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第七話

 ジェームズによる実技指導が始まってから、およそ一ヶ月が経過した頃。私は彼が見守る中、優雅な手付きでティーカップを口に運んでいた。


「素晴らしい。立ち居振る舞いに関しては、もはや誰が見ても完璧な公爵令嬢そのものです」

「ありがとう、ジェームズ。これも全て、貴方の根気強い指導のおかげよ」

「いえ、貴女自身の努力の賜物です」


 彼の言葉がお世辞でない事は、その真摯な表情からも伝わっている。最初の頃は全身筋肉痛でまともに歩けなかった私も、今では背筋を伸ばし、淑女然として微笑むくらいは出来るようになった。叩き込まれた膨大な知識が血肉となり、精一杯の虚勢が、確かな自信へと変化しつつある。


 けれど、それと同時に焦りも感じていた。

 私がこうして安穏と指導を受けている間にも、リリエンタール家の立場は日に日に悪くなっている。公爵との間に具体的な約束は無いが、だからこそここで私が何か、行動を起こす必要があるのでは無いか。と。


「ねぇ、ジェームズ。さっき話していたヴァルトシュタイン辺境伯の件について、いくつか聞きたい事があるの」


 今は外交関係の講義の真っ最中である。私は、ここしばらくずっと心の隅に引っかかっていた疑問――『原作』との齟齬について、口にした。


「資料によれば、辺境伯は現在『中立』を貫いているわ。でも彼の領地が長年、風土病に苦しめられているのもまた事実。本来であれば、癒やしの力を持つ聖女様に助けを求めるのが筋だと思うの」

「…おっしゃる通りです」

「でも肝心の聖女様に、動く気配は無い。それはどうしてだと思う?」


 紅茶の甘い香りが、閑静な室内へ満ちていく。私はカップをソーサーに戻すと、まっすぐにジェームズを見据えた。


「これは私の予想だけど、王子殿下とその周囲が、辺境伯に対して安易に恩を売ることを良しとしていないからだと思うの。中立を貫く彼を自分たちの陣営へ完全に引き込む為の、駆け引きをしているんじゃないかしら」


 原作でのヴァルトシュタイン辺境伯は、聖女派の熱心な支持者の一人だった。筆頭は勿論王子殿下で、次点で聖騎士団を擁するマルケス侯爵家。そして物語のヒーローである五人の騎士達それぞれの家門もまた、聖女を強く支持している。

 物語の終盤、聖女は辺境の地を訪れて風土病を浄化し『奇跡』を起こす。それが決定打となって、聖女エレンディラの地位はより盤石なものとなり、その裏で辺境伯は王家へ大きな貸しを作る事になるのだ。


(でも、この世界でそんな動きは見られない。きっとイザベラのお母様が生きているのと同じように、辺境伯領の風土病もまだ浄化されていないのよ)


 私が淡々と分析している間。ジェームズは何も言わず、ただ静かに私の言葉に耳を傾けている。彼は私の知識の源について、一度も言及した事が無い。私が彼に『教えられていない事』を知っていても、それを当然の事として受け入れているかのようだった。


「聖女様が自由に動けないのなら、これは好機かもしれないわ」


 私の言葉に、ジェームズが僅かに目を見開く。これはリリエンタール家が辺境伯に恩を売る、絶好の機会。聖女エレンディラが手にするはずだった最大の功績を、原作の知識を武器に、悪役令嬢たる私が横からかっさらうのだ。


「……しかしお嬢様、それは聖女様の御力をもってしか治せないとされる難病です。我々が手を出した所で、果たして」

「そんなのやってみなければ分からないわ。苦しむ民を見過ごす王家と聖女。そんな彼らに先んじて民を救おうとするリリエンタール家。どちらに大義があるのかは、火を見るよりも明らかじゃない?」


 開いた窓から差し込む陽光が、テーブルの上に置かれたティーカップを優しく照らす。ジェームズは私の言葉を吟味するかのように、しばし沈黙した。


「……やはり貴女は我々の希望です。その『慧眼』は我々には持ち得なかった、全く新しい活路を示して下さる」

「……ッ!」


 彼の蒼い瞳が期待に揺れ、その奥に私の姿を映す出す。その眼差しはまるで、崇める神を目の当たりにする熱心な信徒のようだった。


「ええ、まさに好機です。聖女様とその取り巻きが捨て置いた瑕疵かしを、我々が拾うと致しましょう」


 彼の言葉は、もはや確信に満ちていた。私が何者で、どこから来たのかまでは分からない筈。けれどこの公爵家が詰んでいた盤面をひっくり返す『イレギュラー』な存在である事を、彼は完全に理解しているようだった。


(元々隠すつもりなんて無かったけど。それでもこんな風に推しに『私』を理解して貰えるのは、ちょびっとだけ…嬉しいかもしれない…)


 嬉しい。でも手放しには喜べない。本当の私がパン屋の娘──エリアーナでないと理解された所で、最初の契約を反故にされるのは困るから。


「それじゃあ早速、辺境伯領で流行っている風土病について詳しい資料を集めましょう! それから、腕利きの医師や薬師にも声をかけて──」


 私が前のめりになって言い終わる前に。控えめなノックと共に侍従が部屋へ入り、一通の封蝋された手紙をジェームズに恭しく手渡した。


「どうしたの?」

「公爵様からの通達です。……どうやら公爵様は、王家へ正式に書状を送られたようですね。『行方不明となっていた娘イザベラを保護した。しかし発見時の衝撃からか、記憶を失っている状態である』と」

「記憶喪失!」


 なんという事だ。お父様は私の為に、完璧な言い訳を用意してくれていた。確かに『記憶喪失』なら、私が以前のイザベラと多少言動が違っていても、貴族のマナーに不備があっても言い逃れが出来る!


(お父様ナイスアシスト! 私もそれなりに頑張ってはいるけど、やっぱり要所々々で不安はあったのよね! ありがとうお父様!!)


「そしてその報せを受け、早速王妃陛下からお言葉があった、と」

「王妃様、から…?」


 彼の声のトーンが、僅かに低くなる。すごく嫌な予感がする。確か王妃は、反公爵派の筆頭であり聖女エレンディラの最大の支援者。そして私は、その聖女を陥れようとした悪役令嬢。良い知らせである筈がない。


「『記憶を失った公爵令嬢を慰めるため、近々、内々のお茶会を開きましょう』と」


 王妃主催のお茶会。それはきっと、慰めの言葉を借りた尋問の場に他ならない。

 『私』が本物のイザベラなのか、それとも公爵家が用意した偽物なのか。反公爵派の貴婦人達が寄って集って私を査定し、粗を探し、化けの皮を剥がそうと待ち構えているに違いない。


「…望むところだわ」


 恐怖で震え上がりそうになる膝を、私は叱咤する。いつまでも雛鳥のままではいられない。ここで怯んでいては、何も始める事なんて出来やしないのだから。


「ジェームズ。お茶会までに残された時間は、どのくらいあると思う?」

「最短で一週間、最長でおよそ二週間といったところかと」

「分かったわ。それまでに私を、完璧な『記憶喪失のイザベラ』に仕上げなさい。良いわね?」


 私の不敵な笑みに、ジェームズは深く、そして満足そうに微笑み返した。


「……かしこまりました。公爵様には私から。

 ――さあ、参りましょう、お嬢様。貴女の初陣の為に、このジェームズ、力を尽くしましょう」


 偽りの令嬢の社交界デビュー。その舞台は、敵意渦巻く王妃のお茶会。悪役令嬢としての戦いが今、始まろうとしていた──。



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