汽船
皆様お久しぶりです。
久しぶりに投稿できました。
帰ってきてさあ書こうかと思ったら中々アイディアは浮かびませんでしたので結構難航してました。
8月26日ないし27日くらいに上げようと思ったのに気が付いたら9月・・・どうしてこうなった!?
1916年9月8日 別府造船所会議室
「どうしてこうなったし・・・」
別府造船所の社員達は溜息混じりに一様にそういった。
積み上げられているのは大量の茶封筒。
中に入っているのは地域の有力者からの手紙である。
ここ数年、別府造船所は大きく成長したがその一方で自分達のためでもあるとは言え、多数の地域振興策を別府造船所が存在している大神を中心に別府周辺で盛んに行っていた。
日出駅~別府造船所間に鋼鉄搬入のための軽便鉄道を敷いたことや別府港の拡張工事を最初に打ち上げたりしたことがその一例であるといえよう。
そのことを知った周辺の自治体が
「お前らだけずりきぃ!わし達にも何かしちくりぃ!(お前らだけずるい!俺達も何とかしろ!)」
と、言い出したのだ。
お前らのところやってもうちに何の得もないじゃん・・・
と言う訳にも行かない。
何か嫌がらせを受ける可能性だってあるのだ。
彼らの陳情は自分達の地域のインフラ開発であった。
この時代、日本国内のインフラは現代とは比べ物にならず、当に「貧弱!貧弱ゥ!」といえるくらいに貧弱そのものであった。
大分屈指の良港であり、観光客が乗り降りする別府港にまともな埠頭が整備されていないということからもそれをうかがうことができるであろう。
しかし、インフラ整備・維持には莫大な資金がかかるのだ。
今だって大神鉄道(別府造船が整備した日出~造船所間の線路。狭軌&単線。)の維持、運用には採算性の低さから四苦八苦しているのが現状である。
ポッと出の地方中堅造船所には極めて過大な要求であった。
「全く、そんなに港や道路が欲しけりゃお上に相談しろよ・・・」
義男はヤレヤレと頭を抱えた。
「やけど、全く無碍にもできんちうのが現状や。悲しいこつやけどな」
雷蔵もまた思い溜息をついた。
「問題はこれっんをどげえすっかっだ・・・」
「・・・当面は先送りかな?」
「といっても10年が限界だ。それ以上は伸ばせない」
(その前に 戦争が終わっちまうだろ)
義男は心の中でボヤいた。
特に多く寄せられているのは国東郡の姫島からのものであった。
瀬戸内海の姫島は大分県は国東郡にあり、人口は3千程度の小さな漁村の集落であった。
そこでは連絡船が存在せず、九州本土に渡るには漁民がもつ船で行き来するほかなかったというのが現状であった。
そのため、村民達は早くから連絡船を欲していたがなかなか実現することはなかったために半ば諦めていた。
ところが、別府造船が地元の大神や別府市のために(半分以上自分達のため)公共事業に参加したことによって状況が変わった。
ならばウチも作って欲しいということになったのだった。
しかしこれは別府造船所・・・というより義男や雷蔵にとっては丁度いいものであったといえる。
元々義男は現状の鉄鋼および造船、鉄道だけで大戦後の不況を乗り切れる自信はなかった。
ここは海運業にも手を出してさらなる多角化を進める必要があると考えた。
(最も、デッドストックになった貨物船やらを受け入れてもらう下地にするつもりであった)
とはいえ、急にドックを空ける必要もあったがそうもいかない。
現状別府造船所の5000トン級ドックはいまだ埋まった状態であり、700トンドックも難しい。開いているのは300トンクラスの船台が二基あるだけであったのだから。
たしかに進水は可能だろう。
だがその後の艤装が十分にできるとは思えなかったのだ。
また、建造期間も数ヶ月はかかる。
「排水量はあの島は200トンもあれば足りるが・・・」
「・・・技術主任としてはどう考える?」
雷蔵の問いに宮部が答える。
「・・・従来でしたら楔の打ち込みなどで時間がかかりますが、現在わが社の溶接工の熟練度は十分に上がっておりますし、全体溶接は十分に可能と判断いたします。また、ブロック工法を用いればより速くかつ安価で建造できそうです。」
