浚渫
1916年7月20日 別府
別府町のある地域の海岸ではこの日、大規模な工事が行われていた。
船の上にあった起重機が唸りを上げてバスケットを水中に沈めていった。
程なくして再びバスケットが水中から顔を出し、隣に停泊していた運搬船に中身の砂を大量に落していく。
やがて、船蔵が砂で一杯になった船はゆっくりと出発して起重機の搭載された船から離れ岸の一角へと向かい、そこで砂を落していった。
そう、ここでは新たな別府港の整備が行われていたのだった。
その様子を義男をはじめとする別府造船の社員達は近くの砂浜で割れた西瓜をかじりながら見つめていた。(当時、別府湾沿岸は基本砂浜が続いていた。)
「くそあちぃから視察のついでに海水浴行くぞ!」
と言う、雷蔵の言葉に何人かの社員が賛同し、ついでに家に帰ろうとしていた宮部を半ば強制的に引っ張って別府港のそばの海岸にやってきたのだった。
「やけど、良かったな。」
木刀片手に西瓜をかじっていた雷蔵が言った。
「せやな、補助金が下りてなかったらどげんなりよったこつか」
「多分、武田辺りが悲鳴を上げちょったんやないか?」
「ハハハ・・・違おらんな」
雷蔵と義男は笑いながらそういった。
油屋からの提案と以前より計画していた港湾整備において、桟橋の必要性に迫られた別府造船所は早速この日から別府港の新たな拡張工事計画をスタートさせた。
そこに別府町が目をつけたのだ。
別府町としても観光振興などの地域活性化の観点から港湾整備などのインフラの改善の必要性を実感しており、別府造船の港湾開発に一口のろうと考えたのである。
そのため、この工事はいつの間にか別府市が主体として行うこととなり、建設のための補助金も下りることが決定した。
工事は別府造船や水中土木業者である若松築港株式会社をはじめとする土木工事業者が行うこととなった。
別府造船はこの工事では以前からドック新設や大神の入り江の整備のために用意した浚渫船「ひので」および石炭運搬船を改造した土砂運搬船「おおが」を提供することとなった。
工事計画は大阪商船の紅丸が入港できる程度の深さである5メートル以上の深さを掘る必要に迫られていた。
別府湾沿岸は平均2メートルと浅い海だったのだ。
これでは大型船は進入できない。
そのため、進入航路を開くことと現在進む船舶の大型化を鑑み、最低でも2000トン以上の船が入港出来る程度の深さまでは彫る必要があった。
そのため、湾内および海岸の一部から土砂を引き上げ、それを別府湾の北側にある一角を埋め立てて、それを土台として埠頭および護岸を構築するという方法が計画された。
本来ならば掘り下げた後ポンツーンを用意する予定だったのだが、大阪商船側がそれでは不安だということでコンクリート埠頭となったが、一部に乗り付けようのポンツーンを装着することで一致した。
(700トンそこそこならば十分に対応できた。)
なお、この港には大型クレーンが設置され鋼材運搬用の軽便鉄道が別府駅までしかれることとなる。
ちなみに埠頭の建造資金は別府市から渡されていたので、赤字覚悟であった雷蔵はむしろ儲かったことでホクホク顔であった。
油屋をはじめとした別府の観光業者も「ねんがんのふとうをてにいれたぞ!」と狂喜乱舞していた。
ちなみに油屋は更なる別府の利便性向上をと考えて亀の井バスを創設し、交通業に打って出ることとなる。
「やけど、お前が考えた船がこげんトコで役に立つっちな」
雷蔵は感慨深げに言った。
義男は西瓜の汁でべとべとになった口をぬぐいながら
「ドック新設のためやったんやけどな」
そう言ってハッハと苦笑した。
彼が計画した船は厳密に言うと船というより浮き船と言った方が正しいのかもしれない。
現在でも大阪やらの港湾や河川工事で偶に見かけるものだ。
現代では「グラブ浚渫船」と呼ばれる型式である。
ポンツーンの技術を応用して建造したものであった。
ポンツーンの上にアメリカより購入した中古のスチームショベルを搭載したものであった。
丁度、パナマ運河が開通して半ばお役御免になったものであった。
そこに機関設備などを設けるなどを行った。
自走能力はなく、漁船に引っ張ってもらう必要があった。
まぁ、元々自走能力など付与するつもりもなかったし、問題ではなかった。
義男はこれを宮部に提案し、宮部自身も面白そうだということで二つ返事で承諾した。
最も、これで嫁と過ごす時間が減るとブツクサ言っていたが。
(・・・どうもうわさでは最近嫁が冷たいらしい)
ということで1916年3月18日に第2船台で基盤が完成し、第1ドックで4月には設備の搭載などが完了し、早速第3ドック(同じく5000トンクラス)の建設の際に、浚渫工事のために投入されたのだが、それは実質的にこの別府湾の改修工事に投入されるためのテストでもあった。
テストの結果は良好であった。
これには水中土木業者も参加していたのだが、彼らもこの浚渫船には驚いたようだった。
そのため、若松などの本職の業者からも発注が来ていた。
やがて、この「ひので型浚渫船」は日本におけるクラブ型浚渫船のスタンダードとなる。
「今のペースじゃと竣工はいつごろになるっち思う?」
義男は隣で自棄になってビールを飲んでいた宮部に尋ねた。
「・・・ん、そうですね。基礎工事でおよそ3ヶ月ほどは掛かると思いますので、およそ一年近くは掛かるものと推定されます。しかし、それはあれがあるからの話ですし、下手をすればもう1年はかかってもおかしくはありませんでした」
「やはり、これからはもっと必要になるやろうな。アレ」
「となれば、今以上のショーバイ繁盛が見込めるちうこつやね」
雷蔵が笑いながらいった。
「そうなるでしょうね・・・」
私としては家に帰って嫁とイチャイチャしたいんですがね・・・
宮部の最後の呟きは潮風に乗ってきえた。
彼らの視線の先では相変わらず、工事が続いているのだった。
宮部君、あまりにも哀れであった。
ちなみにこの数日後にまたしても義男が今度は鉄板をくくりつけられて海に落ちたことだけはいっておこう。
今回は依然お話した港湾整備計画でした。
この時期の写真を見ますと、別府湾沿岸は基本的に砂浜が続いておりまして、大型船が近づくことは難しかったようです。
そのため、以前言ったように艀が人員や物資の陸揚げに活躍しました。
ですが、さすがにそれは不味いと言うことで1916年に埠頭の整備が行われる事となりました。
今回はコンクリート埠頭や護岸も一部に配置しました。
後は駅までの鉄道を引くつもりです。
ちなみに別府はこのときまだ町として認定されていまして、市になるのは大正13年のことです。
さて、次回は大変申し訳ないのですが、私はこれから1週間ほど出かけることとなりまして、ネットが使えないんですね。
ですので、次の投稿は誠に勝手ながら、8月26日以降とさせていただきます。
申し訳ありません。




