山岡
1917年5月20日 大阪
「フェリー・・・ですか」
「ええ・・・」
この日、義男は大阪商船の本社ビルにて同社の営業担当と商談を行っていた。
目的は黒田と宮部、そして義男が必死になって計画した2000トンカーフェリーの設計図である。
離島と九州を結ぶフェリー事業を起点に海運事業に参加を始めた別府造船(別府汽船)であったが、それでも会社の規模はいまだに小さく、主要な買取は大阪商船や山下汽船、そして海外企業が中心であった。
一応、義男は将来的には確実に余るであろう船を別府汽船に提供することで大阪~日出間航路を整備して鋼材の搬入が可能なようにするよう計画していた。
当初は別府港にて鋼材の陸揚げを行う予定であったのだが、別府港の規模拡大に伴って入港船が大幅に増大することとなってしまって鋼材運搬船の入港が難しくなったのだ。
地元の観光業者からの反対運動がおこったりもしていた。
結果、別府港への鋼材運搬陸揚げは不可能となり、結局となりの日出港からの陸揚げに切り替えることとなった。
まぁ、こっちなら自分たちの経営している大神鉄道からの線路を伸ばせば済むため、土地収用さえうまくいけば1920年には建設開始し、1921年には日出~日出港間の鉄道線が完成する予定であった。
だがそれはあくまで将来の話であり、現在の受注ではない。
いま必要なのは受注であった。
現在はどこの船会社も羽振りがいいため今のうちに大戦終了の船あまりが起こる前に可能な限り金を集めてしまおうと考えていた。
義男にとって課された最大の命題はいかにして戦後不況のなかで生き残っていくかということであった。
だが、さすがに現在フェリーなどという新製品はなかなかどこも買い手がつかない状態であった。
それはここ大阪商船でも同じで、担当者はどうも渋い顔で設計図と説明書を読んでいた。
まあ、当然だ。
新製品というものを買うとき大概の人は躊躇してしまうだろう。
新製品が出たとき、その潜在的購買層は大きく分けて2つにわかれる。
新しいものに飛びつく者と様子を見たり信頼性を重視する者の2種類だ。
新しいものを最初に欲しがるのは基本は変わり者か新しい物好き。
それは潜在的購買者層の2割にしかならないと言われている。
残り8割の購買者層は新商品の浸透にリスクの低下を感じた者やみんな持っているから俺も欲しいと思ったもの・・・つまり、商品が十分に認知されて安心して利用できることが人々に理解された時に購入するというものだ。
また、コレに加えて日本ではインフラが未整備状態のところが多数存在している。
特に港湾関係は壊滅的だとすら言える。
英国のように大規模な船団を受け入れることが可能な港がないことからも分かる
それだけでなく、自動車そのものが日本ではまだ所有率はきわめて低い。
フェリーは自動車を陸揚げさせるための装備などによって価格が上がるためどうしても同じトン数の船よりも船体価格が割高になってしまう。
また、スロープなどの整備などによって維持費もこれまた高騰してしまうのだ。
そこでフェリーなんてものを購入しても十分な採算は合わないだろう。
このため、荷揚げ能力こそ楽になるもののそれだけでは購入意欲はわかない
勿論義男はそれも織り込み済みで、これが現状で売れるとはあまり思っていなかった。
ビジネスは時期とタイミングをみて売り込むものなのだ。
現在はその時期ではない。
今回の商談はいわば売り込むためと言うよりもむしろ「うちはこんなのも作れるよ」という広報のためのものであった。
ただ、埠頭の整備などが完了しつつあることから別府~大阪間航路としては運用可能かもしれないし、うまくやれば買ってもらえるかもとは考えていたが。
(その場合、ローテーションの関係から2隻ないし3隻の購入がされると思われる。)
また、現在建造中の1万トンドックが完成してさらなる大型船が整備できるようになったら鉄道省にも現在計画中の2000トンフェリーを発展させた鉄道連絡船を計画し、提案してみるつもりだ。
それについては黒田と宮部がすでに基本設計を検討中だという。
ちなみに、50トン以下の小型フェリーの受注ならすでに瀬戸内海のいくつかの自治体から受注の獲得に成功しているが・・・
結局、大阪商船の担当者からは「上に報告してみる」とだけいわれることと成った。
義男はちょっと残念に思ったがまあ、予想通りでもあった。
けられることは半ば分かっていたことだからだ。
(というか、船の発注は直ぐにできるものでもない)
この日、別府造船所営業取締役である彼が自分から大阪を訪れたのにはもう一つのわけがあったのだ。
北区富島町(現在の西区川口らへん)にあった大阪商船の本社を出た義男は茶屋町方面に歩き出した
