第一話 (1)
Interval クリストファー.
王都の大聖堂は、何時訪れても静謐な空気に満ちていた。
荘厳な扉を押し開ければ、外界の喧騒が嘘のように遮断され。重い沈黙と微かに漂う香油の匂いが、密やかに肌を包み込む。
本来ならば背筋を正し、神への敬虔な祈りを捧げるべき場所なのだが。今の私には目に見えぬ重責という名の鎧を支え、石畳を一段ずつ踏み締めるのが精一杯だった。
(……疲れたな)
抑え切れぬ吐息と共に、小さな弱音が零れ落ちる。
私は、聖騎士団の副団長。聖女様をお守りし、国の安寧を担う者。部下の信頼を背負い。民衆の羨望を一身に集める象徴として。寸分の隙も、一瞬の動揺さえ。纏う事は許されない。
課せられた義務を反芻するだけで、眉間の皺が深くなるのを自覚する。拭い切れぬ歪な影が、張り付けた筈の仮面へ向けて、醜い淀みを波及する。
広大な伽藍に反響しているのは。己が刻む無機質な足音と、空気を震わせる微かな福音。ステンドグラス越しに差し込む極彩色の光が、磨き上げられた石畳の上に美しい幾何学模様を描き出していた。
「…………」
礼拝堂の最奥。
天光が降り注ぐ祭壇の前で。神の慈愛を記した聖典を仰ぐ一人の優男が、深く頭を垂れていた。
彼の名前は、ルーキス・ハミルトン。この教会の司教であり、かつては子爵家の嫡男であった男。篤い信仰心ゆえに弟へ家督を譲り、神に仕える道を選んだ変わり者でもある。
アッシュピンクの柔らかな長髪は、首の横で緩く一つに束ねられており。銀縁眼鏡の奥にある新緑色の瞳を静かに閉じているその姿は、一枚の聖画のようにも感じられ。声を掛ける事すら憚られた。
(……祈祷中か)
ゆったりとした黒一色の司祭服に身を包むその佇まいは、見る者に安らぎを与える不思議な空気を宿しており。神聖な祈りの糸は泥に塗れた私の心を洗う、一種の清涼剤のようでもあった。
私は軍靴の音を忍ばせながら距離を詰め、数歩手前で歩みを止める。気配を殺し。無言のまま。彼の祈りが終わるのを待ち続けた。
「……………」
どれ程の時間が流れただろうか。
やがてルーキスはゆっくりと瞼を開き、十字を切って立ち上がる。そして深く息を吐き出し、此方を振り返ったその顔には。私を認めた驚きと、柔らかな安堵が浮かんでいた。
「おや? これは珍しいお客様ですね。大聖堂へようこそ、アークライト副団長殿」
「祈りの邪魔をしてすまない、ハミルトン司教。近くまで来たものでな、少し顔を見に寄らせて貰った」
「いいえ、構いませんよ。ちょうど祈りも終わったところです」
互いに職務上の肩書きを呼び合い、形式的な礼を結び終えると。ルーキスは厳かな祭壇から降り、私の元へと歩み寄る。
その足取りは音も無く軽やかで。彼の放つ空気そのものが。張り詰めた神経を緩めているようにも感じられた。
「それにしても……随分と酷いお顔ですね。眉間の皺が深すぎて、まるで彫刻刀で刻まれたようですよ?」
此方を覗き込む柔和な眼差しが、ささくれた内面を労るように、新緑の輝きを憂いに陰らせている。痛ましげに眉尻を下げる彼の瞳には、確かな親愛の情が含まれていた。
「……そんなに酷いか?」
「ええ、とても。そんな顔をしていては、折角の男前が台無しです」
「……余計なお世話だ」
「ふふっ。言い返す元気があるのなら、まだ大丈夫そうですね。少し、奥で休んでいきませんか? とびきりのハーブティーをお淹れしますよ」
誘いを断る理由は無い。軽口を叩き合いながらも、私達は礼拝堂の脇にある控え室へと移動する。
私にとってルーキスは、飾らぬ心で向き合える唯一の存在であり。かつて共に戦塵を浴び、同じ志を胸に剣を帯びた盟友でもあった。
※
手慣れた所作で数種の茶葉を組み合わせたルーキスは、沸き立つ湯を陶器のポットへと注ぎ入れる。
ふわりと舞い上がる温かな湯気が。カモミールとラベンダーの清廉な香りを運び出し。強張っていた私の心身を解き解すように、室内を満たしていった。
