第四話
私の付け焼き刃同然のカーテシーを見て、公爵は僅かに目を見開いた後、ゆっくりと縋るように頷いた。
「…ありがとう。疲れているだろうから、今日はもうおやすみ。ジェームズに部屋へ案内させよう」
その声は、安堵と深い疲労に満ちていた。そこに冷徹な宰相としての威厳なんてものは無く、重荷を下ろした一人の男の姿があるだけだった。
「はい。お父様も、あまりご無理をなさらないで下さい」
私はもう一度静かに頭を下げ、謁見室を後にする。扉の外で待機していたジェームズは何も言わず、私を先導し歩を進めていく。彼の広い背中を見つめながら、私は公爵の言葉を思い返していた。
(本物のイザベラを探す為、なんかじゃなかった…)
公爵の目的は、私の推測と大きくかけ離れていた。行方不明のイザベラを安全に探し出す為の、世間の目を『行方不明の令嬢』から『恥晒しの出戻り令嬢』へ向けさせる為の、その『影武者』として私は選ばれたのだと、そう思っていた。けれど、現実は違った。
娘と瓜二つの私に、娘の代わりに幸せに生きて欲しいと、彼はそう願っている。それはあまりにも歪で、切実な親の愛。そんな、そんなの…。
(重い! あまりにも!! 重過ぎる…ッ!!!)
いくら原作に溺愛設定があるからとはいえ、公爵のそれは今日初めて会うような人間へ向けて良い感情では無い筈だ。私がこの小説の読者じゃなかったら、そもそもこの世界を愛していなかったとしたら。絶対に首を縦になんて振らなかっただろう。
(エリアーナならあの話、多分断ってるよね…)
そもそもジェームズが迎えに来てくれた時だって、本物のエリアーナなら全力で抵抗した筈。それくらいあの場所は穏やかで、幸せな日常に溢れていたから。
(今朝は憑依したばかりで頭が混乱してたし…推しに会えた嬉しさに目が眩んだのもあるけど、うぅ…やっぱり軽率だったかなぁ…)
罪悪感とこれから負うべき責任の重さに、眩暈がしそうだった。全ての問題が片付いて本物イザベラが戻って来たら、またあの温かな場所に戻れると思っていたけれど。もはやそういう次元の話では無くなっている。
「………」
窓から広大な庭園を見下ろす。この世界で『私』に用意されている道なんて、そんなに無いのかもしれない。
※
ジェームズに導かれ通されたのは、公爵邸の中でも最も豪華そうな一室だった。天蓋付きのベッドに、フリルやレースで飾られたドレッサー。猫足の優雅なソファに、床に敷き詰められたペルシャ絨毯。パン屋の素朴な寝室とは比べ物にならない。まさにおとぎ話に出てくるお姫様の領域。でも。
「ねぇ、ジェームズ。イザベラ様は、何が好きだったの?」
「お嬢様は幼い頃より、お部屋で書物を読まれている事が多かったと記憶しております」
「……そっか」
部屋の隅には美しい装丁の本が並べられた本棚があり、その一冊を手に取る。それは難しい歴史書や高尚な詩集では無く、ごくありふれた恋愛小説だった。栞が挟まれたページには、男女が身分差を乗り越えて結ばれるシーンが描かれている。
(イザベラも、恋に恋する普通の女の子だったのかもね…)
モデルルームのように上辺だけが整えられているこの空間には、本来在るべき筈の生活感というものが感じられなかった。どれ程の時間が経過していようとも、そこが人の生活していた場所であるのなら、必ず残っている筈なのだ。持ち主の生きた証、気配、面影というものが。
悪役令嬢イザベラの、その仮面の下に隠された素顔に触れたような気がして、胸に痛みを覚える。ここに小説で描かれていたような、派手好きで我儘な令嬢の面影はどこにも無かったから。そして私が、これから彼女の人生までをも、奪ってしまうから。
「お嬢様。お疲れのところ恐縮ですが、今後の動向について、いくつか確認よろしいでしょうか?」
感傷に浸る私に、ジェームズは静かに声を掛ける。そうだ。いつまでもジメジメしてどうする。私の身体には、二人分の人生の重みが詰まっている。それを腐らせるなんて事は、絶対に許されない。
「ええ、勿論構わないわ。でもその前に一つだけ教えて。本物のイザベラが行方不明になっている件について、世間はどのくらい把握しているの?」
