停戦
「どうっスか? 何か見えるっスか? 」
ホルニッセの上で砲隊鏡から周囲を見渡している僕にそうペットゲンが聞いてきた。敵を撃退してから一夜明けたガバナー盆地の朝は静かで敵が再び襲ってきそうな雰囲気はまだ無かった。
「いや、今のところは何も見えない、I-34の残骸とル・カメリカ兵の死体以外はな。」
僕がそう言うとペットゲンはやや安心したように一人でうんうんと頷いて煙草を胸ポケットから取り出し火をつけた。今日は朝から敵の襲来に備え僕らはホルニッセ車内の各自の持ち場で待機しているのだ。そしてペットゲンが吐き出した白い煙が車内に立ち込める。するとそれを合図にしたかのようにイーヴォとモーラーも煙草を吸い始めた。だがその後は誰も喋らない。暫らく沈黙が続いた。
「昨日の敵の新型は8.5cm砲を装備していたらしいですね。ティーゲルやこのホルニッセと同等の攻撃力ですよ。しかも五人乗りらしいですね。」
そう言って沈黙を破ったのはイーヴォだった。イーヴォのその言葉がまたしても合図となって皆が急にお喋りを始めた。
「何か手段を考えないと……ヤバいっスね。」
ペットゲンがすこし俯いて口から白い煙を吐き出しながらそう答える。するとモーラーが言葉を重ねた。
「今度新型が来たらもう逃げた方がいいぞ。勝てる訳がない。」
モーラーがそう吐き捨てるように言ったので僕は流石に黙っていられなかった。
「おい、モーラー軍曹! 」
僕がそう怒気を含んだ声で呼びつけるとモーラーは一瞬ビクッとしてから振り返り小さな声で返事をした。
「は、はい。」
「後ろ向きな発言はするな。7.5cm砲を装備した四型戦車が配備されるまで我々は敵に劣る装備でI-34と対峙していたのだ。その時我が師団では逃げ出した奴などいなかったのだぞ。」
僕がそう言うとモーラーは下を向いたままで何も言わなかった。僕は続けた。
「お前が逃げ出すなら好きにしろ。だがその時は俺に撃ち殺される時だと思え、分かったな? 」
「……はい。」
僕が強い口調でそう言うとまた車内は沈黙に戻ってしまった。だが周囲の士気を下げるようなモーラーの発言は冗談では済まされず無視する訳にはいかない。ちょくちょく任務に対してマイナスな発言をするモーラーにはこれぐらいでいいのだ。僕がそう思って胸ポケットの煙草に手を伸ばそうとしたその時だった。
「おい! フランツ! 」
背後から急にバウアー大尉に呼ばれた。だがそれは非戦闘時に聞くいつもの太く朗らかな大尉の声ではなくどちらかと言うと戦闘中の荒々しい大尉の声だった。僕は敵でも現れたのかと思って緊張した面持ちで振り返った。
「何かありましたでしょうか?! 」
僕がそう返事をすると大尉は厳しい表情で僕の顔を眺めつつ淡々と言った。
「先ほど本国司令部より全軍に戦闘停止の命令が入った。どうやら水面下で行われていたル・カメリカとの平和交渉が本格化するらしい。」
僕は最初大尉が何を言っているのか理解出来ず暫らく大尉の顔をぼんやりと見つめていた。だがそんな僕の様子が滑稽に思えたのか大尉は急に笑い出し言葉を続けた。
「おかしな奴だな、嬉しくないのか? 停戦だよ! 停戦! 上手くいけば戦争は終わるぞ! 」
まるで出来の悪い生徒に数学の難しい問題を先生が咀嚼して説明しているような光景だった。僕はそこまで説明されてようやく事態を飲み込めた。
「まじっスか!? やったーっスっ! 」
「少尉! 故郷へ帰れるんですよ! 」
僕より先にペットゲンとイーヴォが自分の座席から飛び上がって喜んでいた。僕はその二人を見てようやくじわじわと喜びの感情が湧いてきた。
