第十五話 (後) 終
外界から隔絶された、密やかな檻の中。車輪が石畳を転がり始めると同時に空間を支配したのは、窒息してしまいそうな程の重い静寂だった。
「…………」
感情を意図的に削ぎ落としているジェームズの顔は、やはり至高の芸術品のように美しかったけれど。鼓動を刻む事すら憚られる無音の深淵が、息を呑む程の重圧としてこの身を蝕んでいた。
「……あの、ジェームズ?」
針を刺す様な沈黙に耐え切れなくて。対面に座る愛しい執事へ、私はそっと声を掛ける。窓外の景色に視線を投げていた彼は。不自然な軋みを想起させる緩慢な動きで、私の方へと向き直る。
交わった筈のその瞳は。此処では無い別の場所を映しているようにも感じられて、不思議と合わなかった。
「……何か、言い残す事はございますか?」
「!?」
温度を失った突然の問い掛けに、心臓が極限まで萎縮する。まさかジェームズの口から処刑人の下す無慈悲な宣告が飛び出て来るだなんて、夢にも思わなかったから。
(い、言い残すって、何? 私達って別に、喧嘩とか…、して…なかったよね……?)
額に汗を浮かべながら、今日の記憶を順番に紐解いてみたけれど。私からジェームズに謝罪すべき事なんて、何も思い当たらなかった。
クリストファーの疑念はちゃんと晴らしたし。何より馬車へ乗り込む前、ジェームズとは充分過ぎる程に言葉を交わしているから、今更この場で話すべき事なんて、無いと思うんだけど…。
「………え、えっと…」
「…………」
此方を真っ直ぐに射抜く彼の顔は、いつも通りの無表情。でも普段なら気にも止めないその沈黙も、今は肌を無数に穿つ凄絶な圧迫感となって、どうしようも無く私を威嚇しているから。とても居心地が悪い。
もしかして私は知らない間に、ジェームズの地雷でも踏み抜いたのだろうか?
「……私がアークライト様と踊った事を、怒ってる、のかな? でもあれは、不可抗力というか、断れる雰囲気じゃ、全然…無かったというか……」
「存じております」
「そ、そうだよね。見てたもんね。…だから、あのね? 私は別にアークライト様と、望んで踊っていたわけでは──!」
言葉を言い終えるよりもずっと早く。ジェームズの大きな掌が、私の手首を絡め取る。神経を刺すような鋭利な眼差しで、静かに胸奥を掻き乱した。
「うわっ!?」
そして混濁した意識を整理する暇も無く。逃げ惑う獲物の鎖を巻き取る程の強引さで、彼は黒い檻の中へと私を囲い込む。
ポスンッ……。
あまりにも突然過ぎて、受け身を取る事すら許されなかった。床に膝を付くという非常によろしく無い姿勢を余儀無くされた私は、吸い寄せられるようにジェームズの胸元へ、顔を埋めてしまった。
……いや、近い。物凄く近いですジェームズさん。これはとても、けしからん距離です。
「ええ、存じておりますよ。……ですがあの男が貴女の柔肌に触れ、その手を握り、あまつさえ薄汚い視線で瞳を汚した事実に、変わりはございません」
「そ、それは、確かに…そうなん、ですけども……」
やはりというか、予想通りというか。ジェームズは私がクリストファーと踊った事実に対して、深い憤りの感情を覚えてしまっているらしい。
表面上は冷静に見えるけど。至近距離で交錯する瞳の奥には、他の男に触れられた私を浄化してしまいたいという、狂おしい程の独占欲が渦巻いていた。
珍しい。これは嫉妬だ。ジェームズは今、物凄く妬いている。恐らく以前の私が意図せず溢した、『ご褒美』発言以上に。
(クリストファー様にも選ぶ権利はあると思うんだけど……。私が盗られるって思っちゃったのかな? そんなの絶対有り得ないのに)
私の心に空いている隙間は、ジェームズにしか埋められないというのに。思考の全てを私だけに捧げる彼の在り方が、堪らない程に愛おしかった。
けれど。
「ですから、お嬢様。今すぐ貴女の美しい身体から、あの男の不浄な痕跡を消し去る必要があります。……一滴も残さず、徹底的に」
「え……?」
鼓膜へ直接毒を流し込むように、ジェームズは言葉を紡いでいく。欲を孕む重苦しい呼気が耳元へ届けられるその度に。私の心臓は、不規則な跳躍を刻んでいく。甘く唇を掠めた頬からは、火が出そうな程の熱を感じた。
(い、いや…、ちょ、ちょっと待って…? 徹底的に消し去るって、それって一体、どういう意味なのかなッ!?)
