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「君の代わりはいくらでもいる」と追い出された第六王女ですが、お忍び中の帝国皇太子に買い取られました。〜今更戻ってこい? どの口が言っているのですか?〜

作者: あもる
掲載日:2026/02/19

 広大な土地だけが自慢のグレーヴス男爵領。その中心にそびえる古びた屋敷の一室で、エリアーナはペンを走らせていた。


 深夜、ランプの火が爆ぜる音だけが室内に響く。彼女の前には、山積みになった帳簿と領地の管理計画書。


 エリアーナは、小国リルア王国の第六王女だ。王女とは名ばかりで、母の身分が低かった彼女は、幼い頃から王宮の片隅で事務作業を押し付けられて育った。そんな彼女に舞い込んだ「縁談」は、体よく彼女を厄介払いするためのものだった。


 嫁ぎ先は、王国の最果てにあるグレーヴス男爵家。

 広大な土地を持ちながら、魔物の出没や荒れた気候のせいで開拓が進まず、慢性的な赤字を抱える難所。代々のグレーヴス男爵は、その広すぎる土地を管理しきれず、功績を挙げられないため、どれだけ土地を持っていようと爵位を上げることが叶わない。そんな「不遇の地」の管理を押し付けるため、事務能力だけは高い「使い捨ての王女」が差し出されたのである。


「……よし、これで来期の灌漑計画は整いました」


 エリアーナが嫁いで三年。


 彼女は休むことなく働いた。泥にまみれて領地を回り、農民の不満を聞き、複雑な税制を整理し、男爵家の無駄な出費を削った。


 おかげで領地は豊かになりつつあった。男爵家には、ようやく爵位昇進の噂すら立ち始めていた。


 ガチャリ、と乱暴に扉が開いた。

 現れたのは、エリアーナの夫であるヴィルフリート・グレーヴス男爵。そして、その腕にまとわりつく、見知らぬ派手な女だった。


「まだ起きていたのか、地味女。お前のその暗い顔を見るだけで、酒がまずくなる」


 ヴィルフリートは、エリアーナが心血を注いで書き上げたばかりの計画書を、手にした酒瓶で汚しながら吐き捨てた。


「……ヴィルフリート様、その女性は?」

「次期男爵夫人のセシリアだ。お前にはたった今、離縁を言い渡す。明日の朝までにこの屋敷から出ていけ」


 エリアーナは耳を疑った。三年間、一度も温かい言葉をかけられたことはない。だが、自分たちが手を取り合ってこの領地を支えているのだと、少なくとも彼女だけは信じていたのだ。


「離縁……? 理由を伺ってもよろしいでしょうか」

「理由? ふん、お前は可愛げがない。王女のくせに淑女の嗜みも知らず、毎日泥にまみれて帳簿ばかり。挙句、王家からの支援も雀の涙だ。だがセシリアは違う。彼女の生家は有力な伯爵家で、多額の持参金を用意してくれる。お前がいなくても、領地はすでに潤っている。お前の代わりなど、いくらでもいるんだよ」


 ヴィルフリートは、エリアーナが整えた「潤った領地」が、彼女の努力の賜物であることを理解していなかった。彼は、ただ運良く領地が豊かになったのだと思い込んでいたのだ。


「……私は、あなたの妻として、この領地のために尽くしてきました」

「尽くす? 笑わせるな。お前はただ、行き場がないからここにいたんだろう? リルア王家からも『好きにしていい』と書状が届いている。お前を保護する義務は、我が家にはもうない。さあ、出ていけ。不吉な第六王女め」


 傍らの女、セシリアがクスクスと笑い声を上げる。

「あら、可哀想に。お洋服もそんなにボロボロで……。でも大丈夫よ、あなたの仕事は私が引き継いであげるわ。計算なんて、小指を立ててお茶を飲むより簡単ですもの」


 エリアーナの心の中で、何かが音を立てて崩れ去った。

 幼い頃から「いらない子」として扱われ、ようやく見つけた居場所だと思っていた場所からも、ゴミのように捨てられる。

 愛していたわけではないかもしれない。けれど、彼女なりに誠実に尽くしてきた時間は、一体何だったのか。


「……分かりました」


 エリアーナは、たった一つのトランクに最低限の着替えだけを詰め、深夜の豪雨の中へ放り出された。

 背後で重厚な門が閉まる音が響く。

 馬車すら用意されず、徒歩で領地の外へ向かう彼女を、容赦ない雨が叩く。


(ああ……もう、どうでもいいわ)


