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第五話

 夜の帷が下りる頃。

 広すぎる部屋に一人取り残されると、日中の興奮と緊張が嘘のように引いていき、代わりに冷たい現実が思考を支配する。ふらふらと倒れ込むように優雅なベッドへ身を沈め、窓の外に広がる星空を見上げる。暗闇に浮かぶ星々が、酷く遠い存在のように感じられた。


「なんか…すごく、疲れたな…」


 もし私がパン屋に残る選択をしていたら。きっと今頃お母さんが用意してくれた温かい夕食を囲んで、穏やかな時間を過ごしていたに違いない。与えられた新しい人生を、もっと前向きに捉える事だって出来ていたかもしれない。

 けれどこの公爵邸で私に許されているのは、この豪華な部屋で一人静かに、公爵令嬢イザベラ・フォン・リリエンタールとしての運命を消化する事だけ。パン屋の娘エリアーナの穏やかな日常も、現代社会で生きてきた私の人生も、全てがこの豪華な鳥籠の中で上書きされていく。


(私…今朝この世界に来たばかりなのになぁ…)


 たった一日で、平凡なパン屋の娘から偽りの公爵令嬢へ成り代わってしまった。愛読していた小説の世界とはいえ、あまりにも急展開過ぎる。正直ついていけない。


(イザベラの失踪だって、本編完結後の後日談で…ほんの一行触れられたくらいなのに…。なんでこのタイミングで転生するの? 普通はもっと前に…せめて悪役令嬢が断罪される直前とか、聖女が力に目覚めた時とか、とにかく、そういうのがお約束なんじゃないの…?)


 原作『光の聖女と五人の騎士』の登場人物たちの事を考えれば考える程に、疑問符が頭の中を埋め尽くしていく。

 私の知る物語は、平民でありながらも聖なる力に目覚めたヒロイン・エレンディラが、その優しさと芯の強さで王子をはじめとする五人の美貌の騎士達の心を射止め、共に国の危機を救う王道の恋愛ファンタジーだ。

 そしてエレンディラは王子と結ばれて、輝かしいハッピーエンドで幕を閉じる。その裏側で他のキャラクター達がどんな末路を迎えていたのかを、私は知らない。そもそも、書かれていない。


 厳格な宰相でありながらも娘への愛と後悔に苛まれる父、リリエンタール公爵。

 忠誠の仮面の下に複雑な想いを隠す専属執事、ジェームズ。

 そして原作ではほとんど語られる事の無かった、イザベラの母親。


 特にジェームズは、私の『推し』だった。

 悪役令嬢であるイザベラの、どんな理不尽な命令にも眉一つ動かさず、完璧にこなしてみせる。常に彼女の数歩後ろを歩き、その身を護り、時には諫める事もあった。挿絵に描かれていた、銀髪を風になびかせ、冷たい蒼の瞳で主人を見つめる彼の姿はまさしく、私にとっての『理想の紳士』そのものだったから。

 彼を好きになるのに、時間はそんなにかからなかった。彼が登場するシーン全てに付箋を貼って、何度も何度も読み返していた。そんな彼が今日、私の目の前に現れて、跪き、手を取り、忠誠を誓ってくれた。あの瞬間の衝撃と感動を、私は一生忘れない。そして教育係を申し出てくれた時の、意地悪そうな笑みも…。


(……うぅ、思い出したら…また心臓が…ッ)


 鏡を見てわざわざ確認しなくても分かる。今の私の顔はきっと、完熟トマトぐらい真っ赤になっているに違いない。彼が小説のキャラクターなどでは無く、私と同じように生きて呼吸をする生身の人間なのだと、否応無しに実感してしまったから。


 ぶんぶんと頭を振り、思考を無理やり切り替える。私の意識は自然と公爵夫人──イザベラの母へと向かった。


 確か彼女は元々身体が弱く、社交界にも顔を出さない謎に包まれた人物だった。公爵とは戦略結婚だが夫婦仲は決して悪くなく、イザベラを産んだ後、世継ぎの男児を望まれたものの、身体的な理由で二人目を諦めたらしい。そんな彼女が、最愛の一人娘の断罪と失踪という二重のショックを受けたとしたら。


(普通なら立ち直れないわよね、一人娘なら尚の事…)


 小説の中の公爵夫人は、娘の悪行を苦に心を病み、物語の終盤で静かに息を引き取る事になっている。それは悪役令嬢イザベラへの、最後の罰として扱われていた。

 けれどジェームズの話を聞く限り、彼女はまだ生きている。心の療養という名目で、領地のタウンハウスで慎ましく暮らしているらしい。


(私が背負うのは、エリアーナちゃんの人生だけじゃない。お父様の願い、ジェームズの忠誠、そして…まだ会った事の無いお母様のも…)


 私の存在は、まだ彼女に知らされていないと思う。もし娘と瓜二つの偽物が現れたと知ったら、彼女の心は更に壊れてしまうかもしれない。自分の行動一つが、この世界に生きる人達の運命を変えてしまう。その事実に身が震えた。


 悪役令嬢イザベラは、両親に愛されていた。専属執事のジェームズだって、彼女に忠誠を誓っていた。それなのにどうして彼女はあんなにも、傲慢に振る舞わなければならなかったのだろう。公爵家の誇りや責任、だけじゃ無いような気がする。


(貴女はこんなにも愛されていたのに、どうして…?)


 窓ガラスに映り込む『イザベラ』の顔を、私は真っ直ぐに見つめる。翠色の瞳は、不安気に揺れている。その下にある泣きぼくろにそっと触れてみると、それはあまりにも小さくて、指先一つで簡単に消えてしまった。


「……『私』は、イザベラ・フォン・リリエンタール」


 言葉にすると、より責任の重さを実感する。けれどこの『重い』という感情は、本物のイザベラがずっと感じ続けていたものだ。これ以上、この世界で誰かを不幸にしてはいけない。


 私は静かに決意を固めると、両頬を思い切り叩く。じん、と広がる熱い痛み。これが私の現実だ!


「よし! 明日から頑張るぞーー!!」

 

 明日から始まる特訓で、私は完璧な公爵令嬢イザベラを目指す。彼女が背負っていた重荷の全てを、この手で終わらせる。その為に私はきっと、この世界に喚ばれたのだから──。

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