彼と触れ合っている全ての場所が、歪な熱を帯びていく。頭の中に浮かび上がる無数の疑問符が、ひたすら脳内を駆け巡っている。
不穏な気配を感じて顔を持ち上げ、自然と見詰め合う形になった彼の瞳の奥には、何も映ってなんかいなかった。
あ、ヤバイ。非常にマズイ。これは完全に、キレてる人の目だ!
「……ッ!? ちょ、ちょっと待って頂けませんかねジェームズさん! そういうのは流石に、家に帰ってからにした方が!」
「もう充分過ぎる程にお待ちしました。これ以上の猶予は、死んでも差し上げられません」
「ッ!!?」
彼は小さく息を吐き出すと。理性の光を塗り潰す程の重い狂気を湛えた昏い瞳で。剥き出しになっている私の素肌を、白手袋を嵌めた掌で拭い始めてしまった。
あの人と指を絡めた隙間から。脈動を盗むかのように握り込まれた手首の内側に至るまで。白い肌が、赤く色付く程に。ただ私の肌に付着した不浄を、記憶ごと削る苛烈さで。
「汚らわしい。虫唾が走る程に不快です。……貴女の全ては、髪の一筋、爪の先、纏う空気すらも、全て私のものだというのに」
眼前に迫る瞳から煮え滾るような執念を感じて。蒼白に凍り付く身体から、力が一気に抜け落ちていく。この人は本気だ。本気で私を。クリストファーへの宣言通りに。『管理』しようとしている。
「……っ、…ぃ………ッ!」
布一枚隔てても尚伝わる途方も無い熱源が、私の身体を無遠慮に這い回っていた。その動きは他者の痕跡を全て焼き落とす程に入念で。聖遺物を磨き上げる敬虔な信徒のように、空恐ろしい程の妄信を孕んでいた。
瞼の裏から生理的な涙が込み上げて来て、視界がゆらゆらと揺らいでいる。霞み歪んだ色彩の境界で確かな熱を持って存在しているのは。私を支配する、この人だけだった。
「っ、い、痛い……っ! それ…ヤダ……っ、ジェームズ止めて!!」
あまりの激痛に耐え切れなくて、制止の声を挙げてみたけれど。全然届いている気がしなかった。憎悪の感情を隠そうともしない蒼の双眸には、あの人に対する明確な殺意が滲み出ていた。
己以外の残滓を微塵も許さぬその手付きは、慈しみよりもむしろ、断罪の方がより近く。私の骨身を軋ませる程に、冷酷で非情な心酔を指先に宿していた。
「……痛い、ですか? ええ、どうぞ痛みを感じて下さい。そして刻み込んで下さい。貴女に触れて良いのは、愛でて良いのは。この世界で……『私』一人だけなのだと」
鼓膜を震わせる密やかな吐息は、私を焼き尽くさんばかりの熱量を伴っているのに。与えられる感覚は神経を直接灼き切る程に鋭敏で、クリストファーの刻んだ痛みを問答無用で上書きする程の威力があった。
いくら私が推しの狂気さえも飲み込む生粋の全肯定オタクでも、流石に限度というものが有る。やるならせめて、悦びくらいは感じていて欲しい。ただ私が痛いだけの不毛なやり取りなんて、拷問以外の何物でも無いから。
「クリストファー・アークライトという男は、貴女を『尋問』する為に連れ出した。……つまり貴女は『私の目の届かぬ場所』で、聖騎士団副団長という猛獣の檻へ、無防備に放り込まれたわけです」
ジェームズの声には、感情という名の揺らぎは微塵も残されていなかった。一切の弁明を封じ、確定した末路を突き付ける無機質なその響きは。断頭台の刃にも似た冷徹さで、私と云う存在に破滅の烙印を刻み込んでいるようだった。
「…ぁ、……ぐッ!?」
行き場の無い力を持て余す様に。ジェームズは私の腰を抱く腕へ、静かな圧を加えていく。捕縛した獲物に狙いを定め、弄ぶようなその動きに。妙な既視感を覚える。
