『くぐつ舞』
花のお江戸の両国橋。昼間は賑わうこの場所も、日が沈むにつれ行き交う人も、ちらりほらりと閑古鳥。
夕焼け空にカラスが鳴けば、すっかり歩く人もなく。それでも仕事を投げ出す訳にゃ、いかぬがこの世の定めかな。
ぽっかり浮かんだ月を背に、今夜も夜通し橋の番。両国橋ほど大きな橋じゃ、通るためにも許可がいる。
とおりゃんせ、とおりゃんせ。おぜぜのないもの通しゃせぬ。二文払ってお行きなさい。
今夜の橋番つとめるは、歳のころなら三十五、六。愛想の無いのが玉に瑕だが、仕事は真面目で受けがよく、苦みばしったいい男。名を長吉という男。
橋番といえば聞こえはよいが、盗っ人追い剥ぎ辻斬りなどに、そうそう出くわす筈もなく、とどのつまりが案山子のごとく、立ってるだけの見張り番。それでも一晩立ってるだけと、いうのもなかなかつらいもの。眠気覚ましに美味くはないが、覚えたばかりの煙草をひとつ。
ふわりと紫煙たなびく先に、見えたる人の影一つ。夜目にも派手な着物をまとい、やや俯いて目を伏せて、しゃなりしゃなりと歩く姿は、どこの大夫か花魁か。長吉、しばし見惚れたが、供も連れずにただ独り、夜半に歩くは訝しい。狐狸妖怪の類など、信じるわけではないけれど、ちょうど時刻は丑三つの、草木もぐっすり眠る頃。
何がおきても不思議はないと、眉にちょちょいと唾をつけ、煙草をぷかりと吸い付けた。
女がだんだん近づくにつれ、カラリコロリと下駄の音。
ヤレ、幽的ではなかったか。長吉、胸をなで下ろす。よく見りゃかなりの別嬪さん。俯き加減で目を伏せた、憂いを秘めたその顔は、なんとも言えず艶がある。橋のたもとでぴたりと止まり、彼女は銭を手渡すと、橋をゆっくり渡りだす。
手渡されたは、ただ一文。ハテ間違いか、故意なのか。いずれにしても知らせねば。長吉、その場を駆け出した。押っ取り刀で駆け出す前に、袂を素早く弄って、二文出したはご愛敬。
件の女はただぼんやりと、橋の真ん中、頬杖ついて、水面をひたすら見つめるばかり。長吉、しばらく躊躇って、女にゆっくり歩み寄り、橋の欄干、手をかけて、驚かさぬよう言葉をかける。
「姐さん、渡り賃は二文だ。まさか、橋の真ん中までしか用がない……ってこたぁないだろう?」
女はゆっくり振り向くと、凄艶といえる笑みを見せ、艶めく珊瑚の唇で、やや自嘲気味にささやいた。
「……その、まさかのつもりでおりますのさ」
「身投げでも、するつもりですかい? そんならおやめなせえ。土左衛門なんざぁ、ありゃ化け物だ。見られたもんじゃねえ」
「知ってるよ。そんなこたあ……。わっちが死のうが死ぬまいが、あんたに関係ないだろう」
「目の前で飛び込まれちゃあ、うなされる。悪いこたあ言わねえ。およしなせえ」
「エエモ、しつっこい男だねえ。男の身投げは、黙って見送るのが餞ってもんじゃないか」
長吉、しばし絶句して、喉に湿りをくれた後、やっと言葉を紡ぎ出す。
「姐さん、あんた……男か?」
「色子上がりの、役者だよ。……一応、ね」
「いや、驚いた。声を聞いても女にしか見えねえや。いや、悪い。俺は芝居なんざ、めったに見ねえから」
「市村座の、琴哉ってんだ。これでも、贔屓がいるんだよ」
「そうだろうな。お前さんが舞ったら、さぞかし人気が出るだろう」
「ありがと。嘘でもうれしいよ」
琴哉と名乗ったその役者、ふっとため息ひとつつき、諦めたように目を伏せる。長い睫毛が象牙の肌に、暗い憂いの影落とす。