「少尉、どうしたんスか? 嬉しくないんスか? 」
ペットゲンにそう言われて僕は始めて「ウォー! 」と大きな奇声をあげてとペットゲンとイーヴォの肩を抱いて喜んだ。生きてクレリバーへ帰れるのだ! 僕は喜びの余り知らぬ間に涙が出てきた。
「取り敢えず第七装甲師団はこのガバナー盆地にて待機だ。だがまだ気は抜くなよ。戦場では何が起こるか分からんからな。」
狭いホルニッセの車内でぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでいる僕らに大尉はそう付け加えたが僕らの歓声にその声は殆ど掻き消されていた。この糞ったれの戦場から離れられると思えば喜ばずにはいられなかった。酒でもあれば浴びるほど飲みたい気分だったが物資の補給が途絶えがちな現在の第七装甲師団には酒はない。だが酒盛りが至る所で始まったのではないかと思わせるような歓声があちこちで聞かれ始めた。おそらく各部隊の指揮官が停戦のことを自分の部下へ伝えているのだろう。ガバナー盆地はいつの間にか祭りが始まっているようだった。
「フランツ、あまりはしゃぎ過ぎるなよ。俺はちょっとアマクヤードへ行ってくる。各師団の装甲部隊指揮官の打ち合わせがあるのだ。俺がいない間はシラー少将の命令に従ってくれ。それとこの後第七装甲師団の各部隊指揮官が集まって今後の打ち合わせをするらしいからそこへお前は俺の代理で出席しろ。まぁ大した話はないだろうがな。頼んだぞ。」
大尉はそう言うと何処かへ行ってしまった。僕はその後も暫らくペットゲンとイーヴォの三人で喜びを分かち合っていたが打ち合わせに出席する為に一人ホルニッセを離れた。だが喜びの気持ちは暫らく抜けることはなく顔はにやけたまま師団本部に向かった。
僕はシラー少将のいる師団本部が設けられた塹壕に顔を出した。そしてシラー少将を中心として十人程の指揮官が集まり今後のことの話し合いが始まった。だが第七装甲師団はガバナー盆地に居座り続けることが当面の任務なのでそれについて取り立てて話すことは無く主な議題は負傷者のことと今後の戦力の再編をどうするかということになった。話し合いの末和平交渉が決裂し再び戦いが始まる可能性がゼロではないということから停戦している今のうちに全ての負傷者を後方の病院に送り出しきちんとした治療を施すことが決まった。そしてそれに加えて今まで応急措置でその場をしのいできたくたびれた戦車や自走砲も大半を整備工場に送ってきちんと整備をすることになった。これにより僕の受け持つ陣地に残された戦力は旧式の三型戦車が一台と四型戦車が一台、それにホルニッセが一台だけとなり歩兵も二十名程度にまでなってしまった。ちょっと心細くなったが師団戦力を整える為には今の停戦の時間を上手く活用しなければならない。どうせ暫らくは戦闘も無いのだ。僕らはこれでいいだろうと話を結論付けて打ち合わせを終えた。僕はホルニッセに戻ると周囲の警戒をペットゲンに押し付けてリリーへの手紙を書き始めた。停戦のこと、今の自分のリラックスした気持、リリーへの愛情……書き出せばもう切りが無かった。戦争が終わってリリーとの二人っきりの生活を想像しながら手紙を書く作業は僕の心を温かくしてくれるものだった。
「少尉、起きて下さい! 少尉! 」
イーヴォの声で僕は目が覚めた。どうやらリリーへの手紙を書いているうちに眠ってしまったらしい。いつの間にかチラチラと雪が降り出している。昼間で毛布にくるまっていたとはいえ寒い。僕は何事かと眠い目を擦りながらイーヴォの方に顔を向けた。
