハンカチで顔の下半分を覆いつつ僕の方を見た。

「エヴァ、君のお父さんは確か僕の所属していた部隊の指揮官であるヨーゼフ中将と知り合いだよね?」

「ええ、そうよ。昔っからの知り合いで仲がいいわ。でも突然どうして?」

僕は怒りのあまり大声で叫びたいほどの衝動を必死で押さえた。そして何とか平静を保つ為に天を仰ぎ少し間を取ってから改めてエヴァの方に向き直り話かけた。

「エヴァ、ちょっと聞いてほしい。実は僕は君の家に行った後に急遽転属になった。戦車長への昇格の話も全てなくなった。そして転属先の部隊はアルモアの街に駐留している。アルモアはル・カメリカとの国境近くだ。戦争になればアルモアの街にいる部隊は真っ先に戦場に駆り出されるだろう。」

それを聞いて彼女は驚きの表情を見せたが僕は構わず言葉を続けた。

「これがどういうことか分かるかい?」

「…分からないわ。」

僕は目をつぶり一度深呼吸をした。そしてゆっくりと彼女に口を開いた。

「エヴァ、君のお父さんは秘密を知った僕を転属させたんだ。ヨーゼフ中将に頼んでね。僕が国境近くの僻地の部隊に転属になれば僕に変な噂を立てられなくて済むと考えたんだろう。」

「嘘よ、パパはそこまでひどいことはしないわ。」

彼女の声は震えていた。だが僕は心の中に沸き立つ怒りの為に話を止めることは出来なかった。

「確かにこれは僕の単なる憶測だよ。でも多分間違いないと思う。理由もない突然の転属命令なんでおかしいと思ってたんだ。しかも他の乗組員はそのままで僕だけ転属だ。戦車長昇格の取消もきちんとした理由の説明がないし不自然なことこの上ない。今の君の話を聞いて全て納得がいったよ。」

「やめて!フランツ!嘘よ!」

エヴァには何の罪もないことは分かっている。でも僕はエヴァの父親に対する怒りと自分に訪れた不条理な現実に対して我慢出来ず彼女に怒りをぶちまけてしまった。

「立派なお父様だね。自分の身可愛さの為に僕を僻地に追いやったのさ。そして僕は戦場に駆り出され真っ先に死んでいくのさ。で君の父親はそれで大喜びって訳さ。僕が死ねば秘密は守られる訳だし。君は僕が戦場で虫ケラのように死んでその報告を聞いて小躍りする父親を見ることになるんだろうね!」

「お願い!やめて!フランツ!」

「いや、やめられないね。君のお父さんはそんな奴さ。娘には綺麗事ばかり言っているが裏ではそんなことばかりしてるんだろう。最低な野郎だね。自分が不安だというだけで何もしていない僕の人生を狂わせたんだから。そうやって他人の命を吸い取りながら一生ぬくぬくと生きていくがいいと立派なお父様に伝えておいてくれ!」

「ひどいわ!フランツ!もう大っ嫌い!」

彼女はそう叫ぶと立ち上がって走り去ってしまった。その後ろ姿を見ながらエヴァにはひどいことを言ってしまったとすぐに後悔した。エヴァのことは好きだし彼女は何も悪いことはしていないのだ。だが僕は惨めな自分への哀れさとエヴァの父親に対する怒りがどうにも収まらずエヴァを追いかける気にはならなかった。何故自分だけがこんな目にあうのか?その思いだけが僕の心の中でぐるぐると渦を巻いていた。僕は自分の運命を呪った。そしてふと我に返り時計を見るともう夕方の六時になっていて辺りは真っ暗だった。腕時計の時間を刻む音だけが周囲に響いていた。




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