翔鳳
本州と北海道の間には一つの広い海峡が広がっている。その名を津軽海峡という。東西は約130km、最大水深は約450m。日本海と太平洋を結ぶこの海峡は所謂国際海峡であり、外国船籍の船も普通に通過する海峡として機能していた。
さて、この時代の日本の物流をになっていたのは船と鉄道であった。自動車?まだまだ自動車はこの時代少なくとも日本においては未だに黎明期を抜け出してはいない。それでもぼつぼつ登場しつつはあったがまだまだ数は少なかった。日本においてモータリーゼーションが起こったのが現代より数えて丁度40年ほど前のことで、車の数はその時代よりもずっと少なかった。ちなみに、アメリカでのモータリーゼーションはまさにこの時代であったりする。なので、鉄道や船意外で運ぼうと思ったら昔ながらの馬や牛で運ばざるを得なかったというのがこの時代であった。(そもそも自転車だってまだこの時代十分に普及していなかったのだから・・・)
さて、その日本における鉄道は1853年にロシア人が模型を持ち込んだことで始まった。やがて明治維新の次の年、新橋~横浜間の鉄道建設が始まった。そして1872年にはついに日本最初の鉄道の営業運転が行われる運びとなったのだった。その後、日本の鉄道網はだんだんと伸びていくようになり、やがてこの頃になると日本の主要鉄道網は完成することとなる。しつつはあった。別府造船所が整備を進めている日出でもこの頃自動貨車を用いた輸送を請け負う会社ができたのが丁度この頃のことである。とはいえまだまだ数も今と比べたらずっと少ない。
だが、主要幹線の中で未だつながっていないところもあった。それが本州北端~北海道南部間の鉄道線である。まぁ、そりゃそうだ。津軽海峡を鉄道で直接結ぶことができるのは1988年の青函トンネル完成まで待たねばならない。が、その前の時代までの青森~北海道間での交通は船を用いての物しかなかった。しかし、この時代には結構面白い船が登場している。それが、鉄道連絡船であった。
いや、鉄道連絡線自体はこの時代すでに欧州の方で運行されていた。鉄道網が古くから整備されていた欧州においては、スカンジナヴィアなどと欧州本土を結ぶ鉄道線を整備する必要などから列車を直接運べる鉄道連絡線を必要としていた。現代においてもバルト海にてポーランドなどの鉄道連絡船が運航されたりしている。
1922年11月30日
小雪が降る北の町、函館。この日、ここであるイベントが行わていた。埠頭に一隻の船が接岸しようとしていた。岸壁にゆっくりと船体が接岸すると、乗客がラッタルを降りてくるのが見えた。船の名前は翔鳳丸。国鉄が運営する青森~函館間航路を航行する鉄道連絡船であった。大戦が終わる年に国鉄が別府造船に建造を依頼したこの船は予定より少し早く、この日に就航することができたのだった。ちなみに、この同型の船は別府造船所で一隻、艤装の段階にあり、他には2隻が三菱の長崎造船所にて建造中であるという。
実はこの船、史実にも存在している。本来ならば神奈川に本拠を置く浦賀船渠が数年後に建造するはずの船なのだが、義男がそのお仕事をゲットしたため、別府造船にて建造することができたのだった。まぁ、この会社は姫島丸型のフェリーや外洋航行船である安土丸型貨物船の両方の建造実績を保有しているため、十分技術力があると見込まれたのだった。ついでに、大神鉄道開設の際に国鉄の中古車両を購入したり、コンテナの運用計画の際の取引などもあるから、鉄道院と別府グループの間には太いパイプが存在していたことも関係していただろう。 そのため、いくつか史実とは違ったところがある。その一つが溶接を多用したところであると言えよう。別府造船ではすでに溶接を建造の中心に据えており、そのため、翔鳳丸の船体のおよそ八割は溶接によってできていた。それ以外の部分・・・例えばボイラーはヤーロー缶であり、一応5800馬力はでている。
こうした感じでいくつか違うような点はあるものの、ランプウェイや水密扉などは基本的に同じだったりする。まぁ、元々はバルト海を航行する鉄道連絡船をモデルとしていたのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが・・・。