それは衆人環視のダンスフロアで、クリストファーの尋問に晒されていた時。暴力的な威嚇と共に抗い様の無い力で私を封じ込めていた。あの拘束と同じだった。
「そして貴女は彼の尋問に晒され、心身を消耗し、『危険』に身を置いた」
「で、でも……、無事に戻って来れたじゃない。ちゃんと最後には、誤解だって解けたのよ? だから…っ」
「……無事? これが、ですか?」
流麗な所作で私の手首を捕らえたジェームズは。クリストファーの指が食い込んだ圧痕へ、恭しく唇を寄せる。その動きは至高の祈りを捧げる熱心な信徒の如く慇懃で、同時に逃れ得ぬ『執着』という名の鎖を直接私の肌へと縫い付けていた。
「……っ! …ゃ……ッ!?」
赤く色付いてしまった素肌を、一寸の隙も無く侵食しようとする湿った舌の感触に。私の生存本能が警告を鳴らし始める。不謹慎な声が漏れ出てしまいそうで。必死に奥歯を噛み締めて。ただ終わりを求めて耐え忍ぶ。
蒼白に染まる頬の上を、透明な雫がゆっくりと伝う。考えなければならない事は、それこそ数え切れないくらいある筈なのに。沸き立つような熱に脳を焼かれてしまった今の頭では、まともな思考なんて出来るわけが無かった。
「……お嬢様。私との『約束』を、お忘れではありませんよね?」
手首から口を離したジェームズは。間髪入れずに関節を、力の限り握り締める。引き結ばれていた薄い唇に歪な弧が浮かび上がると。その指先は外れる事の無い手錠となって、私の自由を瞬時に奪い去ってしまった。
「──ッ!?」
涙が止まり、鼓動が跳ねる。飢えた獣の如き研ぎ澄まされた眼差しが、剥き出しになった私の魂を。その爪先で容赦無く搦め取る。
忘れる筈が無い。執事としての献身を遥かに踏み越えた。『私』という個体を根底から剥奪し、物理的な鎖で繋ぎ止める為の。悪辣極まり無い、あの契約を。
「条件は、全て満たされました。
一、貴女は私の手の届かないダンスフロアにいた。
二、貴女はアークライト様という『脅威』に拘束され、尋問という『危険』に晒された。
三、貴女の身体には、他者の手によって明確な『傷』が付けられた」
光を映さない深淵の瞳に宿っていたのは、主への愛執などと云う美しい情念では無かった。契約不履行を許さぬ峻烈な管理者の捕捉が、苛烈な凶器となって私の深奥を切り開いていた。
「つまり、私の護衛は失敗したという事です。外の世界は貴女にとって、あまりに危険で、不浄だ。……もう、充分でしょう?」
彼の白い指先が。私の頬へと伸ばされて。溢れた涙の跡を伝い。冷たく震える輪郭をなぞり。首筋へと滑り落ちる。
交錯する眼差しは瞳孔が散大しており、奥には仄昏い静謐な炎が大きく揺らめいていた。
その瞳に囚われる。私の魂だけを渇愛する、理性を焼き切る程の猛毒で。
「人里離れた北の領地に、貴女に相応しい特別な『鳥籠』をご用意致しました。窓には無粋な鉄格子を設えましたが、内装は貴女の愛する書物で、一寸の余白も無く埋め尽くしてございます。
食事も、お召し替えも、それ以外も。今後は私が貴女の手足となり、呼吸をなぞるように執り行いましょう。
貴女はもう、何も成さらなくて良い。ただ私の愛を受け入れ、その美しい声で、心地良く啼いてさえ下されば。……私はそれ以上、何も望みません」
本気の声だった。冗談など微塵も無かった。彼は既に頭の中で、『鳥籠』の準備を完了させていた。あとは『私』という獲物を中に据え置いて。永遠の沈黙を約束する鍵を、回してしまうだけ。
(……いや、準備良過ぎじゃない!? いつの間にそんな別荘用意したの!? そんな事やる時間なんて、何処にも無かった筈だよねッ!!?)