「さあ、どうぞ。今の貴方には、これくらい優しいブレンドが丁度良い筈です」
「……感謝する」
用意されているソファに深く腰掛け、琥珀色の液体を一口含む。温かな雫が喉を通り。冷え切っていた筈の身体の芯を。淡い陽だまりにも似た心地良さで、隅々まで染み渡らせて行く。
仄かな熱が指先まで辿り着くのに呼応して。両肩を縛り付けていた重い鎖が、音も無く解け落ちていく解放感に包まれた。
「…………はぁ」
「随分と参っているみたいだね、クリス。最近は夜会続きで忙しいのかな?」
「ああ……。正直、キャパオーバーだ。俺を笑ってくれよ、ルーキス」
カップをソーサーに戻し、天井を仰ぐ。此処には部下も、上官も、王族もいない。ルーキスの居るこの空間だけが、唯一弱音を吐ける場所だった。
「笑ったりなんかしないよ。僕にとって君は、いつまで経っても手の掛かる可愛い弟分だからね」
対面のソファに身を預けたルーキスから、儀礼的な響きが消え失せる。代わりに浮かんだのは温和な笑みと、深い慈愛の言葉達。
彼もまた『司教』の仮面を外し、良き兄貴分としての顔を覗かせてくれていた。
「それで、今日はどうしたんだい? 珍しいじゃないか、君がここまで疲弊するなんて」
「……色々あったんだ。本当に、色々と」
「……だろうね。その顔を見れば、なんとなく分かるよ」
ルーキスはタレ目がちな目尻を更に下げ、淡く優しい笑みを向けてくれる。その穏やかな表情を見ているだけで、ささくれ立っていた俺の心が、少しずつ凪いでいくのが分かった。
「まずは、皆の近況でも聞こうかな。あの『厄災』とも呼べる戦いから、もう半年が経つ。他の皆に、変わりは無いかい?」
厄災──。
それは半年前に突如としてグランヴェル王国を襲った、悪夢のような日々の事だ。深淵より湧いた瘴気の沼。そこから這い出る異形の群れが、国の平穏を蹂躙した大災害。
討伐に赴いた聖騎士団を待っていたのは、勝利の兆しさえ見えぬ殲滅戦。打ち振るう剣が限界を迎え、強固な盾が悲鳴を上げて砕け散る。次々と潰える仲間の姿に、騎士としての矜持さえも、絶望に押し潰されてしまいそうだった。
終わりの見えない戦い程、人の志を摩滅させるものは無い。このまま国は滅びるのだと、誰もが覚悟を決めていた。そんな折。
光の聖女エレンディラ。平民出身の彼女が現れた時、状況は一変した。
場違いな程に清らかな淡いパステルブルーの残像と。峻烈な光を放つアクアマリンの双眸は。泥濘に沈む戦場に咲く、希望の氷花に他ならなかった。
彼女の捧げる聖なる祈りは。天蓋から光の奔流を差し込ませ。瘴気を帯びた魔物共を、一瞬にして虚空へ還し。諸悪の根源たる『毒の沼』さえも、一点の曇りも無い清流に塗り替えてみせたのだ。
あの日見た光景を、俺は一生忘れないだろう。
「……あの時の事は、今でもたまに夢に見るよ。僕達が今ここで、ゆっくりお茶を飲んでいられるのは。エレンがいてくれたお陰だからね」
「ああ。聖女様は、この国の救世主だ。彼女の光を絶やすわけにはいかない」
「……やっぱりクリスは、『聖女様』呼びなんだね。前みたいに名前で呼んであげれば、あの子も喜ぶと思うんだけど」
「立場がある。それに俺は、『幼馴染』であるアンタとは違う。一介の騎士が気安く呼んでいい名前じゃない」
ルーキスはエレンディラの幼馴染であり、彼女が幼い頃から通っていた教会の神父だ。彼女にとってルーキスは頼りになる兄貴分であると同時に、心の支えでもあるのだろう。
だが俺は違う。俺は彼女を守る盾であり、剣だ。その一線を超える事は、騎士としての俺の矜持が許さない。
「君は本当に律儀だねぇ。生真面目過ぎるというか、頑固というか。少しくらい肩の力を抜いたって、罰なんて当たらないのに」
呆れるように肩を竦めたルーキスは、唇に悪戯な弧を描き、優雅な手付きでカップを傾ける。首筋に流れる柔らかな前髪が、彼の端正な頬を弄ぶように揺れ動き、どこか浮世離れした美しさを際立たせていた。