「かくして列車は海を渡る・・・か」
なんとなしに、義男はそう呟いた。
「しかし、列車が下りる光景を見るのは、少し先のことになるかと」
隣でその様子を見ていた宮部が残念そうに言った。
その言葉に義男も表情を少し暗くした。
「そりゃ仕方ないさ、なにしろそれを決めるのは鉄道院さんだからな・・・」
二人がこう言ったのには当然ながら訳がある。そしてそれは、この頃の国鉄が行っていた鉄道運用にある問題があったことが原因だった。
この頃、本州で運行されていた列車の連結は基本的にネジを使った連結装置を使用していたのだが、北海道のそれは一足早く自動連結器であった。これは北海道で運行された鉄道はアメリカ。それ以外はイギリス・・・とかいう別々の国に支援を頼んだ関係もあったりする(それでもさすがに線路の規格は統一されていたようだが・・・)。そのために互換性が無く、本州の列車を持ってきても北海道では運用できないという訳の分からない状態だった。まぁ、現在でも北海道は鉄ヲタ曰く「ガラパゴス」らしいので、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれないが・・・
また、桟橋の強化も必要であった。この頃青森と函館では、コンクリート製の桟橋の建設が進んでおり、完成したらそこで列車を降ろすことができる予定になっていたのだが、今ではまだそれは完成しておらず、木造の桟橋であった。そのため、重量物である列車を降ろすことはまだできてはいなかった。尤も、義男当人としては、そんな列車を運ぶなんて面倒なことはせずに、フェリーにしたりあるいは駅と桟橋を直接つなぐターミナルを整備したり、あるいはコンテナの積み卸し設備を用意した方が良いんじゃないかなどと考えていたりしたが、顧客の意向には逆らえないのが業者である以上、言われたとおりのことをせねばならなかった。そして、コンクリート埠頭の完成は3年後の1925年になることが予想されていた。
「つまり、当面はこいつは客船として運行すると言うことか」
気怠そうに首筋を掻きながら義男は言った。
「そうなりますね。しかし、完成したら荷揚げなどは従来に比べて時間を短縮できそうです」
「まぁ、到着するなりそのはしから汽車につないでもっていくんだからな」
「従来でしたら、一度積み替えを行わなければなりませんでしたからね」
宮部がどこか遠い目をしながら言った。彼の目に浮かんでいたのは日出港における荷物の積み込みの光景であった。
現在、別府造船所で開発された新型のクレーンが試験的に日出港の埠頭にて運用されており、コンテナの積み降ろしを行っているのだが、それ以前は船に搭載されているデリックや人力で物資の積み降ろしを行っていたのだから。お陰で船の滞留時間が非常に長くなり、効率や運用コスト面で非常に負担であったのだ。だが、コンテナのお陰によって一応比較試験においてはかなり短時間での積み降ろしができるようになり、滞留時間がかなり短縮されるという結果が出ている。問題は、まだまだコストがかかると言うことであろう。
「乗客は乗り換えを余儀なくされるが・・・荷物はコンテナにすればより運搬も効率化できる。悪いことは何一つ存在していない」
「台車につなげばいちいちクレーンを使用する必要もありませんしね・・・ただ、問題としては、運用コストが高いと言うことですね」
「それに、取得コストもだ。この手の船はまだまだ珍しいし、数も少ない。うちでもこの間二番船が完成したところだし、三菱さんでも同じ型の船が二隻建造中だからな。もっと似たような船を山ほど造らないと・・・とてもじゃないがコストダウンにはつながらんな」
義男は残念そうに溜息をついた。
「後、機関は・・・本当にタービンで良かったのかなあ?」
「世界の海運業は徐々にディーゼルになりつつありますが、まだまだ蒸気タービンでも十分と言うことなのでしょう」
「俺的には、開発中の4サイクルディーゼルにしたかったんだが・・・」