あまりの具体性に、内心で思い切りツッコんでしまった。けれどその最悪の恐怖以上に今の私を苛んでいるのは。彼の語る『監禁生活』という究極の寵愛を想像して、心の底から喜んでしまっている私の浅ましい本性だった。
「……ぁ、…うっ……、そ、それ、…は……っ」
意図せず恍惚の吐息が漏れ出てしまいそうで、堪らず奥歯を噛み締める。蒼白だった頬は一気に熱を取り戻し、期待と高揚の混ざり合った鮮やかな朱を灯し始めていた。
胸の奥には深い愉悦の感情が際限無く湧き上がっていて。このまま愛しい彼の背に、腕を回してしまいそうになる。
嗚呼、なんて甘美な響きなのだろうか。いっそ頷いてしまいたい。楽になってしまいたい。このまま理性の紐を解き、首を縦に振ってしまえば。私は一生、この気高くも美しい男の、所有物に成れる。
推しに全てを掌握され。外界から遮絶された密室で。ただ大好きな人に、甘く飼い殺される日々。
それは私の歪んだオタク心が導き出した、究極の終着駅。社会の荒波も、貴族の陰謀だって関係無い。甘くて。昏くて。でもとても温かで。底知れぬ奈落の淵へ。沈み込んでしまえたなら、どんなに──。
(この、大馬鹿者がーッ!!)
!?
(何流されようとしてるのよ! ちょっとは耐えなさいよね! 今この場で『はい』なんて返事をしようもんなら、ジェームズは今後一生、幸せになんてなれないのにッ!!)
私の脳内で、理性が性癖をぶん殴っていた。それはもう激しく。一抹の躊躇も無く。再起不能にせんばかりの勢いで。
(その程度の覚悟で、よくもまぁジェームズのファンを名乗れたものね! アンタはジェームズが不幸になっても良いって云うの? 今日まで散々守って貰ったのに? 助けて貰ったのに?
せめて恩返しぐらい済ませてから頷きなさいよね! 身の程を弁えなさいよ、この恥知らずの愚か者めッ!!)
…………。
理性という名の暴力が性癖を殴り倒し、視界を鮮やかに冷却していく。正気に戻る事がファンとしての『悪』だと云うのなら。私はもう、悪のままで良い。
私の歪んだ欲望の為にジェームズを不幸のドン底に堕としてしまう事の方が。私の存在が彼の隣から永遠に消え去ってしまう事よりも。何億倍も贖い難い、壊滅的な悲劇なのだから。
(……やっぱり、このまま頷いたら駄目! 絶対に駄目ッ!!)
推しによる極上の監禁生活。イエス。ハッピーエンド。
でもこれが『魂の救済』として成立するのは。世間の常識から大きく外れた、狂った感性を持ってしまっている、『私』限定の話なのだ。
私は震える両手で。首筋に添えられた彼の手を。可能な限り優しく握り返す。全ては推しへの、私の神への、幸せな未来の為に!