「……で、他の連中はどうなんだい? 最近は僕達『五人の騎士』が揃って顔を合わせる機会も無くなっちゃったからね。皆元気にしてると良いなぁ〜」
「…………」
曇りの無い問い掛けを真っ向から受けてしまい、俺は逃げる様に天井を仰ぐ。肺の奥に溜まった重苦しい熱を押し退け、長く深い溜息を吐き出した。
五人の騎士──。
その呼称は、かつて聖女エレンディラと共に『厄災』を退けた五人の功労者に対する、世辞と畏敬を込めた英雄達の総称だった。
俺とルーキスもその一角を担っており、世間では持て囃される存在ではあるのだが。その内実は一癖も二癖もある曲者揃いで、決して物語のように美しい側面ばかりでは無い。
「……フィリップは、相変わらずだ」
一人目の騎士。俺の幼馴染であり親友、そしてこの国の第一王子であるフィリップ・グランヴェル。
透き通る白金の髪を靡かせる彼の佇まいは、一際目を惹く高潔さを放ってはいるのだが。この世の不浄を許さぬ神聖な美貌の中で、その瞳だけが『異質』だった。
王族が等しく有する筈の金の瞳を持たない彼は、雪原に落ちた一滴の鮮血の如き赤の双眸を湛えていたのだ。
そんな彼の近況を思い返し。自然と俺の口元に、乾いた笑みが浮かび上がる。
「公務は滞り無くこなしているし、為政者としての判断にも曇りは無い。だが心此処に在らず、といった様子でな。書類に目を通しながらも、その思考の半分以上は、聖女様の事で埋め尽くされている」
「……殿下も変わらないね。あれからずっと、エレンに執心してるんだ?」
聖女に対するフィリップの情念は、もはや純愛という枠に収まるものでは無くなっている。信仰よりも依存という言葉こそが、より相応しいように思えてならない。
王族という過酷な責務に心身を削られ、孤独の淵にいた彼を救ったのが聖女である事は認めよう。だが救済を糧に育った盲愛は、側近である俺の目にも、時折背筋が凍る程の危うさを孕んで映ってしまうのだ。
「執着という点に関しては、もはや平常運転だからな。今更驚きはしないが……周囲の人間が気を揉んでいる事に、変わりは無い」
「うーん……。それはそれで心配だなぁ、エレンの事が」
苦い笑みを浮かべたルーキスが、困惑を隠すように指先で頬をなぞる。司教である彼にとって、聖女エレンディラは守るべき至高の乙女だが。幼い日々を共に過ごした、愛すべき妹分でもある。
『エレン』と呼ぶその声に滲む温かな情愛こそが。彼の抱える拭い難い懸念を、何よりも雄弁に物語っていた。
「エレンは優しい子だからね。殿下の気持ちを受け止めようとして、無理をしていないか心配だよ」
「聖女様も殿下を慕っているのは間違いないさ。ただ……公務以外の外出を禁じているのは、少し過保護だとは思う」
「過保護どころの話じゃないと僕は思うけど? 愛されるのは幸せな事だけど、重過ぎる愛というのも考えものだよ」
「…………………」
溜息と共に温かな茶を一口含み、俺は思考を濁らせる。対面のルーキスは、物憂げに横髪を遊ばせてはいるが。その新緑の双眸は、何処か遠い場所。出口の無い迷路を歩むフィリップの背中を追うような、深い諦念を帯びて宙を仰いでいた。
「……宮廷医師のユスティードは元気にしてる? 相変わらず研究室に引き籠もっているのかな?」
「ああ……、あのマッドサイエンティストか」
四人目の騎士。ユスティード・ベルゼリオ。由緒正しき伯爵家の血筋を引き、王宮筆頭医師という栄誉ある地位に就きながらも。その実体は狂気に片足を突っ込んでいる、医学の研究者だ。
瞳の一方を覆い隠す前髪は、熟成した葡萄酒を煮詰めた昏い赤に染まっており。そこから不意に覗く銀鼠の眼光には、一切の慈悲が存在していなかった。
『命の赤』と『無機質な銀』。相反する二つの色を纏うあの男は。白衣を冒涜的に汚しながら微笑を浮かべる、死神にも似た凄艶さを常に漂わせていた。
そんな彼の姿を思い浮かべ。俺は背筋が震えるのを抑えるように、己の二の腕をさすった。