私の問いに、ジェームズは淀み無く答えてくれる。内容は想定通り、イザベラの失踪は『罪人の逃亡』として扱われており、王子と聖女は婚約へ向けて準備を進めている真っ最中。リリエンタール家の権威は失墜し、反公爵派が勢力を伸ばしつつあるという。そして驚くべき事にイザベラが失踪してから、すでにおよそ半年の月日が経過していた。
「ジェームズは、私にどうして欲しい?」
「…と、申されますと?」
「貴方はイザベラ様の忠実な執事でしょう? 紛い物の私では無く、本物のお嬢様に戻って来て欲しいと思うのが当然じゃない?」
「…………」
私の言葉に、ジェームズは初めて、ほんの少しだけ悲しそうに眉を寄せる。口元に薄い笑みを浮かべる彼の鮮やかな蒼の瞳に、囚われる。
「お嬢様は、お戻りにはなりません。あの御方はご自分の意思で、……消えてしまわれたのですから」
それは、随分と違和感の残る言葉だった。けれど、その違和感の正体が分からない。
「私の願いは、ただ一つ。イザベラお嬢様の名誉が守られ、そして貴女ご自身が望む『自由』を手にされること。
その為にもこのジェームズ、身命を賭してお仕え致します」
眼前にある彼の真剣な瞳の奥に、私の姿が映り込む。白手袋に覆われた手のひらが、ゆったりとした動作で私の手を取り跪くと、そのまま甲へ柔らかな感触を落とされた。落とされて、しまった。
「ちょっ…と、待って…ッ!」
「………?」
考えるよりも先に身体が動いていた。両腕で頭を抱えしゃがみ込み、喉奥から際限なく漏れ出てしまいそうな絶叫を決死の思いで抑え込む。心地良かった体温が無くなり妙な喪失感を覚えるけれど、今は、そんな事を、気にしている場合では、無い!
(ヤバイヤバイヤバイヤバイ今のめちゃくちゃヤバイィィィ!
今のって騎士の誓いとか主従の絆の確認とか! 多分そういう!! そういう類のヤツよね!!? 生で見るのもされるのも初めてなのにその相手が!! 相手がさあああっ!!? 推しの! 推しのジェームズなんだよ!!? そんなの予想外にも程があるのよ神様ああぁぁぁありがとぉぉぉ~~~ッ!!!!)
推しと同じ空気を吸っている事実だけでも心臓が持たないのに。まさかこんな、手の甲にキスまでされて、一体全体今後私にどうやって生きていけと? 主従関係が大好物な私にとってジェームズが真偽問わずイザベラの傍らに在り続けるという事実が致死量のエナドリそのものなのに!!
「…話を進めさせて頂いても?」
「オネガイシマスッ!」
真っ赤になった顔を手で覆ったまま、ジェームズの前で正座する。やはり彼に跪かれるよりも、こうして見下されている方がずっと心臓に優しい。健康に効く。寿命が伸びる。まさに生きる漢方薬。
相変わらずの無表情を貫く彼を前に、そっと深呼吸をする。大丈夫。私は一社会人として、重要な案件を前に騒いで場を引っ掻き回して何の進展も無く話を終わらせるような愚かな真似、絶対にしないから。
「明日から貴女には、貴族としてのマナーを身に着けて頂こうと考えております。リリエンタール公爵家の歴史、そして本来のお嬢様が知っていたであろうあらゆるゴシップ。その全てを叩き込むまで、この部屋から一歩も出しません」
「う、うん…。そうなるだろうなぁ~とは思ってたから、それは別に良いんだけど……」
いつの間にか、公爵令嬢イザベラの仮面は剥がれ落ちてしまっていた。嫌な予感がして、身体が強張っていく。精神的な冷えを覚える指先を、私は握り締めた。
「その…教えてくれる先生は、どなたが……?」
「私以外におりません。貴女が替え玉であるという不都合な事実を知るのは、私と公爵様、そして当家が抱える騎士団長とその補佐、以上の四名ですので」
餌を求める鯉のように、パクパクと口が開閉する。彼は長い横髪を耳に引っ掛け、意地の悪い少年のような笑みを浮かべる。その顔が、瞳が、頬が、耳が、私の全てを魅了する。
おかしい。こんなの絶対におかしい。おかしすぎる。だって彼は、ジェームズは、いつだって顔色を変えない、無表情キャラだった筈なのに!
「私はお嬢様に関する事に、一切の妥協は致しません。ですのでどうか、ご覚悟くださいね? 『イザベラお嬢様』」
「~~~……ッ!!」
声にならない悲鳴が、私の口から溢れていく。どうやら私の新たな人生の最初の試練は、推しの過剰供給に耐える事らしい──。