「……待って、ジェームズ。私の話を聞いて」
「聞きません」
「お願いだから聞いてよジェームズ! きゃあッ!?」
恐怖に凍り付いた喉を強引に震わせて。肺に残った空気を絞り出すように、力の限り声を張り上げる。そのままジェームズの胸ぐらへと掴み掛かり、此方へ引き寄せようとした。
けれど。
「捕まえました」
彼は流れるような動作でその身を翻すと。逃げ道を塞ぐ障壁となって、私を座席の奥へと縫い留めてしまった。軋むシートの音は退路を奪う、無情な宣告そのものだった。
「…ッ!? ジェームズ、離してッ!!」
「嫌です。もう二度と、離しません」
背中と腰を囲い込む剛腕は、外の世界との繋がりを断絶する鉄壁の檻そのものであり。瞬きひとつの自由さえ、此処には存在していなかった。
ジェームズは私を拘束したまま、そっと顔を持ち上げる。眉ひとつ動かさない彼の相貌は、精巧な人形のように美しい。でもこの身体に感じる熱いくらいの体温と、呼吸に合わせて上下する肩が、それは違うのだと教えてくれていた。
「貴女は、私が守らなければならなかった。誰の目にも触れさせず。誰の手も届かない場所で。私だけが貴女を……愛でていれば良かったのです」
「……ッ!?」
首元へ落とされる吐息混じりの囁きは、蕩ける程に蠱惑的で。組み敷かれたこの身体に、甘い震えが走った。
「……いっその事。貴女の白く美しい脚を、折って差し上げましょうか? そうすれば、二度と他の男の元へ歩み寄ろうなどという愚かな考えを、抱く事も無くなりますよね?」
「……ぁ…、ゃっ……!」
静かに伸ばされた白い指先は、骨の軋みを確かめるように私の脚を伝っていて。絶対的な支配を刻み込む為の無遠慮な軌跡を描いていた。
彼は私の頸に顔を寄せ、深く、深く、息を吸う。鼻腔を掠めるのは、紳士的で優雅なアールグレイの香りと。牙を剥く獣の、冷え切った鉄の匂い。
「私だけを見上げるように躾け直すのも、存外愉しめそうですね? お嬢様を美しく造り変えるのも、執事の『嗜み』として……実に興味深いです」
冗談では無かった。本気だった。むしろジェームズが本気じゃない時なんて、一度も無かった。今の彼は理性の箍が、完全に外れ掛けていた。
私以外の世界など。私を形作るこの『器』すらも。無に還しても構わないと嘲笑うような。底知れぬ深淵の如き渇望が。『ジェームズ』という存在を、内側から喰らい尽くしていた。
(……っ、ダメ…。腰が、砕けちゃいそう……っ…)
今にも喉元へ鋭い牙を立てられてしまいそうで、背筋が震えた。それは恐怖なのか、悪寒なのか。或いは抗い難い歓喜なのか。意識を混濁させた今の私には、その判別をするのは難しかった。
でも。
この完璧なまでに美しい人が。私の為に理性を踏み外して。底知れぬ狂気に。身を浸してくれている。
その残酷なまでに悲しい現実が。私の歪み切ったこの魂を。溢れる程の一途な愛で。満たしてくれていた。
それだけは疑い様もない、唯一無二の真実だった──。
「……貴女に触れるのは、私だけで良い」
思考が、甘い毒に侵されていく。彼の唇が私の耳朶を甘噛みし、信念を蕩けさせていく。
濡れた蒼い瞳で私を射抜く彼の顔には。理性をかなぐり捨てた、一人の男の剥き出しの欲望が浮かんでいた。
「貴女を甘やかすのも、愛するのも、私だけで良い。貴女を泣かせるのも、痛みを与えるのも。その権利を持って良いのは、この世界で私一人だけだ」
それは、歪で、身勝手で。けれど涙が出る程に切実な、愛の告白だった。大切にするだけじゃない。痛みさえも誰にも渡したくないという。魂の底からの妄執だった。