ゆっくりと移り変わる風景の中には煉瓦造りや欧州を思わせるような石造りの建築物に混じって町屋というか、江戸時代に出てきそうな商店もかなりあった。
江戸時代以来日本第2の大都市であったここ大阪は明治維新と共に新たに欧米風のモダン・・・現代から見ればレトロな建築物が多数建築されていたが、まだまだこういう風な江戸時代のような街並みも数多く残っていた。
高層建築も当然のことながらほとんどなく、梅田や御堂筋周辺部も現代のように高速道路の高架や高層ビルが乱立するようなところではない。
そのため、まだ空が現代と違ってとても広く感じることができた。
それが、かつて・・・いや、未来で大阪や東京などの高層ビル群の下をセコセコ歩き回った義男にとっては新鮮なものに感じられた。
というよりも、高層ビルしかないような現代よりも様々な種類の建物が乱立してかえって飽きが来ないこの時代の町のほうが義男は好きになっていたりする。
現在の阪神阪急梅田駅やJR(この頃はまだ国鉄)大阪駅がある地域の直ぐ近くにある茶屋町にたどり着いた義男は何かを探すかのように看板を見て回った。
・・・やがて、義男は一軒の長屋の前にたどり着いた。
何かの工作を行っているようで忙しそうにボルトのねじをとっているような音が響いてきていた。
どうやら小さな工場らしい。
看板にはこう書かれていた。
『山岡発動機工作所』
中でエンジンをばらしていた社員の一人に声を掛けた。
「どちら様で?」
「私、大分県の別府造船所より参りました来島義男と申します。山岡社長とお話をしたいのですが、今お時間は・・・?」
「・・・ああ、m・・・社長なら奥にいらっしゃいますので・・・ちょっと呼んできますわ・・・」
そういうと社員は奥に消えていったが、すぐに一人の男を連れてやってきた。
その男は義男とそれ程変わらない年齢のようであった。
「どうも、私が社長の山岡孫吉です。それで・・・あなたは?」
「別府造船所の営業取締役をしております、来島義男と申します。どうぞよろしく」
にこやかにそういうと義男は自己紹介をしたのだが内心ではちょっと感動していたりする。
と言うのもこの山岡孫吉と言う男、現在のエンジンメーカーの大手、「ヤンマーグループ」の創業者なのだ。
将来には世界最小のディーゼルエンジンの開発なども行っている。
そんな人間と会えたのだ。
現在こそ対等以上に話せるような存在だが、現代日本での彼の身分では話すことなんで無理だったのだから・・・
が、この時代ではまだ無名の零細ガスエンジン修理兼ブローカー会社の社長でしかなかった。
「それで・・・お話と言うのは?」
「いや~、実はわが社で発電用のガスエンジンが必要になりましてね、何かいいものはないかな~と思いまして」
勿論、嘘だ。
いや、さらなるドック開発に伴う電力の充実のために発電用のエンジンは必要ではあるがなにもそこまで急ぐと言うわけでもなかったし、中古エンジンじゃなくても良かった。
が、現在はまだこの会社は羽振りが良かったためにいきなりM&Aするのはちょっと難しいと考えたのだった。
(それに、まだこの会社はエンジンの修理&転売屋でしかないためいきなりディーゼル作ってなんていうのも無理だ)
つまり、今日訪れたのは顔つなぎでしかない。
「ほう、発電用・・・ですか。」
「ええ、そうですね・・・150キロワットは欲しいですね」
「150・・・ですか。分かりました。探してみましょう」
「お願いします。ああ・・・それから、なにか困ったことなどがあればすぐにお電話ください。何か御力に慣れるかも知れませんし。」
それだけいうと社の電話番号が書かれた名刺を差し出した。
その後、とりあえず、一ヵ月後には関係者と一緒にくるからその時までには頼みたいとだけ言うと義男は社舎を出て行った。
山岡孫吉はどこか頭の中に引っかかるものというか義男に対して変な疑惑と言うか・・・が浮かんだのだが、まぁ、客だしちゃんと払うものを払ってくれればそれでいいと考えていた。
その後、山岡と義男が別件で再び出会うこととなるのだが、それはもう少し後のこととである。
どうもおひさしぶりでございます。
10月中に次を上げようと思ったのに気が付いたら11月1日・・・どうしてこうなった!
しかもゆっくり書いていたわりにすげえ短い!
図書館で大阪市の昔の写真やら新聞やらを読んでいたのですが、あまり思想は現代と変わらなかった・・・というよりも今よりも過しやすそうな時代だと思いました。
当時の大阪…特に梅田界隈は現代とは全く違った様相だったようで、小さい頃に亡くなった曾祖母より当時の大阪の話しをよく話を聞いていたのでこの頃の姿を見てみたいとこれを書いている最中に思いました。