 一歩、歩くごとに、泥が靴の中に染み込んでくる。

 三年間、彼女が守りたかった農村。彼女が整備した街道。

 それらすべてが、今は自分を拒絶しているように感じられた。

 人間なんて、信じるだけ無駄だ。尽くせば尽くすほど、最後に残るのはこの冷たい泥の感触だけ。


(どこかで野垂れ死ぬのが、私にはお似合いなのかもしれない……)


 エリアーナは街道を外れ、森の近くにある古い廃屋へと逃げ込んだ。かつて開拓者の休憩所として使われていた場所だ。

 雨漏りがする板張りの床に、力なく座り込む。

 視界が滲む。それが涙なのか、雨水なのかも判然としない。

 心は完全に壊れていた。誰の助けも期待せず、ただこのまま命が尽きるのを待つのが、一番楽な気がした。


 その時。

 暗闇の中から、低い、だが鈴の音のように美しい声が響いた。


「……ひどい有様だな。まるで、世界中に捨てられたような顔をしている」


 エリアーナは驚き、顔を上げた。

 廃屋の奥、影に紛れるようにして座っていた男がいた。

 雨に濡れた黒い外套を羽織っているが、その下から覗くシャツは上質なシルクでできている。整いすぎた容貌、そして深い紫色の瞳には、隠しきれない王者の風格があった。

 男はどこか負傷しているようで、傍らには血の滲んだ布が転がっている。


「あなたは……?」

「ただの旅人だ。わけあって追っ手を撒いている最中でね」


 男は冷徹な目でエリアーナを観察した。その視線は、彼女のボロボロの格好と、対照的に白く細い指先――長年の事務作業でついたペンダコの跡を逃さなかった。


「その様子、グレーヴス男爵家の『有能な王女』か。噂はかねがね聞いている。男爵が馬鹿な真似をしたという報せは、すでに私の耳にも届いているよ」

「……私を笑いに来たのですか?」

「いや。交渉に来た」


 男は立ち上がり、ふらつきながらもエリアーナの前で膝をついた。その距離は、あまりにも近い。


「私の名はガイウス。帝国で少しばかり力を持っている男だ。今、私は窮地に立たされている。帝位を継承するために、火急に『身元が確かで、かつ私に依存せざるを得ない、御しやすい妻』が必要なのだ」


 ガイウス――その名を聞いて、エリアーナの脳裏に電流が走った。隣国であり、大陸最強の軍事力を誇るバルディア帝国の、非情なる第一皇太子の名だ。お忍びでこの国に来ているという噂は真実だったらしい。


「私を……利用するつもりですか?」

「そうだ。男爵家に嫁がされたと聞いたときは、どうしたものかと思ったが、好機だ。君は小国の王女という肩書きがあり、実務能力は一級品。そして今、すべてを失って死を待つばかり。どうせ死ぬなら、私とともに、あの男爵に一泡吹かせてやろうじゃないか」


 エリアーナは自嘲気味に笑った。

 また、打算。また、利用。

 結局、自分の価値は「道具」としてしか認められないのだ。


 だが、今のエリアーナには、それを拒む気力すら残っていなかった。

 どうせ死ぬのなら、帝国の冷徹な皇太子の駒として使い潰されるのも、悪くないかもしれない。少なくとも、あの無能な男爵に踏みにじられるよりは。


「いいですよ……。契約しましょう」

「……ほう? 驚いたな。もっと怯えるか、拒絶するかと思ったが」

「もう、何も信じていませんから。人間不信の私には、あなたのその潔い『打算』の方が、よほど誠実に見えます」


 エリアーナの瞳には、一切の光が宿っていなかった。

 その徹底的な絶望の色に、ガイウスは一瞬だけ、計算にはなかった奇妙な胸のざわつきを覚えた。


「よかろう。では、契約成立だ。君の絶望も、その有能な頭脳も、すべて私が買い取ろう。……リルア王国、そしてグレーヴス男爵領。君を捨てた者たちが、後でどれほど泣いて縋ろうとも、二度と返してはやらないが。構わないな?」


