チャンスの女神様の前髪
「チャンスの女神様には前髪しかない」
有名な話だよね。
女神の前髪を掴まなければ、つまり、チャンスが目の前に現れたらすぐに捕まえないとチャンスはあっという間に逃げてしまうってわけだ。
それを踏まえてこれから話す話を聞いてほしい。
先日、不思議な体験をしたんだ。
その日、僕は真っ白い道を歩いていた。
なんて表現したらいいのかな、とにかく真っ白い世界だった。背景も全部真っ白でね、地面も真っ白。でも、ここは僕の歩いて良い道、こっちは歩いちゃいけないとこってのがなんとなく分かるんだ。不思議な世界だったよ。あれは夢だったのかな? 僕自身も記憶があいまいで良く覚えていないんだ。
まぁ、前置きはこのへんで。ここからが本題だ。
僕が道を歩いていると、向こうから人が歩いてくるのが見えた。そこは十字路みたいな道で、その人は僕から見て右から左の方向へと歩いていたんだ。
周りには僕とその人しかいないし、あたり一面真っ白で、他に目を引くものもなかったから、自動的に僕の視線はその人に注がれた。だからその人の特徴は今でも覚えているんだ。
その人は白地に袖のところが赤くなっているTシャツを着て、薄い青のジーンズを履いていた。すごくラフな格好でね、街中では埋もれてしまうだろうけど、あんな真っ白な世界にいわゆる「普通」の格好は、逆にものすごく目立つんだよ。
そんな格好だから、最初は男かと思ったんだ。いや、服装で判断したというよりは……髪型だな。
その人、坊主頭だったんだよ。だからプライベートのお坊さんみたいだった。プライベートのお坊さんを見たことはないんだけどね。
でも、その人が近付くにつれて僕の中でどんどん違和感が膨らんできた。Tシャツから伸びる腕は細くて白かったし、胸部には膨らみがあった。
それに……彼女には、前髪があったんだ。
後ろは確かにツルツルなんだよ。でも、頭頂部くらいから目の上ギリギリまで、厚めの前髪があるんだ。いわゆる「パッツン前髪」ってやつだね。
それを見て僕は閃いた。「あれはチャンスの女神だ!」ってね。
突拍子もない話だって、君は笑うかもしれない。でもね、その場に君がいたら君もきっと同じ事を思っただろう。どんな俗っぽい服を着ていようが、やっぱり神様は神様だ。なんとなく分かるんだよね、普通の人間じゃないってさ。
それで、閃いた瞬間に僕は走り出した。
だって、女神様はすぐにどこかへ行ってしまうんだよ。早く捕まえなきゃ、チャンスは掴めない。
彼女はどう考えても僕の方に向かって歩いていないし、それどころか僕の存在に気付いてすらいなかった。でも、そんなことはどうだって良かったんだ。前髪を掴んでしまえばこっちのモノさ。
彼女と僕との距離はだいぶ近かったし、女神様は油断していたのか、僕は難なく彼女に接近することに成功した。彼女の前に飛び出し、僕は彼女の頭に手を伸ばした。
彼女は目を見開いて、ただただ僕を見つめていたよ。彼女は突然襲ってきた僕に、手も足も出なかった。
彼女の髪を引っ掴み、「あぁ、これで僕はチャンスを掴んだんだ!」って、そりゃあもう、歓喜したよ。
でもそんな喜びは、長くは続かなかった。彼女の前髪を掴んだ反動で僕は前につんのめったんだけど、その時、手に違和感を覚えたんだ。まぁ、擬音で表すとするならば……「ズルリ」かな。
つまり、彼女の前髪がずれたんだ。
カツラだったんだよ、彼女の前髪は。
彼女は驚きで立ちすくむ僕からカツラをぶんどって一瞬睨みつけた後、煙のように消えてしまった。
なんだったんだろうって、僕は長い事考えたよ。彼女は絶対にチャンスの神様だった。根拠はないけど、僕には分かったんだ。だから、誰かがチャンスの神を騙ったってことは考えられない。
そこで考えた結論なんだけど――彼女は、イメージを守るためにカツラをかぶっていたんじゃないかな。
後ろ髪がないことから見て、彼女の毛根は決して強くはないんだろう。それなのに、彼女は何百年、何千年にわたりたくさんの人に髪を掴まれ続けてきた。結果、彼女の前髪は抜け切ってしまう。でも、やっぱり前髪がないと「チャンスの女神」という風に見てもらえないよね。僕だって、前髪がなかったら神様だという事には気が付けても、チャンスの神という事には気がつかなかったかも。だから、彼女はわざわざ前髪だけのカツラを着用しているんだ、って僕は思ってる。
彼女のラフな格好から見て、あの時はプライベートだったんだろう。だからカツラも甘めにつけられていて、あんなに容易にズレてしまったんじゃないかな。
まぁ、この仮説が当たっているかどうかはまさに神のみぞ知る、ってヤツなんだけどさ。一つだけ確実な事がある。
それは、彼女はもう僕の前に現れてくれないだろうってこと。女性にあんな失礼な事をしてしまったんだからね。