エヴァの家
「そこに座ってて。ちょっと待っててね。」
僕はエヴァの家のリビングにある椅子に座った。目の前に大きなテーブルがありその上には果物が入った大きなバスケットが置いてある。テーブルの向こう側に椅子がもう一つあってさらにその奥に大きな暖炉があった。彼女は暖炉のところまで行くと手際よく火をおこしその後僕が座った場所の右側にあるキッチンに移動した。
「もうすこししたら暖かくなるわ。今からシチューに取り掛かるからもうすこし待ってね。」
きびきびと動く彼女がキッチンに立つ後ろ姿を見ていると普段から家事をこなしていることが分かる。エヴァの行動は見ていて実に手際が良かった。暫く待っているとすぐにシチューのいい匂いがしてきた。
「はい、お待たせ。昨日の残り物だけど食べて。でも作ったのはあたしだし味はそこそこ美味しい筈だから。」
彼女はそう言ってシチューの入ったお皿とスプーンを僕の前に置いた。見るからに美味そうなシチューだった。僕はエヴァに礼を言ってそのシチューを口に運んだ。その瞬間僕は思わず叫んだ。
「美味しいよ!エヴァ!君にこんな才能があったなんて!」
「うふ。美味しいでしょ。料理だけは自信あるのよね。」
彼女は嬉しそうだった。僕はすぐにシチューを平らげてしまった。
「おかわりあるわよ。あたしもちょっと食べようかしら。」
「いいのかい?沢山食べちゃっても。お家の人の分はあるの?」
「大丈夫よ。」
彼女はそう言ってキッチンに行き僕のおかわりを持ってきてくれた。そして彼女自身もシチューを盛りつけた小さめの皿を手に僕の反対側の椅子に座った。
「今日は夕方にちょこっとお菓子をつまんじゃったから夜御飯はもういいかなって思ってたんだけどね。フランツが食べてる姿を見たらやっぱり食べたくなっちゃった。太っちゃうわね。」
舌を出してニコッと微笑む彼女の姿はとても可愛かった。彼女はシチューをスプーンですくいながら話を続けた。
「さっきの話だけどフランツは偉くなったんだよね?凄いね!」
「ありがとう。俺は今まであまり他人から褒められたことがないからさ。エヴァにそう言ってもらえると嬉しいよ。」
「御両親にもまだ報告してないんでしょ?」
「もちろん!エヴァへ真っ先に報告したかったからね。親には電報でも打っておくよ。」
「御両親を大事にしないと駄目よ。」
「確かにね。」
エヴァとの会話は楽しく基地に帰らなければならないことなぞ忘れてしまいたかった。エヴァとずっとこのまま二人でいたいと思った。だが時計をチラチラ見る度に針は無情にも進み続けていた。
「…そろそろ帰らないといけないわよね。もう遅いもの。」
彼女は僕のそわそわした様子に気が付いたようだった。僕が帰ると言いだしにくいと思ってそんなことを言ったようだった。よく見ると彼女の目にはうっすらと涙が溜まっていた。
「ちょっとトイレに行ってくるよ。実はさっきから我慢しててさ。確かこの部屋を出て右側の扉だったよね?」
エヴァの悲しむ顔は見たくなかった。エヴァの涙なぞ見たらこっちまで泣いてしまう。僕は思わず嘘をついて席を立ちトイレに駆け込んだ。リビングの方からは食器を洗う音が聞こえてきた。おそらく彼女は涙を流しながら洗い物をしているのだろう。そう思うと僕も辛い気持ちになって便座に座り込んでしまった。そしてそのまま便座の横に置いてあるマガジンラックを虚ろな目で見つめていた。その時だった。
「ん?」
僕は思わず独り言を言って無造作にいくつかの雑誌が突っ込まれているそのマガジンラックを漁った。というのもその雑誌には何の興味も無かったのだが雑誌と雑誌の間からチラッと見えている変な模様の印刷された新聞のような紙切れが気になったのだ。その模様には見覚えがあった。
「まさか!」
僕が慌ててその紙切れを引っ張り出すとやはりそうだった。バウアー大尉の部屋で見たあの新聞と同じものだった。カーソン教新報という文字がはっきりと僕の目に飛び込んできた。
「嘘だろ…」
僕は思わず天を仰いだ。今世間を騒がし軍の内部ですら問題視されつつあるカーソン教とその反対集団との争いにエヴァも関係しているのかもしれないと思うと僕はやりきれなくなった。僕にはカーソン教が正しいものなのかそうでないものなのかは分からない。でも周囲の噂を聞く限りでは真っ当なものではない気がする。かと言ってそんなカーソン教を抑え込もうとする反カーソン教の団体のやることも僕には理解出来なかった。友人のオットーが憲兵隊によって酷い仕打ちを受けていると思うとオットーには同情する。だが彼が僕の知らないところで反カーソン教の団体に所属していたということに対してはどうかと思うのだ。僕にとってはどちらも鬱陶しいものであることに変わりは無かった。それにエヴァがおそらく関わっているということを僕はどうしても認めたくなかった。だが現実は直視せねばならない。エヴァを愛する限りこのことはいつか僕の前に露呈したのだろうし。僕の心はエヴァという唯一の支えにヒビが入ったようで脆くなり今にも崩壊しそうだったが僕は思った。エヴァにカーソン教との関わりを確認するしかない。だがもしエヴァが信者だったら?僕は今まで通り彼女を愛せるだろうか?それとも彼女が信者だという理由だけで別れる?カーソン教のことは何も知らないのに?エヴァ自身のことはこんなに好きなのに?いろんなことが頭に浮かんでは消えていった。その時不意に玄関のドアの開く音がした。
「ただいま。」
小さな声がした。それは僕が苦悩しているまさにその瞬間だった。おそらくエヴァの父親が帰ってきたのだ。僕は慌ててそのカーソン教新報をマガジンラックに雑誌ごと戻した。するとトイレの扉の向こうからこんな会話が聞こえてきた。
「パパ、お帰りなさい。今ちょうどこの前基地で会った友達のフランツが来ててね。覚えてるでしょ?」
「誰も家に入れるなと言ってるだろ!」
父親の怒気を含んだ声を聞いて僕は取り敢えずこの家から脱出することを一番に考えた。そして僕は開き直りトイレの扉を大きく開けて玄関まで出て行きエヴァの父親に見え見えの言い訳をした。
「こんばんは。この前お会いしたフランツです。今日はお腹の調子が悪くてエヴァさんに無理を言ってトイレをお借りしました。もう帰りますので。お邪魔しました。ありがとう。エヴァ。」
エヴァの父親は呆気にとられて何も言えないようだった。僕はそんな父親の横を通り過ぎ玄関を出てから振り向いて挨拶した。
「では失礼します。」
きょとんとしている父親の後ろでエヴァは複雑な表情をしていた。僕が去ってしまうことを寂しく感じているようにも見えたし僕が機転を利かして家を出たことにホッとしているようにも見えた。僕はエヴァの家を後にして急いで基地へ向かった。基地の門限を過ぎると罰が待っている。そんなつまらないことで罰は受けたくないし中隊の皆にも迷惑をかける。僕はいつの間にか小走りになっていた。そしてふとエヴァのことを考えて心の中で呟いた。
「エヴァがまだ信者と決まった訳ではない。たまたま勧誘にでも引っかかってあの新聞を押し付けられただけかもしれないし。」
現実を直視出来ない自分の弱さを薄々感じつつ僕はそう自分に言い聞かせて雪の中を全速で駆け出した。