「……はい。二度と、戻りたくもありません」


 雨音の中、エリアーナは差し出された冷たい手を取った。

 これが、後に「帝国の至宝」と呼ばれる女性と、彼女を溺愛して止まない暴君皇太子の、あまりにも歪な始まりであった。


 一方その頃、グレーヴス男爵邸では。

 ヴィルフリートが、新妻セシリアと共に酒杯を掲げていた。


「ようやく厄介払いができた! これからは我ら二人で、この豊かな領地をさらに盛り立てていこうではないか!」

「ええ、ヴィルフリート様。あんな地味な女、今頃どこかの溝で凍えているでしょうね」




 ================




 バルディア帝国の帝都、ルナ・ガレリア。


 3か月の月日をかけてたどりついたそこは、空を突くような白亜の塔と、魔導列車の汽笛が響く巨大都市。


 エリアーナがいたリルア王国とは、文字通り「別の世界」だった。


 だが、皇太子ガイウスの離宮に迎え入れられたエリアーナの心は、あの雨夜の廃屋に置いたままだった。


 彼女は、豪勢な刺繍が施された寝台に座りながら、目の前に立つガイウスを見上げた。


「……ガイウス様。お約束の『仕事』はいついただけますか? 私はただ、無為に養われるためにここへ来たのではありません」


 その声には抑揚がなく、まるで精巧に作られた人形のようだった。

 ガイウスは、見違えるほど上質なドレスに身を包んだエリアーナを見て、わずかに眉を寄せた。


「まずは休めと言ったはずだ。お前の体は、あの男爵領での三年間と3か月の長旅でボロボロだ。栄養失調に過労、魔力欠乏……普通なら立っているのも不思議なレベルだぞ」


「お気遣いは不要です。私は『道具』として買われたはず。動かなくなった道具は捨てられるのが道理です。捨てられるくらいなら、壊れるまで使われる方がマシです」


 エリアーナの言葉は、自己犠牲ではなく、徹底した「人間不信」から来る自己防衛だった。

 信じて、尽くして、最後に捨てられる痛みを、彼女はもう二度と味わいたくない。それならば、最初から自分を「使い捨ての部品」だと定義していた方が、心が傷つかずに済む。


 ガイウスは溜息をつき、一束の分厚い書類を机に叩きつけた。


「いいだろう。そこまで言うなら、これを見ろ。帝国の北方に広がる『死の荒野』の再開発計画だ。十年以上、帝国の文官たちが匙を投げ続けてきた難題だ。これを三日で整理できれば、君の価値を認めてやろう」


 それは、打算に満ちたガイウスなりの、彼女への「居場所の提供」だった。

 エリアーナは、その瞬間だけ、わずかに瞳に生気を宿らせた。


「……三日もいりません。明日の朝までに、終わらせておきます」




 翌朝。


 ガイウスが離宮を訪れると、そこには信じがたい光景があった。

 完璧に分類され、優先順位が振られた書類の山。複雑な地形魔法と治水計画が、驚くべき精度で統合されていた。


 エリアーナは、ペンのインクで指を汚したまま、椅子に座った状態で深い眠りに落ちていた。


「……本当に、馬鹿な女だ」


 ガイウスは苦笑し、彼女の肩に自分の外套をかけた。

 かつて、彼は彼女を「利用しやすい駒」だと思っていた。だが、彼女の仕事は「打算」を超えていた。そこには、かつて男爵領で泥にまみれながら、名もなき民のために尽くしてきた彼女の「誠実さ」の残滓が、結晶のように輝いていた。


「これほどの才能を、あの男爵はゴミのように捨てたというのか」


 ガイウスの中で、ある計画が加速する。

 当初は単なる政治的カードとして彼女を娶るつもりだった。だが今は違う。

 彼女のこの凍てついた心を溶かし、その才能を自分だけのために、そして彼女自身のために使わせたい。それは、冷徹な皇太子にとって初めての、計算外の感情――「独占欲」だった。


 ガイウスは侍女たちを呼び、厳命した。


「彼女に、帝国最高の食事と、最高の魔導療養を施せ。一滴の傷も、一片の曇りも残すな。彼女を、この世で最も尊き『至宝』として磨き上げろ」




 一方、リルア王国のグレーヴス男爵領。

 ヴィルフリートは、机を叩いて怒鳴り散らしていた。


「どういうことだ! なぜ灌漑施設が止まっている! 昨日の雨で、下流の村が冠水しただと!?」

「だ、旦那様……それが、施設の管理マニュアルがどこにあるか分からず……。エリアーナ様がいらっしゃった時は、すべて彼女が魔法の調整を行っていたようで……」


 家令が震えながら答える。

 ヴィルフリートの隣で、優雅に扇子を仰いでいたセシリアが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「そんなの、適当な魔法使いを雇えばいいじゃない。ヴィル、それより私の新しい宝飾品の話は? 伯爵家の娘である私が、こんな田舎で我慢しているのよ?」

