集団ストーカー :約3000文字
「――でしょ!」
――ん?
「ちゃんと証拠撮ってるから! 逃げんな! 盗撮魔!」
昼下がりの近所のショッピングモール。買い物を済ませ、エスカレーター脇のベンチに腰を下ろして一息ついていた、そのときだった。突然、天井に突き刺さるような女の怒声が吹き抜けの空間に反響し、おれは反射的に声のほうへ顔を向けた。
そこにいたのは、中年の女だった。くすんだ色の上着に色褪せたスカートを合わせ、薄汚れた白い帽子を目深にかぶっている。手入れされていなさそうな黒髪を後ろで一つに束ね、腕を突き出すようにスマホを構え、若い主婦風の女に詰め寄っていた。
主婦風の女は通話中らしく、スマホを耳に当てたまま顔を強張らせ、視線を泳がせながら小走りでその場を離れていった。
取り残された地味な女は、その背中を睨みつけたまま立ち尽くし、怒りで肩を小刻みに震わせている。
盗撮――可能性がゼロとは言い切れないが、逃げていった女はごく普通で、むしろ穏やかそうに見えた。十中八九、あの女の勘違い……いや、妄想だろう。精神を病んでいる類の人間だ。こういうのは関わらないに越したことはない。
おれはそう結論づけ、視線を落として小さく息を吐いた。
「あなたもでしょ」
「えっ」
視界の端に、薄汚れたスニーカーがすっと映り込んだ。背筋に冷たいものが走り、まさかと思いながら顔を上げると、案の定だった。あの女が目の前に立っていた。
「あなた、さっき盗撮されてましたよねえ?」
「いや、あの……おれは別に……」
最悪だ。まさか、おれが目をつけられるとは――
「実は、あたしもなんです」
「……ん?」
「あたしもあなたと同じ。集団ストーカーの被害に遭ってるんです」
「えっ、そっち!?」
おれは思わず声を上げた。女は「そっち?」と小首を傾げると、当然のようにおれの隣へ腰を下ろした。濡れた雑巾みたいな匂いがふわんと漂った。
「いや、その、そういう展開になるとは思わなくて……」
「いい? あそこの男、それからあそこにいる女。全員、諜報員だから」
女は鋭い目つきでじっと前を見据えながら、顎で遠くを指し示した。一応、視線を向けてみたが、いずれもごく普通の買い物客にしか見えなかった。
「諜報員……ですか」
おれは冗談めかして笑おうとしたが、喉が引きつり、咳ともつかない乾いた音しか出なかった。
女の目は異様な光を帯びている。冗談を受けつない、確信めいた目だ。虫程度なら睨むだけで殺せそうな迫力があった。
「そう。あっちの夫婦っぽい二人は、公安警察の私服警官よ。前にもこのモールで見かけたから間違いないわ」
「地元の人なら何度も来ることもあるのでは……」
「ほら、この動画見て」
女がスマホをぐいと突きつけてきた。画面には、レジを正面から撮影した映像が流れている。会計中らしく、店員が無表情で商品をスキャンしている。画角がやや斜めで、無意識におれも首を傾けてしまった。
「店員まで盗撮してくるの。最悪でしょ? もう二度とあの店員のレジには並ばないわ」
「盗撮しているのは、あなたのほうでは……」
「私のマンションの両隣の部屋も諜報員なの。しょっちゅう住人が入れ替わるのよ。不自然すぎると思わない?」
「たぶんそれは、あなたが原因なんじゃ……」
「一般居住者は私だけ。他は全員スパイなの。もう最悪。あたしが部屋に帰った途端、音出し加害が始まるんだから」
「逆になぜ、あなた一人だけが標的に……」
「ほら、この帽子見て」
女はそう言って頭を下げ、白い帽子のてっぺんを指さした。近くで見ると布地は黄ばみ、全体的に薄汚れている。
「頭頂部が黒くなってるでしょ? これね、電磁波攻撃で脳を狙われた証拠」
「いや……ただの汚れに見えますね……」
