エヴァ
「何だ?話って。」
「忙しいのにすみません、大尉。実はですね…」
ヨーゼフ中将とバウアー大尉から戦車長推薦の話を聞いた次の日の夜のことだった。僕はバウアー大尉をつかまえて大尉の部屋で二人だけでテーブルを挟んで向かい合って座った。僕はどうしても大尉に話したいことがあったのだ。僕はこの半年間の訓練でボロボロになったいつも着ている戦車兵用の黒い軍服の襟に縫い付けられた階級章を触りながら話を続けた。
「実は今回の戦車学校入学のタイミングで軍服を仕立てようかと思っていまして。ですから半日でいいので外出許可を頂きたいのですが。」
マイルヤーナ陸軍では将校は軍から支給されるものとは別に自分で仕立てた軍服を数着持っているのが普通だった。日常の訓練等では軍服は汚れるし破れたりもするので支給された軍服を着用するが後方勤務や記念写真等を撮影する時などは自前のちょっと良い素材の軍服を着るのが一般的な将校の習慣となっていた。だが実は僕は一枚も自分であつらえた軍服を持っていなかったのだ。今までは記念写真を撮影する機会などどうせないし支給されるものをわざわざ自腹を切ってまで手に入れる必要などないと思っていたからなのだがふと自分が戦車長になって自分の部下と記念写真でも撮影するとなった時に自分だけが支給品の軍服を着て周りは皆自前のちょっと上質な軍服を着ているところを想像するとそれもまたみすぼらしいと思うようになってきたのだ。バウアー大尉からも以前から軍服を一着ぐらい作っておけと言われていたのだがそれまでは僕はその忠告を無視していた。そんな僕を見て大尉はニヤリと笑いながら言った。
「そうか、やっとお前も俺の忠告を聞き入れる気になったか。いいぞ。外出許可にサインしてやるぞ。」
「ありがとうございます。親戚が洋服屋を営んでいますので明日か明後日にでも行きたいのですが。」
「分かった。明日の昼から行ってこい。早く用意をしておいた方がいいだろう。」
「助かります。」
僕は大尉に御礼を言った。だが実は僕にはちょっとした企みがあった。洋服屋に行ったついでにエヴァとも会おうと思っていたのだ。戦車学校に行ってしまうとエヴァとも遠く離れてしまうし今まで以上に会えなくなるかもしれない。そう思うとどうしても今この基地にいる間にエヴァと会っておきたかった。エヴァと会えると思うと僕の顔はつい緩みがちになった。
「ところで皆にはもう言ったのか?」
「え?」
突然の大尉の言葉に緩んだ僕の顔はすぐ元の緊張感を取り戻した。大尉の問いかけがバルクマンやペットゲン、ヒューブナーに僕の昇進のことを伝えたのか?ということだというのはすぐ分かった。この半年間苦楽を共にしてきた皆と別れるのは考えるだけでも辛かった。だが自分のステップアップの為には耐えなければならないことだということも理解していた。僕は少し俯きながら言った。
「いえ、まだ言っていません。でも自分の口でそのうち言います。」
「そうか。そうだな。それがいい。ちょっとワインでも飲むか?」
大尉はそういうと席を立った。ワインを取りに行こうとしているらしい。その時二人を隔てていたテーブルの上の片隅に折り畳まれて置かれている変な模様の印刷された新聞のような紙片がたまたま目に入った。
「大尉、これは何です?」
軍の書類とは明らかに違う雰囲気のその印刷物に僕が手を伸ばした時に大尉は言った。
「それはカーソン教の新聞だ。広報誌みたいなもののようだ。今日憲兵隊が基地の中で見つけたと言って俺のところに持ってきた。もしカーソン教の信者と思われる者がいたら教えてくれだとよ。反カーソンの人間も知っていれば教えろとも言ってたな。」
大尉はそう言って机の上にワインボトルとグラスを二つ置いた。大尉のその言葉を聞いて僕はオットーのことを思い出した。憲兵隊の取り調べはしつこいと聞く。他の仲間のことを口を割るまで拷問でもされているのだろうか。そう思うと僕はまた辛い気持ちになった。