「そ、それは分かっているが、セシリア。今の男爵家には、予備の資金が……」


 エリアーナがいなくなって、わずか一ヶ月。

 男爵領の経営は、目に見えて傾き始めていた。


 エリアーナは、男爵家の無駄な出費を極限まで削り、その浮いた金を領地のインフラ整備と、ヴィルフリートの対面を保つための資金に充てていたのだ。


 彼女がいなくなったことで、セシリアの浪費は止まらず、メンテナンスを失った領地の設備は次々と悲鳴を上げ始めた。


「……あいつだ。あの女のせいだ!」


 ヴィルフリートは、顔を真っ赤にして叫んだ。


「エリアーナの奴、俺に愛想を尽かされると分かっていて、わざと領地を壊れやすく細工したんだ! なんという執念深さだ! やはりあんな地味で陰気な女、捨てて正解だった!」


 彼は、鏡を見て自分の首を絞めていることにすら気づかない。

 むしろ、彼の歪んだ思考は、さらなる「痛い」方向へと加速していく。


「ふん、どうせ今頃は、どこかの路地裏で飢え死にしそうになりながら、俺のことを想って泣いているんだろう。『ヴィルフリート様、私が悪うございました、どうか戻らせてください』とな。……いいだろう、あいつが這いつくばって戻ってきたら、下働きとして雇ってやってもいい」


 ヴィルフリートは確信していた。

 自分は選ばれた男爵であり、エリアーナのような行き場のない王女が、自分以外を愛せるはずがないと。


 その傲慢さが、彼の背後に迫る「破滅」の足音を消していた。




 三ヶ月後。

 バルディア帝国の宮廷。


 そこには、もはや「地味で暗い第六王女」の面影はなかった。

 帝国の至宝を惜しみなく使った療養により、エリアーナの肌は透き通るような白さを取り戻し、艶やかな髪は夜の帳のように輝いている。


 何より、ガイウスによって「仕事」という名の居場所を与えられ、彼女の瞳には理知的な鋭さが戻っていた。


 鏡の前に立つ彼女を見て、ガイウスは満足げに目を細めた。


「完璧だ。……エリアーナ、君は自分がどれほど美しいか、自覚があるか?」


「……ガイウス様。またそのような冗談を。私はあなたの『契約妻』。装飾を豪華にするのは、帝国の威信を保つためでしょう?」


 エリアーナは相変わらず、彼からの言葉を「打算」というフィルターで濾過して受け止めていた。

 だが、その表情は以前ほど死んではいない。

 ガイウスが差し出すエスコートの手。彼女はそれを、迷いながらも、静かに取った。


「今夜の晩餐会には、近隣諸国の使節も招いている。……その中には、リルア王国の者もいるはずだ」

「……」

「安心しろ。君を捨てた者たちが、君を指一本触れることもできない場所まで、私が引き上げてやる」


 ガイウスの言葉に、エリアーナはわずかに胸が疼くのを感じた。

 これが打算でも、利用でも構わない。


 自分を必要だと言ってくれるこの「銀の檻」の中でなら、もう少しだけ、生きていてもいいのかもしれない。




 ◇




 帝都ルナ・ガレリアの皇宮、大晩餐会。


 天井から吊るされた巨大な魔導水晶のシャンデリアが、会場を昼間のような輝きで満たしていた。


 並み居る帝国の貴族たちが、一斉に息を呑む。

 大階段の頂上、バルディア帝国皇太子ガイウスの隣に立つ女性があまりに美しかったからだ。


 エリアーナが纏うのは、銀の糸で星屑を織り込んだような最高級のシルクドレス。

 男爵領で泥にまみれていた頃の面影はどこにもない。丁寧に手入れされた黒髪は夜の海のように艶めき、真珠の滴がその肌の白さを際立たせている。


(……足が震える。これはただの『契約』なのに。私はただの『道具』なのに)


