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第六話

 翌朝。私が目を覚ますと、既にジェームズは部屋の前で控えているようだった。昨日までの感傷と決意を胸に扉を開けると、完璧な角度で一礼される。


「おはようございます、お嬢様。昨夜はよくお休みになれましたか?」

「ええ、問題ないわ。とても寝心地の良いベッドだったもの」


 これは嘘。昨夜は考える事が多すぎて、ほとんど眠れていない。けれど私の為に時間を割いてくれる彼に、弱音を吐くわけにはいかなかった。


「………」


 彼の蒼い瞳が、ほんの一瞬だけ訝しげに細められる。部屋に置いてあったコンシーラーで目の下のクマは隠した筈だけど、それでもこんな小細工、完璧な執事にはお見通しに違いない。でも何も言わないという事はきっと、気付かなかった事にしてくれたのだろう。


(ジェームズは優しいなぁ。昨日会ったばかりの私を、こんなにも気にかけてくれるなんて…)


 けれどその優しさが、イザベラの『替え玉』としての私に向けられているのだと思うと、どうしようもなく心が締め付けられた。


「では、本日より早速始めさせて頂きます。まずは基本中の基本、公爵令嬢としての歩き方と挨拶です」

「ええ、よろしく頼むわ」


 ジェームズは部屋の隅に立ち、手にしていた分厚いノートと数冊の書物をサイドテーブルへ置く。そして背筋の伸ばし方から視線の置き方に至るまでの、細かな指導を開始した。


「視線は決して足元に落とさない事。正面一点を見据え、その場全てを支配するつもりで」

「はい!」

「背筋が曲がっております。リリエンタール家の令嬢たる者、常に天上から一本の糸で吊られているかのように、優雅に歩かねばなりません」

「ひゃい!」


 背中にビシッと定規を当てられて、私は悲鳴のような返事をする。たかが歩き方、歩くだけだと侮っていたのに、これがどうにも地獄の入口だったらしい。

 かかとから静かに着地し、つま先で床を蹴り、流れるように進む。現代の忙しない歩き方に慣れた身体には、苦行でしか無い。


(か、身体が勝手に前のめりになっちゃう…ッ。蟻が歩くよりも遅い速度でなんて、そんなの一度もやった事ないよぉ~…)


 彼の指示は完璧だった。だからこそ、応えられない自分が不甲斐ない。彼の熱意を無為にしているのが、他でもない自分だから。


「カーテシーは、深く、優雅に。膝を曲げる速度は、王族への敬意の度合いを示します」

「はい、先生!」


 ぎこちない動きを何度も繰り返す。まだ朝食前だというのに、額には汗が滲み始めていた。

 元がパン屋の娘であるのなら、もう少し体力とか、身体の柔らかさとかが備わっていても良いと思うのに。どうやら今の私の身体は、憑依する前の運動不足で貧弱なままらしい。


(お、推しにこんな…、こんな近くで指導して貰えるなんて、光栄過ぎる、けど…ッ! ひ、膝が…膝がうまく、曲がらな…ッ、うぐぐぐぅぅ~~…!)


 指導は挨拶だけで終わらない。窓際に配置されているテーブルセットへ腰掛けると、今度は食事のマナー講習が始まる。


 音を立てずにスープを飲むのはまだ大丈夫として、問題なのはナイフとフォークの扱い方。日本で生まれた身として、食卓に箸が置かれていない状況には、どうにも違和感が拭えない。持ち手の角度、口に運ぶ量、会話のタイミング。その全てに、厳しいチェックが入る。


「お嬢様、フォークの背にソースが残っております。これではお話になりません」

「むぐっ! ご、ごめんあさい…っ」


 対するジェームズは、完璧な所作で食事を進めている。食事をしながらも、私の手元の不備を一つも見逃さない。彼の前では公爵家の料理人が腕によりをかけて作ってくれたであろう極上のオムレツも、砂を噛むような味しかしなかった。


(うぅぅ~~~…推しと同じテーブルでご飯なんてご褒美でしか無い筈なのにぃぃぃ! ジェームズの鬼!! 悪魔!!! でもそんな貴方も私は大好きですぅぅぅ!!!!)


 食事が終わると、次は座学。テーブルを挟んで向かい合うと、ジェームズは分厚いノートを開いた。


「反公爵派の筆頭はこの国の王妃です。彼らは今後、貴女が偽物でないかどうか、その『査定』を行うでしょう。その際公爵家のゴシップや王都の流行について、問い詰めてくる筈です」


 その言葉を皮切りに、膨大な量の知識が頭に叩き込まれていく。リリエンタール公爵家の歴史は勿論のこと、主要貴族の家系図、それぞれの確執、最新のゴシップに至るまで。記憶力の限界を試されているかのような情報が、目まぐるしく交差していった。


「──以上が隣国との緊張を高めている要因の一つ、係争地における鉱物資源の利権問題です。何か質問は?」

「……し、質問…は、あると思う、けど…。ちょっとだけ、待ってもらっていいですか、今の…メモしてる、から…ッ」

「ええ、構いませんよ。今から少々時間を取りますので、続けて良ければご報告下さい」


 真剣にノートと向き合う私を、ジェームズは相変わらずの無表情で眺めている。でも彼が私の為に、聞き取りやすく、理解しやすいように、言葉を噛み砕いて丁寧に説明してくれている事は、痛いほど伝わっていた。仕事で新しい案件を任された時だって、こんなにも分かりやすく説明して貰った事なんか無いというのに。


(せっかくジェームズが私の為に教えてくれてるんだ…っ! 絶対に無駄になんか、しないぞ…ッ!!)

 

 私はとても恵まれている。この世界に憑依して初めて出会ったキャラクターが、ジェームズで良かった。それに今こうして私が必死に覚えている知識は、本物のイザベラが幼い頃から当たり前に身につけていたものでもある。弱音なんて吐けない。疲労困憊と寝不足の脳を叱咤し、必死に知識を詰め込んでいった。


「………貴女のその向上心は、とても素晴らしいと思います」

「……え?」


 ジェームズはノートを閉じ静かに立ち上がると、私の手元を見据える。そこにはお世辞にも綺麗とは言い難い文字が、隙間無く埋め尽くされていた。


「普通初対面の人間にここまで厳しくされれば、泣き言の一つくらい出ても不思議ではありません。貴女は、初日にしては上出来な方ですよ」

「…ッ!!」


 彼の蒼い瞳が、まるで陽だまりのように温かく感じられた。純粋な称賛と信頼の色を宿して微笑む彼の顔があまりにも完璧過ぎて、心臓が限界を超えた鐘の音を響かせる。私の人生、もうここで終わっても良いかもしれない。


「今は無理ですが、いずれこの庭を散歩するのも良いでしょう。じきに白薔薇も見頃を迎えます」


 否。終わってはダメである。

 あまりにも優雅なその誘いに、私は首がもげるほど頷く。推しと二人きりの授業も勿論嬉しい。でも、推しと二人きりの散歩、これ以上のご褒美は無い。私の頑張る理由が、また一つ増えた。


「その為にも、休んでいる暇はありませんよ。お嬢様」

「はいっ! お願いしますジェームズ先生!!」


 ジェームズは再びノートを広げ、私の顔を見る。その口角が、ほんの僅かに上がっているような気がした──。


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