「この前も、あたしが攻撃に気づいた瞬間、軍用機が真上を飛んだのよ。それにほら、腕のここ。赤くなってるの見える? 電磁波で加害された痕」
「虫刺されに見えますね……」
「窓開けた途端、選挙カーや子供の泣き声で音出し加害してくるし、最悪よ。もう本当に引っ越したい……」
「他の人もそれを望んでいるかもしれませんね……」
「アースショット計画についてはあなたも知ってるでしょ? ディープステートがオールドメディアを操って、アジェンダを流布し、イニシアチブを取ってプライオリティの高いステークホルダーに利益を確約するの。そうやって限られたリソースを独占して、私たち市民をエクスプロイトしてるのよ」
「……いや、ちょっと意味がよくわからないですね……いろんな意味で」
「しっ、静かに」
女が目を見開き、口元に指をあてて周囲を見回した。
「やられてるわ……」
「え?」
「静かにっ! 今、思考盗聴されてるのよ……」
「…………いや、じゃあ喋ってたほうがまだいいんじゃないですか」
「伏せて!」
「ちょ、なんですか!?」
女がいきなり両手でおれの頭を掴み、体重を乗せてきた。首を捻りそうになり、おれは反射的に踏ん張った。
「今、狙撃されるところだったのよ」
「そんなことあるわけないでしょ……」
「無事でよかった……」
「いや、いい人なのか……?」
女は目尻を拭うと、深いため息をついた。そして、すっと立ち上がり、おれの肩に優しく手を置いた。
「あなたも十分気をつけることね。特に夜は排泄コントロールで睡眠妨害されるから」
「それは単に加齢で目が覚めやすくなっただけでは……」
女はろくに返事もせず、おれの手を無理やり開かせると銀色の小さなネジのようなものを握らせた。それからくるりと踵を返し、歩き去っていった。もしかすると、これは彼女の頭のネジかもしれない。
その背中が人混みに溶けて完全に見えなくなると、おれはようやく胸の奥に溜めていた息を吐き出した。
それにしても驚いた……。おれは昔から妙に絡まれやすいのだ。新興宗教の信者、マルチ商法の会員、霊感商法、特定の政党の支援者……ただ歩いているだけなのに、おれを見つけると決まって笑顔で近づいてきて話しかけてくる。おそらく、気弱で押しやすそうに見えるのだろう。
……まあ、そのおかげでいい縁もあったわけだが。
おれはもう一度、ふーっと息を吐き、ベンチから立ち上がった。モールの自動ドアを抜け、夕方の冷えた空気を吸い込みながら家路についた。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ってしばらくすると、隣の部屋の住人が帰ってきたらしい物音がした。玄関で靴を脱ぎ、ばたばたと部屋の中を落ち着きなく歩き回る足音が壁越しに伝わってくる。
おれは少し間を置き、モールで買ったタオルの入った紙袋を手に取り、部屋を出た。
「はいはーい」
インターホンを押し、ドアが開くのを待つ。挨拶は手短に、記憶に残らない程度で済ませるのがコツだ。『まあ、感じは悪くなかったな』と思わせるくらいがちょうどいい。それが、適切な距離感の作り方だ。
最近は引越しの挨拶をしない人も多いらしいが、こういうことは無難にやっておいたほうが怪しまれないものだ。
まあ、どちらにせよ任務に支障はないだろうがな。そう、このおれは――
「お待たせしまし――あっ、あなた、モールの……」
「あ、え、あ……」
背筋が凍りついた。だがそれは、女の顔がみるみると歪んでいくからではない。
人の気配を感じたのだ。
それも一人や二人ではない。こちらを盗み見るような視線。息を潜めて聞き耳を立てる気配。わずかな衣擦れ、床板の軋み。
それは女の部屋の奥から、あるいはこのマンション全体から……。