 エリアーナの胸は、不安で押しつぶされそうだった。

 だが、その震える指先を、ガイウスの大きな手が包み込んだ。

 これまでの冷徹な打算を感じさせるものではない。温かく、守るような、驚くほど丁寧な手つき。


「大丈夫だ。前だけを見ていろ、エリアーナ。君は今、この国で最も価値ある女性だ」

「ガイウス、様……」

「顔を上げろ。……それとも、私が君を独り占めしたくて、このまま私室へ連れ戻してほしいか?」


 耳元で囁かれた甘い言葉に、エリアーナの頬が赤く染まる。

 打算だと言い聞かせているはずの心が、彼の熱に溶かされていくのを感じた。


 晩餐会が始まり、各国の使節が挨拶に訪れる中、それは現れた。

 ヨレた礼服を無理やり着こなし、焦りと下卑た欲望を隠しきれない男。リルア王国の使節団の末端に潜り込んでいた、ヴィルフリート・グレーヴス男爵だ。


 彼は隣にいるはずのセシリアを放り出し、呆然とエリアーナを凝視していた。

 そして、信じられないことに、彼は衆人環視の中でエリアーナへと突き進んできたのだ。


「……おい、エリアーナ。何をしている、その格好は」


 冷や水を浴びせられたような沈黙が会場を支配する。

 ヴィルフリートは、周囲の困惑など目に入らない様子で、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「驚いたぞ。俺を嫉妬させるために、ここまで手の込んだ芝居を仕組むとはな。帝国皇太子をレンタルして、自分を高く見せようとしたんだろう? だが、もういい、遊びは終わりだ」


 ヴィルフリートは、エリアーナの腕を掴もうと手を伸ばした。


「可愛い奴め。お前が俺なしでは生きていけないことは分かっている。家を追い出されて、ようやく俺の偉大さが身に染みたか? 許してやるから戻ってこい。あんなボロ屋敷でも、お前にはお似合いだ」


「……っ」


 その瞬間、エリアーナの脳裏にあの雨の夜の光景がフラッシュバックした。

 泥の味。冷たい雨。自分を「ゴミ」と呼んだ男の声。

 心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。呼吸が浅くなり、視界が白く霞んでいく。

 恐怖で体が石のように硬直し、一歩も動けなくなった。




 ヴィルフリートの手が届く直前。

 エリアーナの視界を、逞しい背中が遮った。

 ガイウスだ。

 彼はヴィルフリートの言葉を無視し、震えるエリアーナの肩を強く抱き寄せた。


「ガイウス、様……私は、私は……」

「何も言うな。……黙らせる」


 次の瞬間、エリアーナの思考は真っ白になった。

 ガイウスの顔が近づいたかと思うと、唇に、抗いようのない熱が押し当てられた。


 それは、周囲を牽制するための形だけの接触ではない。

 エリアーナの中に巣食う過去の亡霊を、力ずくで追い出すような、深く、長く、熱い口づけだった。


「……んっ……」


 動悸が止まらない。けれど、それは恐怖のせいではない。

 ガイウスから流れ込んでくる、圧倒的な独占欲と慈しみ。

 エリアーナは、自分を支える彼の逞しい腕に、縋るように身を委ねた。


 会場からは、悲鳴に近い歓声と拍手が沸き起こる。

 ようやく唇を離したガイウスは、真っ赤になって息を乱すエリアーナの瞳を見つめ、不敵に微笑んだ。


「これでも『レンタル』に見えるか?」


 ガイウスは、懐から一つの小箱を取り出した。

 中には、帝国の守護石である巨大な紫蓮石があしらわれた、まばゆいばかりの指輪。

 彼はエリアーナの左手の薬指に、それを深く嵌めた。


「そして、これは君の居場所の証だ」


 どこからか現れた侍従が捧げ持っていたのは、皇太子妃だけが許される小冠ティアラ

 ガイウスの手によって、エリアーナの髪にそれが戴かれた。

 その光景を見て、会場の奥に座していたバルディア皇帝が、重々しく立ち上がった。


「見事だ、ガイウス。そしてエリアーナよ」


 皇帝の声がホールに響き渡る。


「朕はここに、皇太子ガイウスとエリアーナの婚約を正式に認める。ガイウスよ、この女性を伴い、次期皇帝として帝国を導く覚悟を示せ」


 それは、エリアーナが「帝国の次期皇后」として確定した瞬間だった。




 その事実に、ヴィルフリートは腰を抜かして床にへたり込んだ。


「そ、そんな……。本物の皇太子……? 結婚……? 嘘だ、ありえない! エリアーナは、俺を愛して尽くすためだけの女だ! 俺がいないと何もできない、無能な女なんだ!」


