第三話
馬車が完全に止まり、扉を開ける騎士の足音が聞こえる。
リリエンタール公爵邸は、想像を絶する程に壮麗だった。
眼前に広がるは、天を衝く白亜の城館。磨き上げられた大理石の床に、幾何学模様に整えられた広大な庭園。パン屋の素朴な家とあまりにもかけ離れた威圧的なその美しさが、私が異世界人である事を残酷なまでに証明してくれていた。
(う、うわぁ~…。挿絵でしか見たことなかったお屋敷だぁ~…すごぉ~い…)
私はこれから始まる偽りの令嬢としての生活と、公爵家が今後抱えるであろう王家を揺るがす秘密という、あまりにも重すぎる現実を前に、どうしようもなく気後れしてしまっていた。どう考えてもこの世界に転生したばかりのモブ女が敷居を跨いで良い場所では無い。深呼吸を繰り返した所で、気分は少しも晴れてくれなかった。
「さあ、お嬢様。到着いたしました」
ジェームズが先に馬車を降り、当たり前のように私へ手を差し伸べる。そういう文化も、一般庶民である私には縁遠いものだった。
「あの…、別にそこまでしなくても。私、自分で降りれますよ…?」
「………………」
微かなため息が聞こえる。イケメンの無言の圧力は怖い。でもいきなりお嬢様、しかも公爵令嬢の演技をしろと言われた所で、私程度の浅い知識でどうにかなるとは思えなかった。それに今この場には私とジェームズ以外に、パン屋まで同行していた護衛騎士が数名いるだけ。そんな所でまで無理に演技をする必要は無いように思うのだけれど…。
「顔を上げ、胸を張りなさい。貴女は今、公爵令嬢イザベラ・フォン・リリエンタールです。
……さあ、お嬢様、お手を」
「………っ!」
彼の声には、公爵家への忠誠と私への配慮が入り混じっていた。一見冷たい響きを持つように聞こえるその声が、私の抱える事の重さを教えてくれている。これこそまさに、令嬢に仕える専属執事の話し方。正直、とても良い声過ぎて心臓がヤバイ。好き。でも、やっぱり怖い。
「………」
私達の間に再び静寂が訪れる。けれどそれは、馬車の中の張り詰めた空気とは違う。互いに目的を共有した者同士の、共謀にも似た静けさだった。
(演じてみせる…って、言ったのは私だものね。なら、やるしかない。もう後戻りは出来ないもの!)
私は覚悟を決め息を吸い込み、ぐっと顎を引く。公爵令嬢としてのプライドを無理やりにでも作り上げ、彼の手に自分の手を重ねた。
「…ようやっと着いたのね、ジェームズ」
思った以上に傲慢で、他者を寄せ付けない冷たい声が出た。これこそが、私が小説で感じた悪役令嬢イザベラの姿。果たしてこの完璧な執事は、満足してくれただろうか。
「お見事です、お嬢様」
ジェームズの表情が、ほんの一瞬驚きで固まる。すぐにいつもの無表情に戻ったが、彼の蒼い瞳が微かに輝いたのを私は見逃さなかった。
合格とまではいかなくても、ギリ及第点であればそれで良い。令嬢らしい振る舞いも、これから身につければ良いのだから。
私達はずらりと並んで頭を下げる召使いたちが迎える広大な玄関ホールを通り抜け、公爵邸の奥へと進んでいく。好奇と侮蔑の視線が入り混じる長い廊下には、歴代の公爵の肖像画が等間隔に飾られており、その重厚な歴史が私を押し潰そうとしていた。
(うぅ…視線が痛い…。こんなの最終プレゼンより緊張する…。つらい…逃げたい…、パン食べたい…)
内心で弱音を吐きながらも、私は公爵令嬢イザベラとして傲岸不遜な仮面を被り続けた。背筋を伸ばし一歩一歩ジェームズに導かれるまま、謁見室の重厚な扉の奥へと進んでいく。
使用人たちの視線が、私の右目の下にある泣きぼくろに一瞬注がれては、困惑したように逸らされていた。