「宝殿丸型で実績を積んでからですよ。それに、開発中のものを乗せたら何が起こるか分かりませんよ?」
「そりゃそうなんだがな・・・」
義男は宝殿丸の名を聞いて少し嫌な顔をした。取り敢えず良い名前だからと会議の席で適当なノリで決められたものの、はっきり言って義男はその名前はあまり好きではなかった。なにしろ「ほうでん」とはドイツ語でいうところのr18的要素を持っており、その名を聞いたドイツ人技師達から「それってちょっとどうなの・・・?」と何とも言えないような微妙な表情をしながら言われたことがあったりする。とはいえ、日本的には宝殿とは宝の倉を意味していることから決して悪い意味ではないし、卑猥でもない。むしろどこかおめでたい名前なので多くの人間からは賛同を得ていたため、まぁいいかということで決まったのだった。
話を戻そう。当初義男はパワーこそ蒸気タービンに比べれば低いものの、スペースを確保しやすく、燃費の良いディーゼルエンジンを提案していた。しかし、当時のディーゼルエンジンは今みたいな菜種油などの不純物が一杯な粗悪な油では走ることができず、良質なA重油が必要だった。もちろん義男はそれを込みにしてもこっちの方が良いんじゃないかと思っていたのだが、鉄道院としてはまだまだ未知の領域であり、かつ無駄にコストがかかるディーゼルよりも確実性の高い蒸気タービンを採用したのだった。まぁ、賢明な判断である。ただでさえ鉄道院にとっては初めてのタイプの船なのだ。その船がいきなりハライタ抱えていては目も当てられない。
「それに、ディーゼルの普及を進めるには・・・質の悪い重油の不純物を取り除く装置を開発せねばなりません」
「そしたら粗悪な油でも十分使えるが、俺達にそのノウハウはないけれどな・・・今のところ」
義男は丁度この頃より、石油や鉄鉱石、ボーキサイト、亜鉛、ニッケルと言った鉱物資源やそれを活用した化学技術に対して興味を持っていた。それは当時の日本では開発できなかった特殊鋼や高品質な燃料を造る必要性を理解したからであったからに他ならない。神戸製鋼用に巨大な製鉄所を整備する計画を策定したのもそうだ。それに、戦争中の日本ではあらゆるものが不足していたと言うことも。資源はあってもそれを活用するすべがなければ何にもならないのだ。今回だってそうだ。別府造船ではディーゼルエンジンの製造能力はある程度(といっても最低限度であるが)はある。しかし、それを普及させるために必要な燃料を造り出すという点が欠けていた。今後は、そうした方面においても手を伸ばしていく必要を義男は今回の船を建造する際にも感じていた。だが、まだその時ではないことも同時に理解していた。まだまだあちこちに手を伸ばすには、別府グループの体は小さかった。一応個人レベルでの人脈や小規模な開発依頼は行っているものの、なかなか社を挙げてのプロジェクトとなると難しいものがあった。
「そのためにも、もっともっと大きくならないとな・・・」
「ですがそのためには、売り上げも伸ばさないといけませんね・・・」
「この調子じゃ、そこまで行き着くのに何年かかることやら」
そう言って二人はめでたい席なのにもかかわらず揃って溜息をついた。
その様子を、参列者の影から見る一人の怪しい男の姿があったのだが、それを二人が気付くことはついになかった。
皆様こんばんは
今回は少し短めになった上に、少しばらつきが激しいです。
もう少し一貫した話が書きたかったのですが、これが限界です。
今回は、鉄道連絡線を書いてみました。最初はディーゼル機関車について書くつもりではあったのですが、まだディーゼルは早いかな?と思い、翔鳳丸にしてみました。日本で初めての鉄道運搬船と言えるでしょう。が、さすがにいきなりディーゼル積み込むのは無理でした。
普通の蒸気タービンにしたのですが、ボイラーはヤーロー缶ですので少し大ぶりになっているかもしれません。(それだって年代によって変化するわけですが)
その他の箇所は溶接を多用したなど以外は基本的に浦賀船渠が建造した翔鳳丸と同じ感じです。
さて、そろそろ次はようやく「海軍」が出てくると思います。