「俺は宗教のことはよく分からん。俺が今考えているのは戦争になった時に自分が如何に上からの命令を上手くこなせる能力を身に付けられるかということだけだ。訳の分からん勢力争いに巻き込まれている場合ではない。今は団結して能力向上に努めてまとまらなければならない大事な時だ。」
そう言ってグラスにワインを注ぐ大尉の前で僕はそのカーソン教の新聞を手にした。大きい文字で「カーソン教新報」と書いてあった。僕はそれを見ただけでうんざりしてしまい思わず大尉にこう言った。
「そうですね。関わるのは御免ですね。私は神様の存在は信じてますが特定の宗教を信仰しようという気持ちはありません。宗教というのは本来人間を幸せにするものだと思うのですがその宗教が原因で殺しあうというのは本末転倒のような気がします。」
「そうだな。まぁカーソン教の話はこれぐらいにして、戦車学校でも頑張れよ。」
そう言って僕らは乾杯した。そして大尉の戦車長成り立ての頃の苦労話を聞かせてもらったりして非常に楽しい時間を過ごした。
次の日僕は大尉に告げた通り親戚の洋服屋に行き軍服を仕立てた。思っていたより時間がかかり結局終わったのは夕方だった。僕はその後急いでエヴァの家に向かった。僕は冬の寒空の下汗をかきながら走った。だが走りながら今日エヴァに家に行くということを伝えていない事実に一抹の不安を感じていた。もしエヴァが出掛けていたらどうしようと。そう思いながらエヴァの家の前に着いた時は小雪が舞い時間も夜の七時を回っていた。
「頼むから居てくれよ!」
僕はそう独り言を呟き走り続けた。そしてエヴァの家の玄関に着いてみると僕の不安は的中した。エヴァの家は真っ暗で誰もいる気配が無かった。ドアをノックしても誰も出てこなかった。僕は途方にくれて茫然と立ち尽くし失意のどん底へ突き落とされた。今日会いたかった、その思いが頭の中を駆け巡る。いっそこのまま待ってみようか?だが10時には基地へ帰らなければならない。移動の時間を考えると僕がここに居られるのはあと一時間ぐらいだろうか?その一時間の間にうまくエヴァが帰って来てくれれば良いのに。そう思っていると奇跡は起きた。
「え?本当に?フランツなの?」
不意に背後から声を掛けられた。僕は一瞬ぎょっとしたがすぐに喜びの表情で振り返った。その声は僕が聞きたくて待ち焦がれていた声だったからだ。
「エヴァ!」
「フランツ!」
僕らはお互いに強く抱きあった。エヴァの体温を感じながら僕はこの時神様はいると確信した。でなければこんな良いタイミングで彼女と出会える訳がないと思った。エヴァとの長い口づけのあと彼女は言った。
「今日はどうしたの?忙しいんじゃなかったの?」
「ちょっと新しく服を仕立てるって理由で基地を抜け出してきたんだ。実は俺、戦車長に昇進したんだ。」
「戦車長?偉くなったの?凄いじゃない!おめでとう!フランツ!」
「真っ先にエヴァに知らせたくてさ。つい来ちゃったよ。」
僕が言い終わるか終わらないかのうちに彼女はまた僕にキスをしてきた。そしてそのまま僕らは暫く玄関前で抱きあっていた。その時だった。僕の腹がグ〜と鳴った。そういえば今日は昼から何も食べていなかった。エヴァが僕に聞いた。
「お腹空いてるの?」
「ちょっとだけね。」
僕はウインクして答えた。
「…家に入る?」
彼女は伏し目がちに言った。
「でもお父さんやお母さんに駄目って言われてるんだろ?」
僕は反射的にそう答えた。
「今日は二人とも帰るのが遅いの。折角来てくれたあなたをこのまま帰すのは悪いわ。それに家には昨日私が作ったシチューがあるのよ。美味しいんだから。ちょっとだけならお父さんもお母さんも許してくれるわよ。」
「そりゃ僕は嬉しいんだけど…本当に良いのかい?」
「いいわよ。」
彼女はそう言って僕の頬にキスをしてから家のドアの鍵を開けた。そして僕にドアの前で待つように言うと自分は先に家に入っていった。おそらく片付けか何かしているのだろう。五分ほどするとエヴァがまた玄関に出てきてこう言った。
「どうぞ、入って。」
僕は初めてエヴァの家の敷居を跨ぐことにドキドキしながらも平静を装ったふりをして足を進めた。