航路
第一次世界大戦が終わってから、1939年に独逸がポーランドに侵攻するまでのおよそ20年間を戦間期という。もちろんその間にも何度か戦争はあった。1919年のポーランド・ソヴィエト戦争、イタリアのエチオピア侵攻、そして、スペイン内戦・・・こうした数多くの紛争や内戦、国家間戦争が発生していた。しかしいずれも世界大戦に繋がる直接的な導火線とは言い難い物で、列強を中心とする『世界』はまだまだ平和のまどろみの中にあった。
そうした時代であるが故に、この頃は世界的に市場が広がり、経済はより発展した時代だったとも言える。第一次大戦で連合国にとっての工場であったアメリカでは、大量生産システムを完成させて現代まで続く大量生産大量消費国家へとなった。また、欧州経済も終戦と共に始まった復興によって徐々に戻りはじめた。また、日本も大戦期を通じて国内の工業生産能力、市場規模が拡大の一途をたどっていた。それに伴って人、物、金の流通が世界的に拡大しはじめていた。
この短くも平和な時代は定期客船・・・所謂オーシャンライナーの黄金時代だったと言える。大戦を生き延びたアキタニア、オリンピック、インペラトール、モーリタニアといった船が平和になった大西洋航路を走り回っていたし、大戦後にはコロンボス、マジェスティック、イル・ド・フランスと言った客船達がそれに加わった。この頃になると、欧州からの移民の流入も一段落ついていたが、変わってアメリカからヨーロッパへの旅行客やビジネスマンの往来が増えた。そのため、以前にも増してサービスとスピードが求められる時代へと変化しつつあり、以前までの移民船にあるような雑魚寝部屋は少なくなり、代わりにツーリストクラスのような二等と三等の間の様な感じの部屋などが登場するなど、現代の客船に近づきつつある時代であった。
太平洋航路に目を向けてみると、5万トン級の船が走り回っている欧州に比べれば落ちるとはいえ、それでもその競争は熾烈な物で、アメリカのパシフィックメール社のプレジデンテ・ジャクソン(1万4千トン)やカナダ太平洋鉄道のエンパイアジャパン(初代:1万6千トン)といった客船が第一次大戦後に就航していたが、日本でも、北米西海岸航路を運用していた東洋汽船は天洋丸型(1万3千トン)とドイツからの戦利品であるカップフィニステレこと大洋丸(1万4千トン)を中心とした客船隊がこれらと張り合っていた。いずれも大戦前の船であり、陳腐化が進んでいた上に、運行会社である東洋汽船は内部留保などが少ない上に赤字のために、新造船の準備も思うに任せない状態だった。
1923年11月
ぼちぼち木枯らしの冷たい風が吹き付ける頃、別府造船所の社長室で義男はいつものように湯飲み片手に新聞を読みながら暇を潰していた。仕事ができなくて辛いからニートになりたいとかぼやいていたりするが、いつものことなので皆スルーしている。この頃になると、震災の状況も一段落し、ついでに株価もある程度安定したと言うことで、社内の空気も和やかになっていた。
「鉄の値段も値上がりしているな・・・」
「震災からの復興というのもあるのでしょうね・・・」
「まぁ、神戸製鋼としては嬉しいらしいが俺達にとってはちょっと厳しいかな?」
そう言って新聞をたたみながら義男は溜息をついた。
「なにしろ、こちらも外航客船の準備がありますからな。」
「手始めにまずは5千トン級だが・・・」
「シンガポールまでの外南洋航路ですね」
「ああ、逓信省から内諾をもらってきたよ。逓信省としても航路を増やしたいんだろう・・・ただ、日本郵船とやり合うことにもなりかねないが」
「しかし、案外すんなりいきましたね。既存の命令航路と被る部分があるからごねるだろうとも思ってましたけど」
後藤はそう言って微苦笑しながら茶を飲んだ
「鉄道院のコネを使ったからね。なにしろ、東南アジアの諸都市を結ぶ航路だ。そこに貨物を運ぶんだからそれなりにうまみはあると思うよ」
この時代、国や地方自治体、そして軍から補助金などと引き替えに海運会社に特定のルートを行くように命令する命令航路と独自に航路を設定できる自由航路という物の二つがあった。命令航路は敗戦後になくなるものの、離島航路整備法などのが法律がある。実は、別府汽船も命令航路を一つ保有している。姫島~伊美間を結ぶ航路である。姫島村から要請された命令航路で、一応、一日1時間おきに運行しており、午前9時から午後4時までの8往復の定期便である。(なお、台風などの緊急時はその限りではない)なお、もう一つある大阪~日出間航路は週一往復の自由航路である。ちなみに、2番船の建造もボチボチ計画されているが、こっちは宝殿丸よりもっと小型の800トン級になりそうである。