「あいつは……特に聖女様の持つ『癒しの力』への探究心が尽きないらしくてな。フィリップにきつく止められているから、直接的な接触は控えているようだが。その分有り余る情熱を、医学の研究に注ぎ込んでいる」
「それはそうだろうね。エレンを実験台にするだなんて、あの殿下が許す筈無いよ」
彼は医学への探究心が常軌を逸しており、患者を平然と『被検体』と呼ぶ変わり者である。
だが悔しい事に、その腕は残酷なまでに確かだった。『あの男に治せない病など存在しない』とまで評される天才であり、俺達も幾度と無く彼の神業に命を救われている。
「先日『聖女の血が一滴でも手に入れば新たな医療の地平が開かれるだろうに……』なんて言いながら、怪しげな薬品を調合している姿を見たぞ。その鬱憤を晴らす為なのかどうかは知らんが、ヤツは常に怪我人を待ち構えている」
「あはは、仕事熱心なのは良い事じゃないか。確かに彼は少し、個性的過ぎるきらいはあるね」
「笑い事じゃないぞ? この前も訓練中に骨折した団員を医務室へ連れて行こうとしたら、その団員が大の男だというのに泣き出してしまってな。説得するだけで、訓練以上の重労働だったんだ。勘弁してくれ……」
あの時の団員の絶望的な表情を思い出し、俺は再び深い溜息を吐く。怪我よりも医者を恐れるなど、騎士団の運営に関わる大問題だ。腕は確かに一流だが、その治療を受ける為には精神的な摩耗を覚悟しなければならない。
笑顔でメスを握る彼の姿は、深淵より現れた異形の魔物以上に恐ろしく感じる時がある。
……本当に、彼が味方で良かった。
「そして最後の一人、王家の影であるツヴァイクだが」
「ああ、彼は元気?」
「元気なものか。口を開けば『かったるい』、『面倒くさい』と愚痴を零してはいるが。相変わらずの激務で酷使されている」
五人目の騎士。ツヴァイク。彼は王家の裏仕事を一手に引き受ける暗殺者で。やる気が無いのが常態化しているが、その実力は折り紙付きだ。効率を何よりも重視する彼は、対象を一瞬で葬り去る術に長けている。
鬱蒼たる森の深奥を彷彿させるダークグリーンの髪に、光を呑み込む黒曜石の瞳。気配を殺し、影に溶け込むその姿は。一見すると惰眠に身を任せる無為な青年のように思える。
だがその極限まで削ぎ落とされた脱力こそが。いかなる急襲にも瞬時に対応できる達人の構えである事を。見抜ける者は少ないだろう。
「『面倒だから一撃で終わらせる』というのがヤツの信条だからな。合理主義も極まれば立派な武器だが、それ故にフィリップからも重宝されて、次から次へと汚れ仕事を押し付けられている」
「殿下の無茶振りは、今に始まった事じゃないからね。苦労が偲ばれるよ」
「先日会った時は、元々酷かった目の下のクマが更に濃くなっていたな。『もう眠過ぎて地面が揺れて見える……』なんて言いながら、ふらふらと闇に消えていったよ」
「……それは大変だ。彼にも美味しいハーブティーを差し入れた方が良さそうかも」
渇いた笑みを瞳の奥に滲ませながら。ルーキスは余韻を断ち切るように、カップをソーサーへ戻す。
かつて背中を預け合い。死線を潜り抜けた仲間達の現状は。輝かしい伝説とは程遠く。皆それぞれに問題を抱えながら、日常を送っていた。
「もしかしなくともさ、まともに機能してるのって僕くらいじゃない? 責任重大だなぁ」
「……おい、なんで俺があっち側なんだ。俺は正気だ」
「え? さっきまで萎びた干物みたいな顔してたのに? 説得力無さ過ぎて笑っちゃいそう」
「茶化すな! ……全く。どいつもこいつも、癖があり過ぎる」
カップの底に残るハーブティーの表面に。疲労を湛えるやつれた顔が、朧げに映り込む。否定出来ない事実程、滑稽なものは無い。俺は己の不甲斐無さを嘲笑うように、微かに肩を揺らすしかなかった。
光の聖女と五人の騎士。外聞は良いが、その内実は個人の欲望と事情が複雑に絡み合う、歪な集団に過ぎないのだ──。