 その見苦しい叫びに、エリアーナは静かに呼吸を整えた。

 もう、震えは止まっていた。

 ガイウスの熱が、彼女に「自分自身の価値」を思い出させてくれたから。


 エリアーナは、ガイウスの手を借りずに一歩前へ出た。

 そして、地面を這い蹲るヴィルフリートを、冷徹な、そして底知れぬ憐れみを込めた瞳で見下ろした。


「……あの、失礼ですが。どなたですか?」

「な……何を言っている! ヴィルフリートだ! お前の夫だ!」


 エリアーナは小首を傾げ、氷のような微笑を浮かべた。


「いいえ。私の知っているグレーヴス男爵は、もう少しだけマシな知性を持っていましたよ。少なくとも、帝国の皇太子の前でこのような不敬を働くほど、愚かではありませんでした」


「エリアーナ……っ!」


「三年間、私は()の隣にいました。ですが、彼が一度も私を見ていなかったように、私も今、彼のことなど見ていません。……あそこに、彼が『真実の愛』だと言った女性が震えていますよ。どうぞ、彼女と共にお帰りください。二度と、私の視界に入らない場所へ」


 それは、完璧な決別だった。

 ヴィルフリートは何かを言い返そうとしたが、ガイウスの冷酷な視線に射抜かれ、声にならぬ悲鳴を上げて警備兵に引きずられていった。


 エリアーナは、去りゆく過去の背中を一瞥もせず、隣に立つガイウスを見上げた。

 彼の紫の瞳には、打算など微塵もない、勝利と満足感、そして深い情熱が宿っていた。


「……お疲れ様、私の至宝」

「……はい。ガイウス様」


 鳴り止まない拍手の中、エリアーナは初めて、自分自身の意志で彼の胸へと寄り添った。


帝国の晩餐会での一件は、またたく間に近隣諸国へと広まった。

 バルディア帝国の次期皇帝ガイウスが、小国の不遇な王女を「至宝」として迎え入れたというニュースは、リルア王国を震撼させた。


 同時に、グレーヴス男爵領には「死の宣告」が下された。

 帝国は、皇太子妃への不敬を理由に、男爵家とのすべての交易を停止。経済制裁という名の、目に見えない軍事侵攻が始まったのだ。


 エリアーナという「心臓」を失った領地は、急速に腐敗していった。

 灌漑施設は壊れ、田畑は枯れ、複雑な税制を理解できないヴィルフリートは、私腹を肥やすことしか頭にないセシリアに言われるがまま、民から容赦なく搾り取った。


「ヴィル! また宝石の代金が払えないって言われたわよ! どうにかしなさいよ!」

「うるさい! 金ならお前の実家から出せと言っているだろう!」


 かつて愛を誓い合ったはずの二人は、今や罵り合うだけの関係に成り果てていた。

 やがて、セシリアは男爵家の金蔵が底をついたと知るやいなや、目ぼしい家財道具をすべて持ち出し、愛人のもとへと逃げ出した。


 残されたのは、巨額の借金と、怒り狂った領民たち。

 そして、帝国の怒りを買い、国を滅ぼしかけた元凶として、リルア王家からも見捨てられたヴィルフリートだけだった。




 ◇




 数ヶ月後。

 ヴィルフリートは、かつてエリアーナを追い出したあの雨の夜、彼女が逃げ込んだ廃屋にいた。


 屋敷は民に囲まれ、王家から差し向けられた兵によって接収された。彼は着の身着のままで逃げ出し、皮肉にも、自分が「ゴミ溜め」と呼んだ場所に辿り着いたのだ。


 雨漏りのする床に座り込み、泥水を啜りながら、彼は震える手でボロボロの帳簿を抱えていた。

 そこには、かつてエリアーナが書いた、美しく整った文字が残っている。


「……エリアーナ……。お前なら、こんな時、どうした……?」


 今さら気づいても遅すぎた。


 あの大晩餐会で、彼女を「レンタル」だと思い込もうとしたのは、そう思わなければ自分の惨めさを認めることになってしまうからだった。


 彼女は自分を嫉妬させるために帝国へ行ったのではない。

 自分が彼女を、その手で「最強の敵」のもとへ送り出してしまったのだ。


「戻ってきてくれ……。エリアーナ、お前は俺の妻だろう? 俺を愛しているんだろう……?」


 虚しい独白に応える者は、冷たい風の音以外に誰もいなかった。




 その頃、帝国の皇宮。