だが、別府汽船は安土丸型貨物船を2隻保有しており、これらの使い道が切実な問題となりつつあった。義男としては、不定期運行では勿体ないからどこかの航路に使いたいという考えがあり、ついでに別府汽船も世界に飛躍させたいとの思いがあった。が、国内航路は既に日本郵船、大阪商船その他が独占している状況だし、狙うとしたら海外しかなかった。
「・・・できれば、補助金が貰える命令航路の方がよかったんだがな」
「今更でしょう。というか、既存の航路が整備されている状況でそれはありませんよ。ですが、これからは海外の汽船会社と争う時代になったって事になりますね。それに、命令航路ですと、運賃から寄港地から何から何まで色々面倒くさいですよ?それなら、補助金なしでも自由航路の方がまだマシです」
「いままで、ライバルが居ない状態だったからな・・・不安しかないよ。」
そう言った義男の表情は暗惨とした物だった。義男率いる別府汽船が航路開設許可をもらったのは『神戸~博多~台北~香港~サイゴン(現ホーチミン)~バンコク~シンガポール』という航路だった。日本とシンガポールを結ぶ航路としては、当時、日本郵船が保有する欧州方面への便でシンガポールへの直通便の他には、南洋郵船が保有した航路がある。こちらは神戸発で香港やシンガポールを経由してスバラヤへ至る航路だった。運用する船は、欧州行きの船は鹿島丸や箱根丸のような1万トン。南洋郵船の場合は3000トンクラスの船が主体だった。つまり、別府汽船は南洋郵船らの運行しない航路の穴埋めをすると言うことになったわけである。
だが、別府汽船はこれまで瀬戸内の航路しか保っていないずぶのド素人状態である。そんな状況で東南アジア航路をゆくのだ。ライバルも多かった。先に挙げた南洋郵船や日本郵船の他に、この方面には数多くのライバルが居た。まず、フランス郵船のスフィンクス(1万1千トン)に、オランダ王立郵船のオプンテノール(6千トン)と言った船がいたし、他にもイギリスやイタリアといった各国の客船や貨物船が互いにしのぎを削っていたのだが、バンコクははっきり言って田舎の港であったということもあって、直通の船は少なかった。それ故に戦える土壌があると判断したためだ。
「本格的な設計はまだ少しかかりそうですね」
「取り敢えず、貨物については何とかなりそうだ・・・行きは石炭、帰りは米やチーク材、砂糖・・・悪くないな。本当は、コンテナ搭載船にしたかったんだが・・・」
「サイゴンやシンガポールは兎も角、その他の港はまだまだ港湾設備が整ってませんからね」
「当面は内航航路と鉄道用になりそうだな」
義男はまた溜息をついたが、それはある意味仕方のない物でもあった。この時代。欧米の諸港に比べれば、アジアの諸港の港湾設備は恐ろしく遅れていた。なにしろ、中国最大の外港都市であった上海はこの時期になってもまだ大型船が横付けできるまともな埠頭が無く、乗客は艀で上陸していたのだ。
そうしたことができるのは、せいぜいアジアにおいては香港かシンガポール、後は神戸か横浜くらいであったという。コンテナの運用には、最低でも充実した埠頭が必要だ。である以上、それが整備されていないところで運用したところで意味はない。また、途中にあるバンコクでも、埠頭の整備は遅れており、まともな陸揚げは難しかった。また、チャオプラヤ川は浅い関係で貨物を積んだまま川に入ると座礁事故を起こす危険をはらんでいた。
「・・・取り敢えず、全ては船ができてからなんだが、この後のことを考えたらどうしても定期航路が必要なんだよなぁ・・・」
「金がかかりそうですな。」
「船って言うのは何もしなくても金がかかる。だったら動かして多少の小金を作った方がマシだ・・・というか、他人事みたいに言うな。傷つくだろ・・・まぁ、建造に補助金も出たしな。」
義男は頭を抱えたが、考えようによっては悪くないとも考えていた。東南アジア方面への伝を作る良い機会でもあるからだ。また、発の本格的な外洋航路でもある。乗客は少なくてもかまわない。貨物で稼ぐ予定なのだから。少なくともここで客船のノウハウの蓄積にも役に立つだろうからと、義男はポジティブに考えることにした。
そのころ、肝心の設計建造部門では、黒田と宮部が設計図をにらみながら話し合っていた。
「乗客は50人くらいで、船体部分は貨物か・・・」
「どっちにしても、人より貨物らしいですね」
「まぁ、東南アジアに移民なんて物好きは少ないよ。しかし、これじゃ貨物船に客を乗せましたって感じだな」
「この方面の客なんて福州や台湾に向かう人間。そして、大陸からシンガポールやサイゴン経由で欧州に帰る人間ですから・・・」