彼はもう一度私の首筋に顔を埋めると。今度は縋るように、唇を押し当てる。濃密な熱を帯びた吐息が直接肌に吹き掛かり、私の鼓動を暴れさせていた。
「……っ…!」
唇を押し当てられた場所に、焼け付くような痛みが走る。紡がれた言葉は紛れも無く独占欲の塊なのに。私には極上の愛の囁きにしか聞こえないから、もうおしまいだ。
(……でも、このまま流されちゃうのは…やっぱり駄目……)
このままではいけない。このままでは本当に、ジェームズが壊れてしまう。それだけはダメだ。推しを不幸にするファンなんて。そんなのは、絶対に許されない。
誘惑に負けそうになる理性を、私は必死に手繰り寄せる。彼の頬に両手を添えて。光を映さぬその瞳を、真っ直ぐに見詰めてやる。
恐怖で足が竦みそうになるのを懸命に堪えて。公爵令嬢としての、そして彼のパートナーとしての矜持を、奮い立たせた。
「……ねぇ、ジェームズ。私がアークライト様と何を話していたか、知りたい?」
「……………」
返事は貰えなかった。食事の邪魔をされた彼の顔には、私を咎める明確な不興が滲んでいた。その冷ややかな視線を受け取りながらも。私は更に、言葉を続けた。
「私ね。今日はずっと、貴方の話をしていたのよ。セシリアとの喧嘩の種だって、ジェームズだったんだから」
「……わたし…の?」
ジェームズは不意を突かれたように、僅かに瞳を見開いた。その微かな動揺が、やはり堪らない程に愛おしくて。優越感にも似た喜びを密かに味わいながらも、悪戯な笑みを浮かべてみせた。
「セシリアったら酷いのよ? 貴方はこんなにも素敵な人なのに、『小汚い犬』だなんて言って罵倒してきたの。だからお茶会の時みたいに、華麗に返り討ちにしてやったわ。……まぁそれが原因で、アークライト様に偽物かもしれない~って、疑われちゃったんだけどね?」
「…………」
私は頬へ添えていた手を離して。今度は子供をあやす様に、彼の頭を優しく撫でさする。するとずっと冷たかった蒼い瞳が、甘やかな恍惚を湛えるかのように、ゆっくりと伏せられた。
「アークライト様は昔のジェームズの事も、ちゃんと見ていてくれたのね。今の貴方を『人間らしくなった』って、評価してくれたのよ。でも『主人に対して牙を剥くかもしれない危険な男』になってるって、逆に注意されちゃった」
「……随分な言われようですね」
「でしょ? だから私は言ってやったわ。『貴方に噛まれて終われるのなら本望だ』って。他にも貴方の淹れる紅茶が美味しい事や、私を世界中の誰よりも大切に思ってくれている事も。ぜ~んぶ話してあげたの。……そしたら最後は呆れて、何も言わなくなっちゃったけどね?」
今思い返してみても、やっぱり面白い。あんなにも乾いた笑みを浮かべるクリストファー様を拝めるだなんて、全然思わなかったから。
「……あのダンスの最中に、貴女はずっと……私の話をなさっていたのですか?」
「私にとっての世界一は、いつだってジェームズだけだもの。貴方の事を思うだけで、私は笑顔になれるわ」
私はクリストファーに掴まれた右手を、そっと掲げてみせる。赤黒い圧痕は薄暗い馬車の中でも、はっきりとその存在を主張していた。
「私はただ守られるだけの、弱い女じゃないわ。貴方が誇りに思うべき、強い『主』でしょう?」
上目遣いに彼を捉え、確かな意志を以て静かに告げる。恐怖が無いと云えば嘘になる。彼の腕力なら私を握り潰す事だって、赤子の手を捻るように容易いだろう。
それでも私は、一歩も引け無かった。だってこんなにも私だけを愛してくれる素晴らしい人を、壊してしまうわけにはいかないから。