「具体的には?」
「想定されるトン数は200トン未満と想定されることから1ヶ月以内に進水および艤装は可能でしょう。」
「なるほど。」
「ただし、問題は艤装でしょうな・・・」
武田が言った。
「浮きドックが必要になるかも・・・」
「やけど当面は無理や。若築建設さん達からの発注でてんてこ舞いやからな。」
雷蔵の言葉に社員達はハハッと乾いた笑い声を上げた。
「では?」
「進水までは行うが既存のドックが開き次第、即座に入渠させる。なお、建造方式は宮部技術主任の言うように全体溶接を行うこととする!」
「しかし、どのような船がよろしいでしょうか?やはり通常の貨客船のようなものになると思いますが」
設計主任の黒田正志が尋ねた。
安土丸型を設計したのは彼であった。
「カーフェリー・・・自動車の陸揚げ能力をもつ船はいかがでしょう?」
義男が声を上げた。
「自動車・・・ですか?」
黒田が怪訝な顔をした。
この時代、まだまだ自動車は飛行機などと同じく黎明期を抜けきれてはいなかった。
日本で一応民間にも普及しだしたのは丁度この頃であったが・・・。
「ええ。大戦を見るにこれからは自動車の時代になっていくでしょう。また、そうでなくてもウィンチやクレーンでいちいち上げなくても大八車を押してそのまま乗船できるというメリットもあります。」
それに、将来的にもこれは必要になるだろうしね・・・
義男は史実のような島嶼戦に備えて必要になるであろう大規模な揚陸艦のプロトタイプとしてフェリーを建造するつもりでいた。
「ふむ・・・取り敢えずやってみましょう。」
「しかし今度は港湾が問題となってきますな。」
武田が答える。
「・・・一応港湾建設は若松築港さんからの応援も頼む。幸いなことに船の建造資金および港湾の整備費用の半分は自治体持ちだ。港湾施設および船舶の完成は1918年の終わりから1919年初めごろをめどとする。人員はそれまでに用意すること。・・・一色人事部長」
「はい」
一色和磨人事部長立ち上がった。
「ウチは運用にかけてはズブのド素人だ。大阪商船さんや日本郵船さんから退職した人材を当たってくれ。」
「分かりました。」
(とはいえ、今はどこも船員不足で厳しいからな・・・最悪源さん(大神村の漁師、元海軍大尉)にでも頼むか)
一色はそう考えた。
数週間後、姫島村の村長らとの協議の結果、別府造船と姫島村が共同で姫島~伊美間の定期連絡船を運営する汽船会社を設立、運営することが決定した。
その社長には来島雷蔵が就任した。
持ち株は姫島村が3、別府造船が7となった。
実質的には神戸製鋼所と同じく、別府造船の傘下であった。
社の名前は「別府汽船」と命名される。
国東郡の姫島の定期便なのになぜ別府汽船なのかというと、別府に本社が置かれ、将来的にはここの他にさらに別府~神戸間の航路で鋼材の運搬も行う予定だったからだ。
やがてこの会社は成長を続けて日本を代表する海運会社の一角に成長していくこととなるのだが、それは雷蔵も義男も知る由もなかったりする。
なお、建造されることとなった船は「姫島丸」と命名された。
排水量200トン、乗客数150人そこそこで、その気になれば5~6両ほどのフォードトラックを積み込むことができた。
後方から桟橋に接岸し、車両用のランプウェイを下ろしてそこから自走して揚陸することができる形とした。
日本最初のカーフェリーの誕生であった。
今回は別府汽船の誕生です。
姫島~伊美間航路でのフェリー運行は最初から作ろうと思っておりました。
これを母体にすれば割かしすんなりいけるのでは?
と思っていたので・・・
ついでにフェリーも作りました。
最終的にはLSTみたいなのも作るつもりです。
(そういえば安土丸型と姫島丸以外の船ってクラブ式浚渫船くらいだな)
さて、そういえば以前感想のところで皆様が「阿蘇丸」について議論を交わされたことがありますが・・・実際どんな船にしようかというのは現在考え中だったりします。