黒田の言ったとおり、この時代の移民の行き先といえば、満州や朝鮮、台湾の他には一つは北米。もう一つは南米だった。笠戸丸や天洋丸といった客船が整備された背景として、増加するアメリカ大陸への移民があった。北米の方は大正期にはもう対日移民制限がかけられてしまい、南米方面が主となった。尤も、その後も貨物の取扱量は増加しているため、引き続き北米航路の充実は図られ続けたが・・・。そんなわけで、東南アジアに行く奴なんて少なかった。あってもそれは英仏の人間が中心であり、植民地間の移動が中心だった。そして、そういう人間は大概自国の会社の船に乗ったりする。
このため、貨物の取り扱いが否が応でも中心となった。そうでなくてもこの時代は、日本人自身が海外に行くことは移民を除いてあまりなく、そのためか、大西洋に比べると客船も貨物船としての側面の方が強かった。というよりも、この時代の日本船は旅客収入より、貨物収入の方が大きかった。
「うちの社長、南米やアフリカにも進出したがっていますが・・・」
「大風呂敷過ぎるな。その内放漫経営で破綻するんじゃないか?」
「でも、あのオッサン、金を引っ張ってくることにかけては天下一品ですからね。正直、あれが借金に失敗する所なんて想像できませんよ」
「まぁ、それもそうだな。」
二人は暫く顔を見合わせながらキョトンとしていたが、再び設計図に目を戻した。なんだかんだで、二人は義男を信頼していた。時々大失敗したり訳の分からない行動をするために完全に信用はできなかったが、少なくとも金を持ってくる腕にかけてはそうした物に対する心配は殆ど無かったといっていい。
「喫水は浅くするとして・・・機関はやっぱり、ディーゼルになるかな?」
「ええ。実績のあるズルツアーを採用します。」
「山岡さんはなんて?」
「2000馬力の2サイクル機関の開発に成功したそうです。尤も、まだまだ研究の余地が必要らしいですが」
「となると、2基2軸で4000馬力・・・5000トンとして船体形状にもよるが、16ノットは固いな」
「問題は振動ですが・・・」
「モリタニアほど酷いことにはならないと思うがな。ゴムを敷いても・・・難しいだろうな。就航後も運用実績を見ながらちょっとずつ改造をしていかないと」
「球状船首の実績は、はなかなか良いみたいですよ?」
「あれで20馬力程度は節約できるらしいしな。後は船体を細めにしたい。・・・ところで、溶接はどうする予定かな?」
「一応、高張力鋼でしたら、強度は比較的保てるようです。ただ、嵐にあった場合は危険ですね」
「下手に三角波なんて被ろう物なら・・・な」
「圧壊とかへし折れるのは勘弁ですよ」
「当面の間は、上部構造物のみか・・・」
「まだまだ研究が必要ですね」
黒田達の頭に浮かんだのは、以前上部構造をぶっ壊された勝竜寺丸であった。別府造船では、溶接の全面禁止は行われていない。そんなことやらかした日には、溶接工そのものが育たなくなってしまう。だが、溶接ができるのは上部構造部分のみであり、船体部分は旧来のリベット打ちへと回帰してしまっている状況だった。再び船体に溶接が用いられるにはもう少しの時間が必要のようだ。
「まぁ、船体は良いとしてだ。問題はデザインだな。うちはそういうのは専門外だからな」
「社長は、建築の先生を専属で雇うとか言ってますが・・・」
「渡辺じゃダメなのか?亀戸ビルのデザインを頼んだろ?」
「あそこは、今帝都の立て直しで手一杯だと言ってましたので、他の先生に頼むこんだとか」
「なるほどな・・・まぁ、なるようにはなるさ」
こうして、設計の素案は纏まった。総トン数4600トン、航行速力16ノット、乗客48名(一等12名、三等36名)、貨物積載量5100トンという。客船と言うよりもむしろ貨物船といった方がいい感じの船となった。2隻が建造されることとなり九重連山に連なる山の名称から、久住丸、稲星丸と名付けられたそれは、1924年1月に起工し、翌25年の2月に就航し、東南アジア航路に向かうこととなった。
みなさまこんばんは
申し訳ありません。時系列がおかしくなるので挿入させて頂きました。
さて、タイと日本との間には直通の航路はこの時代存在しませんでした。航路ができるのが1926年頃のことで、大阪商船が航路を開きました。それ以前に第一次大戦前に三井物産がバンコクに営業所を設けています。日本企業の進出が盛んになり始めるのは1930年前後頃でした。
この頃のタイの主要貿易相手国はイギリスでした。1937年頃には輸出の8割が英国向けで、日本は3パーセントくらいしかなかったようです。(それでも8位くらいらしいです)
別府汽船がこの度就航させた船のモデルは、日本郵船のA型貨物船です。それを喫水を浅くして、小型化させました。
建築家などの装飾関係のお話も出す予定ですが・・・本格的な外洋客船を建造してからになりそうです。




