KOLOKOL
紫の朝靄に浮かぶ街を見た。薄暗がりを明星が切り断てて、おぼろに浮かぶ太陽は輪を描く。彼らは水面のうつろうさまを見せて、僕はそこに漂っている。意味のない沈黙、揺動だけがすべてを支配する。
許されたいことには事欠かないけど、オールを持つ手の動きを止めることはあり得ないだろう。知りえるすべての命を糧にして生きるように、それが意味することを知ってなお、止めることなど出来るはずもない。
もし僕がここでボートから落ちるとどうなるだろう。きっと僕はうつぶせになって膨張する。誰かがレンズを通してスナッフ・フィルムを録るかもしれない。そしてひどい見せしめにされるだろう。彼らは僕がそうせずにはいられないことを知ったうえ、処理を設えて、手ぐすねを引き待っているのだ。
船着場を駆け上がって、僕は街へ下りた。石畳が気兼ね有りげに光っていて、それはゆっくりと僕から離れていく。誰かの歩幅を模しているようだった。そのさまには、えらく見覚えがある。
そうだ。きっと彼女だ。今となってはとんでもない髪型をしていたことと、エフェドリンの飲み過ぎで死んだことくらいしか覚えていない。いつの間にか、気づいた頃にはずっと遠いひとになっていた。
線路に寄り添っているこの建物はきっと駅だけど、一向に電車の来る様子はない。錆びれたホームに立つのは僕だけかと思っていたが、ふいに声がした。
「いくら待っても、電車は来ませんよ」
壮年の女だと思った。聞き覚えがあるけど、ぱっと誰か思いつくほどではなかった。
「親切にどうも。だとすれば、あなたは何故ここにいるんです」
「用事があるからです。これを渡そうと思って。さっき、そこであなたが落としたのを見たのです」
彼女の持ち物を見る。つぶれた蛙、小さな縫いぐるみ、カブトムシの頭蓋、誰かの手首……まだいくつかあった。僕はすぐ視線を戻した。
「わざわざすいませんが、いりません。それは僕が捨てたんです。価値だとか、必要のなくなったものです」
「そうですか。どうしても、捨てておきたいものなのですか?」
「ええ。荷物が沢山ありましてね。生憎そいつらは積みきらない」
電車が来ないなら、この街に用はない。ほんの少しだけ軽くなったボートに乗って、僕は故郷に戻ることにした。石畳が歩みを見せることはもうなかった。月は温い色に光って、世界の半分は暗い海に沈んでいく。
僕はきっとこれからも、こんな事を繰り返して生きていくのだろう。おそらくは、ボートの中身が空になって、進むことすらなくなるその日まで。
どんなに悲しかったことでも、逆にうれしくてしょうがなかったことでも、いつかは忘れてしまいます。まして、思い出したくないようないまいましい出来事などは、特にさっさと記憶から消えていくと思います。
でも、世の中のたいていのことは、誰かの記憶に残っていなければいけません。もし誰も覚えていなければ、それは本当の意味で死んでしまったことを意味します。
世界中で僕ひとりしか知らないことが沢山あります。そして、その中のいくらかを僕はもう覚えていません。僕は彼らを完全に殺しました。