「どうした? 小便でも漏らしたか? 」
僕がそう気の抜けた返事をするとイーヴォが真っ青な顔をして僕に言った。
「I-34が……近づいてきます。敵戦車が近づいてくるんです! 」
「何だと! 」
僕は一気に目が開いた。停戦の筈なのに何故敵戦車が近づいてくるのか? もう戦闘など起こらないと思い込んでいたのに。僕は目を背けたい現実に向き合う為に止むを得ず砲隊鏡を手に取り前方を見据えた。
「嘘だろ……。」
僕は思わずそう呟いていた。まだだいぶ遠くではあるが五台のI-34が歩兵を乗せてこちらに向かってくるのが見える。
「停戦じゃなかったんスか!? どうなってんスか!? 」
ペットゲンが混乱した様子で騒ぐ。無理もない。一旦もう戦いは無いものと思って緊張が解けた人間が再びその緊張の糸を結ぼうと思ってもなかなか難しいのだ。僕も目の前の光景をなかなか現実のものとして受け止められなかった。だが何もしない訳にはいかない。僕は無線機に手を伸ばし周波数を敵戦車隊がよく使うものに合わせてマイクに大声で叫んだ。
「こちらへ接近中のル・カメリカ兵に次ぐ、我がマイルヤーナ共和国とル・カメリカ帝国は和平交渉の為現在それぞれに停戦命令が出ている筈である! 接近を止めよ! 」
僕がそう叫ぶと暫らくしてル・カメリカ語で何か大きな叫び声のような返事が返ってきた。無論言葉の意味は分からないがその口調からしても接近を止めるつもりは無いようだった。実際に敵戦車は刻一刻と我々に近づきつつある。僕は決心した。
「全車戦闘準備! 」
僕がそう叫ぶとモーラーが僕に言った。
「少尉、逃げましょう! もう終戦なんですよ! もう故郷へ帰れるかもしれないっていうこのタイミングで死んだら本当に馬鹿みたいだ! 」
モーラーのことは好きではないがこの時ばかりは彼の気持ちだけはよく分かった。正直なところ僕だって逃げ出したい。だが僕は自分に言い聞かすようにゆっくりとモーラーに言った。
「軍曹、我々が逃げ出せば残された三型戦車や四型戦車の乗員、それに歩兵達はどうなる? 皆殺されてしまうだろう。今向かってくる敵は停戦のことを聞いていない連中なのか、それとも停戦のことを知りつつも復讐心に燃える頭のおかしい連中なのか、それはよく分からない。だがいずれにせよ向かってくる敵に対して我々が逃げ出せば大勢の味方の兵士が死ぬのだ。それは兵士として、いや人間として、やってはいけない行為だ。」
僕がそこまで言うとペットゲンとイーヴォが言った。
「少尉、徹甲弾装填完了っス! 」
「あいつらを追っ払いましょう! 先頭の新型に照準します! 」
ペットゲンとイーヴォはそう言って僕に微笑んだ。モーラーや僕と同じように遣り切れない気持ちがある筈なのに彼らの態度は微塵もそんなことを感じさせない。率先して任務を遂行しようとしているのだ。僕はそんな二人を見てふと思った。この戦争で僕が体験したことは辛く嫌なことばかりだったが決してそれだけではなく
「この若い二人やバウアー大尉、それに死んだハンスやオッペルといった素晴らしい仲間と知りあえたこと」
そして
「彼らと共に自分が愛する人や祖国の為に停戦の最後まで全力で義務を果たそうとしたこと」
この二つのことだけはこの戦争の中で僕が他人に誇れる数少ないことなのではないかと。そう思うと僕は力が湧いてくるような気がした。
「よし、やるぞ! 対戦車戦闘準備! 」
僕はそう言いながらリリーへの書きかけの手紙を胸ポケットにしまうとペットゲンとイーヴォにニヤリと笑顔を見せた。