「わっちの舞は、女に見えないんだと、親方から、そう言われたよ」
「俺には、そうは見えねえがな。まだ、男だと信じられねえくらいだ」
「こうやって、話したり、仕草なんかは良いって言うんだよ。だけど……芝居になると、駄目だってさ。笑っとくれよ。芝居が出来ない役者なんてさ……なんにもならないじゃないか」
「だからといって、死んでどうなるものでもねえや」
「あんたに何がわかるのさ」
「役者稼業なんざ、わからんさ。ただわかるのは……お前さんが、ばかだってことだ」
息巻く琴哉をなだめるように、静かな声でつぶやいた。
さあっと一陣、夜風が吹いた。
「舞ってみな。ここで」
「ここで、かい?」
「どうした。花形役者は舞台の上じゃねえと舞えねえか」
からかうような飄げた声に、琴哉は、やおら立ちあがり、夜のとばりも裂けよとばかり、博徒のような啖呵を切った。
「ふざけるんじゃないよ! わっちだって役者の端くれだ。道端だろうが橋の上だろうが、この琴哉の舞、見せてやろうじゃないか」
月の光を背に受けて、琴哉はひらりと宙を舞う。
夜の帳が紗幕と変わり、橋は見る間に舞台と化した。
流石に贔屓がいるだけあって、琴哉の舞は素晴らしい。風花のように儚げで、蜜蝋のようにたおやかで、人形のように艶麗な舞。
動きに少しもぶれが無く、地に足をつく音もない。夜目にも白いその顔は、まばたきひとつ、みせはしない。
「よくわかった。お前さんの舞は完璧だ。……でも、その親方の言うとおり、女には見えねえ」
舞の終わった、その刹那、長吉はそうつぶやいた。
「かと言って、男でもねえ」
「どういう、ことさ」
「お前さんの舞……。ありゃあ傀儡だ。つくりもんさ。芝居ってのは、絵空事の世界だ。客は、その絵空事を見に来る。そりゃいいさ。……だけどな、お前さんが人形みてえに、冷てえすました顔しててどうする。……傀儡が舞っても、いずれ飽きられる」
「人形の……舞か。そうかもしれない」
琴哉は、はたと気がついた。上手くみせたい、見られたい。そのことばかりに目がいって、いつのまにやら笑顔を忘れ、かたく冷たく張り詰めた、人形の顔をしていたことに。
「ねえ、兄さんは知ってるかね? 役者がまず教わることは、舞でも台詞まわしでも、雑用でもないんだ。笑顔なんだよ。……わっちは、それをわすれていた」
「お前さんは、笑えねえわけじゃねえ。もう一度、やり直してみなよ。そうすればきっと親方だって認めてくれる」
「やりなおせるかい?」
「そりゃ、お前さん次第よ。……市村座の、琴哉か。覚えておくぜ」
夜の帳が、しらじら明ける。芝居は、はねて浮世に戻る。
「……これ、残りの渡り賃」
琴哉は白い元結に、括った銭の束を出し、ぷつりと解いて一文渡す。
雪より白い手のひらで、小銭が五枚チャラチャラ踊る。
「三途の川の舟賃には、もう用はないからね」
「下らねえことで閻魔のところに行こうなんざ、もう考えるんじゃねえぞ。……お前さんが一枚看板になれたら、そん時は見に行ってやらあ」
琴哉とサシで会うことなんざ、恐らく二度とありますまいと、名前も告げず長吉は、そのままくるりと踵を返す。
手持ち無沙汰でくわえた煙管、何故だか僅かにほろ苦いのは覚えたばかりであるからか……。
明けの烏が夜明けを告げりゃ、話を止めねば野暮なもの。これにて一席お開きと、させていただくこの次第。とある一人の橋番と、芝居役者の物語。