「貴方の鳥籠は私にとって、この世界で一番安全な場所よ。でもそれだと私は、『貴方の剣』には成れないの。私が傷付く時は、貴方も傷付く時。貴方が戦う時は、私だって戦いたい。
だからお願いよ、ジェームズ。まだ私から、翼を奪わないで。私はまだ、貴方の為に飛びたいの」
「……っ…、………っ…」
私の切実な告白を受けたジェームズは。瞳の奥に宿る理性の灯火を、激しく明滅させていた。忠誠を誓う敬愛と、全てを簒奪したいという底無しの渇望が。彼の端正な顔を、苦しげに歪ませていた。
「…………」
そんな彼の姿を、私は寸分違わず網膜へ焼き付けていく。彼を縛り付ける最後の鎖が、たとえこの場で粉々に砕け散ろうとも。絶対にこの人の手を、離したりなんかしない。
彼が奈落の底に堕ちる事を選ぶのなら。私は喜んで、出口の無い深淵にこの身を捧げるから。
「……………はぁ」
数秒にも、数時間にも感じる沈黙の後。ジェームズは肺腑を絞り出すような深い溜息を吐き出して。私の肩へ、ポスンと額を預けた。
「……本当に狡い御方だ。そのように気高く、愛おしい事を言われてしまっては、閉じ込める事など……出来なくなってしまうではありませんか。既に手配は済ませてしまったというのに」
「キャンセルしておいて。お願い」
「キャンセルは致しません。……延期です」
蒼い瞳を覆っていた硬質な狂気は。春の訪れを待つ薄氷が溶けるように、緩やかに、そして密やかに、冷徹さを手放していく。
代わりに宿ったのはこの身に纏わり付く程の、重苦しい愛執。
「今回は目を瞑りましょう。……ですが、約束は約束です」
ジェームズは私の手首を強く握り込むと。退路を断つ程の至近距離まで詰め寄り、底意地の悪い愉悦の笑みを、その顔に浮かべる。
「──ッ!!?」
口角を吊り上げ、瞳を作為的に歪ませた推しの破壊力は、それはもう凄まじかった。
「傷を負った『罰』として。あの男に触れられた肌を、この場で消毒させて頂きます」
「な、なななな、なんですってえぇっぇえええ!!?」
ジェームズはとてもイイ笑顔で、私の身体を再びシートへ押し付けると。痕のある手首を引き寄せて、そこに唇を落とし込む。
ズキズキと疼く箇所を吸い上げる熱い口付けは、あの人の色彩を根刮ぎ奪い去ろうとする、浄化の儀式だった。
「ひっ、ひえっ…、ちょ、ちょっと待って! それ、さっきもやった!! 絶対やったよッ!!?」
粘着質な舌先が、痕を優しく、けれど執拗に舐め上げていく。痛覚と快感が混じり合う背徳的な感覚を誤魔化す為には、ひたすら悲鳴のような叫び声を出し続けるしかなかった。
「先程のは、単なる検分に過ぎません。これは不浄を祓う為の、『消毒』と『上書き』。 あの男が貴女に刻んだ不躾な痕跡など、私が一枚残らず、綺麗に塗り潰して差し上げます」
甘く蕩けるような言葉と共に。彼の唇が全てを溶かし尽くす程の熱量を伴って、獲物の捕食を開始する。
眼前に迫る彼の瞳の奥には、確かにあの人が言っていた通りの、煮え滾る溶岩が詰め込まれていた。
(……う、うちのヤンデレ執事…、本当に最高過ぎる…ッ!!)
誰かに愛されるという事が、こんなにも嬉しいだなんて知らなかった。愛しい人の手を握り続ける事が、こんなにも辛いだなんて知らなかった。
肌を掠める冷たい隙間風が、火照る頬を優しく撫でる。世界は穏やかな夜闇に守られて、やがて光溢れる朝が巡り来る。愛しい執事と共にある、幸福な日々を連れて来る──。
第二章 社交界の蒼い月は、これでおしまいです。
ここまで読んで下さりありがとうございました!
第三章もよろしくお願いします!!