 エリアーナは、ガイウスから差し出された一枚の書類を見て、目を見開いていた。


「これは……グレーヴス男爵領の、売買契約書?」

「ああ。帝国がリルア王国から、あの土地を丸ごと買い取った。あんな無能な男爵の管理下に置いておくのは、大陸の損失だからな」


 ガイウスは窓辺に立ち、夕日に染まる帝都を見下ろしながら続けた。


「民たちは、君がまた指導してくれるならと、泣いて喜んで帝国の直轄地になることを受け入れたよ。……エリアーナ。あそこは、君が泥にまみれて育てた場所だ。これからは帝国の皇太子妃として、堂々とあの地を導いてやってくれ」


 エリアーナの胸に、熱いものがこみ上げる。

 彼は、彼女が心の中に残していた「未練」――自分が守れなかった民たちへの責任感を、すべて救い上げてくれたのだ。


「ガイウス様……。どうして、ここまで……。私はただの、打算の契約妻なのに」


 その言葉に、ガイウスは苦笑して歩み寄った。

 そして、彼女の前に跪き、初めて会ったあの夜よりもずっと優しく、その手を取った。


「訂正させてくれ。……あの日、私は確かに打算で君を選んだ。だが、今は違う。君のいない帝国など、私には価値がない」


 ガイウスはエリアーナの瞳を真っ直ぐに見つめ、愛おしそうに目を細めた。


「君の頭脳も、君の誠実さも、君が愛した民も、すべてまとめて私が守る。……契約ではない。一人の男として、君を愛している。エリアーナ、私と本当の家族になってくれないか?」


 エリアーナの目から、大粒の涙が溢れ出した。

 人間に裏切られ、居場所を奪われ、心を殺して生きてきた彼女が、ようやく見つけた「真実の愛」。


「……はい。喜んで、お受けします」




 一ヶ月後。

 帝国と旧グレーヴス領を繋ぐ街道は、歓喜の声に包まれていた。

 豪華な馬車に揺られ、エリアーナは「自分の街」へと戻ってきた。

 出迎えたのは、かつて彼女が救った農民や職人たち。彼らは帝国の紋章を掲げ、「エリアーナ様、おかえりなさい!」と声を枯らして叫んでいる。


 一方、街道の脇には、鉄格子のはめられた無骨な檻車が置かれていた。

 中にいるのは、ボロを纏い、髪を振り乱したヴィルフリートだ。

 彼は不敬罪と領地経営失敗の罪を問われ、リルア王家によって「生きた晒し者」として帝国の管理下に引き渡されるところだった。


 じきにあのわがままな新妻も、実家からつまみ出されて夫とともに牢屋にぶち込まれるだろう。


 男爵としてのプライドを粉々に砕かれ、かつて見下していた民たちから石を投げられる彼の姿に、エリアーナは一瞬だけ目を向けた。


 だが、その瞳に憎しみはない。ただ、通りすがりの石ころを見るような、徹底した無関心と憐れみだけがあった。


 ヴィルフリートが叫ぼうとした言葉は、護衛の兵士によって遮られ、馬車の車輪の音にかき消されていった。


「エリアーナ。もう、後ろを見る必要はない」


 馬車の中で、ガイウスが彼女の肩を抱き寄せる。

 エリアーナは微笑み、彼の胸に顔を埋めた。


「ええ。私たちの未来は、これからですもの」


 窓の外には、黄金色に輝く豊かな麦畑が広がっている。

 それはかつて、エリアーナが守り抜いた命の輝きであり、これから始まる、幸福な物語の幕開けでもあった。


 小国の捨てられた第六王女は、今、大陸で最も愛される帝国の象徴として、その翼を広げたのである。

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― 新着の感想 ―
xから来ました。 追い出され、雨の中を泥にまみれて歩くしかなかった第六王女エリアーナが、誰からも価値を認められずに心を閉ざしていたにもかかわらず、自身の誠実な努力が確かな成果となって静かに輝いていたこ…
王家も王女を大事にせず使い捨てした報いが領地削減になりましたね。娘と良好な関係を結んでたら離婚しても王家に戻ったでしょうから。 まぁそもそも仲が良かったらアホ男爵に嫁がせ無かっただろうし、政略結婚で…
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