※
謁見室で私を待っていたのは、この国の宰相でもあるリリエンタール公爵、その人だった。
年の頃は五十代半ばで、白髪交じりの髪と深く刻まれた皺がよく目立つ。だが銀縁眼鏡の奥に光る翠色の瞳に、想像していた氷のような冷徹さは無く。代わりに深い疲労と後悔の色を、宿しているように感じられた。
「ただいま戻りましたわ、お父様」
「………下がれ」
低く響く声が発せられジェームズが静かに退出すると、部屋には重い沈黙が落ちていく。公爵は豪奢な椅子へ腰掛けたまま、ただ静かに私の見据えている。その視線は厳しいというよりも、何かを確かめ、恐れているかのようだった。
「ジェームズから報告は受けている。…お前は、その顔で、その瞳で、私を…『お父様』と呼ぶのだな…」
「……!?」
公爵の言葉には、娘の想う父親の感情が滲んでいた。険しい顔つきの中に見える僅かな動揺、そして深い悲しみに耐えるかのような、毅然とした態度。
「お前が私の知るイザベラで無い事など、見ればすぐに分かる。私の娘は、そんな真っ直ぐな目で私を見る事など無かった。……いや、私だけでは無い。この屋敷に住む全ての人間を、あの子は信用していなかった。あの子を追い詰めたのは、この私だ」
自嘲気味に呟く公爵の姿は、私の知る冷徹な宰相のイメージとあまりにもかけ離れていた。今ここにいるのは、娘との関係を悔やむ、ただの一人の父親だ。
(この人は、本当にイザベラを…)
小説ではほとんど描かれる事は無かったけれど、公爵はイザベラを溺愛していた筈。彼女の行動は決して褒められるものでは無かったけれど、それでも国の宝とも云える聖女を貶めておきながらも命が守られたのは、ひとえに彼の尽力によるもの。私はこの世界の、真実の親子関係を垣間見たような気がした。
「お前が私の本当の娘で無くとも構わん。ただ、その身体を、大切にして欲しい。
…頼む。あの子の為にも、お前は『イザベラ』として、この屋敷で生きてくれ」
それは脅迫めいた契約ではなく、父親の切実な願いだった。祈りを捧げるかのように震える手で顔を覆う公爵を前にして、一体誰が反論出来るだろう。少なくとも、私には無理だった。でも。
(私、イザベラの人生まで、奪っちゃうんだ…)
偽りの令嬢として暮らす資格を得る為に、公爵とは長期戦を覚悟していた。だからこそこんなにもあっさりと受け入れられてしまった事で、紛い物としての罪悪感を否応なしに覚えてしまう。
今私の中には、二人分の人生の重みが積み上げられている。その事実に恐怖する。私は特別でも何でもない、ただの一社会の歯車であった筈なのに。
(でも、これで公爵家の目的はハッキリした。イザベラを探し出す為に手を尽くして、その過程で『私──エリアーナ』の事も見つけたのよね…?)
ただ顔がそっくりなだけで村娘を屋敷に迎え入れるなんて、普通の状況なら絶対に考えられない。けれど今の公爵の精神状態を考えれば、理解出来なくもない。失った娘に瓜二つの人間が目の前に現れたのなら、贖罪として傍に置きたいと思うかもしれない。溺愛していたのなら、尚の事。
でもこんなのは、正直顔を見る度に辛くなるだけだろう。それでも彼は今辛い真実よりも、偽りの優しさを求めている。
それならば、私の『役割』なんて決まっている。
「承知致しましたわ、お父様。
わたくしがこれより公爵令嬢イザベラ・フォン・リリエンタールとして、公爵家の誇りを守ってご覧に入れます」
私は一歩公爵へと近付き、付け焼き刃同然のカーテシーを披露してみせる。この瞬間私は、公爵家公認の『替え玉』となったのだ──。