第十五話 (前)
クリストファーに導かれるまま、フロアの喧騒を背に歩き出す。目指す先は会場の壁際。光の届かぬ影の中。静かに獲物を待ち構えているであろう、私の愛する執事の元へ。
(うぅ…胃が痛い…。推しと推しの邂逅なんて、本来なら拝み倒して感謝すべき神イベントの筈なのに……!)
一歩ずつ足を進める度に。周囲の空気が密度を増して。物理的な寒気となって、熱を奪われる心地がする。
内心で冷や汗を流しながらも。私はクリストファーの端正な横顔を、窺うように盗み見る。金の双眸はただ真っ直ぐに前だけを見据えており、胸の奥に潜む真意を徹底して秘匿していた。
それは『私をジェームズの元へ送り届ける』という任務を遂行する、実直な騎士の相貌そのものであり。一度交わした約束は何があろうと違えない、絶対的な規律が込められているようだった。
「………」
けれどその強過ぎる意志の裏に、単なる義務感だけでは説明の付かない別の何かが隠されているようにも感じられて。直接名前を呼ばれたわけでも無いというのに。私は無意識の内に、背筋を硬く強張らせていた。
「……待たせたな」
光と闇の境界線。クリストファーが足を止めると、闇に溶け込んでいたジェームズが、音もなく一歩前へと進み出る。
意図的に感情を削ぎ落としている彼の貌は、やはり至高の芸術品のように美しかったけれど。蒼い瞳の奥に揺らぐ途方も無い執念の炎が、圧倒的なプレッシャーとして私達の前に立ちはだかっていた。
間違い無い。これは、完全な『おこ』である。
「……アークライト様。我が主を此処まで送り届けて頂き、感謝致します」
ジェームズは恭しく一礼するが、頭を下げる角度は最低限だった。表面上は非の打ち所が無い程の礼節を保っており、極限まで無駄を排した挙動には付け入る隙すら見当たらない。
だが顔を上げた瞬間に放たれた視線は、クリストファーを八つ裂きにせんばかりの鋭さだった。
「………」
「………」
黄金の輝きと蒼穹の眼差しが、火花を散らして衝突する。光の騎士と闇の従者。決して相容れない二つの強烈な個性が、私の目の前で対峙していた。
(うぐわぁぁッ!? 推しと推しが睨み合ってるッ! 存在感の暴力で世界が崩壊するッ!!)
現場の空気は氷点下だが、私の内心は沸点を容易く飛び越えていた。心臓は破裂寸前の轟音を絶え間無く響かせており、脳は歴史的瞬間を記憶すべくフルパワーで信号を送り続けていた。
小説の中ですら同じ頁に並ぶ事を許されなかった推し二人が。同じ空気を吸い、同じ場所に立ち、視線を交錯し互いの生を確かめ合っている。これ以上の奇跡なんて存在するか? いや、無い!
「礼には及ばん。これも騎士としての務めだ」
私の精神が『推しの共演』という天啓に悶え、五体投地を繰り返している狂乱を余所に。クリストファーはジェームズの放つ峻烈な殺気を正面から受け止め、敢えて皮肉混じりの笑みを浮かべていた。
「随分と立派な首輪を嵌めているようだが。その牙で飼い主の手を噛まぬよう、精々律しておく事だな」
不遜な響きを添えて。深淵を覗き込むような眼差しと共に。忠告と挑発の入り混じる鋭利な言葉をクリストファーは静かに叩き付ける。
そして自らの掌に在る私の手を惜しむように。けれど確かな重みを以て、ジェームズへと差し出した。
「ご忠告、痛み入ります。ですが私の牙は、お嬢様の安らぎを乱す外敵を骨ごと食い破る為の『道具』に過ぎませんので」
「──ッ!?」
「どうかご安心を。私のお嬢様は、私が責任を持って『管理』致します」
口角を吊り上げるだけの微笑を浮かべたジェームズは。クリストファーの熱を根刮ぎ奪い去るように、私の指先を絡め取る。
物腰は丁寧だが、紡がれる言葉の温度は絶対零度だった。声の輪郭をなぞるだけでも指先が凍ってしまいそうだし、なによりクリストファーへ向ける拒絶の意志が、結晶化してこの身に突き刺さっていた。
(……こ、これは…。もしかしなくとも……相当マズい状況なのでは……?)
浮かれていた私の心臓が、悲鳴を上げて縮こまる。推し同士の対立する姿なんて、一度だって見たくは無い。でも好戦的な笑みを湛える二人の表情が、私の性癖に刺さりまくっているのも、紛れも無い事実だった。
「もし万が一、お嬢様の御身に指一本でも触れるような無礼者がおりましたら……。例えそれがどなたであろうと、私はその腕を切り落としていたでしょうね」
その言葉は紛れも無く、クリストファーへの明確な当て付けだった。ダンスの最中。私の腰を抱き、手を握っていた彼に対する、静謐にして苛烈な処刑宣告。
「ふん。飼い犬がよく吠える。……だが、その狂気じみた忠誠心だけは認めてやろう。お前がその牙を研ぎ澄ませている限り、彼女に近付こうとする有象無象も減るだろうからな」
対するクリストファーは、叩き付けられる殺意の重圧を、木漏れ日を浴びるかのような涼やかな顔で受け流す。唇を薄く歪め、嘲笑を浮かべ、牙を剥く男の執念を悠然と撥ね退けていた。
なんで私の推しは揃いも揃って、物騒な覇気で溢れているのだろうか。こんなの心臓の替えが幾つあっても、足りる気が全然しない。
「お褒めに預かり光栄です。……ですが、私の牙は慈悲を知りません。貴方のように『清らかな正義』を掲げる方には、私の生きる濁った世界の道理など、到底受け入れ難いものでしょう」
「……口の減らん男だ」
クリストファーは最後に短く息を吐き捨てると。興味の失せた舞台を降りるかのように、踵を返して歩き出す。
その去り際。彼は私に、一度だけ視線を走らせると。密かな意志を託すように、顎を引いてみせる。それは剣を収める代わりに彼が差し出した、『停戦』の合図だった。
「………」
遠ざかる白い背中は何処までも孤高で、確固たる信念を感じさせていた。騒乱の嵐は静かに凪いで行き、張り詰めていた神経が解放の時を告げ緩み出す。
良かった。どうにか、最悪の事態は回避出来た。クリストファーの腕は無事だったし、ジェームズも処罰対象にはならなかった。助かった。
確かな安堵に肩を撫で降ろし、小さく息を吐き出した──その刹那。
「お嬢様」
「……ッ!?」
常闇の淵を塗り潰すような。甘やかな毒を過分に含む禍々しい声が。静かに私の耳元へ落ちて来た。
恐る恐る顔を持ち上げてみると。ジェームズが満面の笑みを浮かべ、此方を見下ろしていた。
「……な、何…?」
「………」
でもそこに、光は無かった。蒼い瞳は、全然笑ってなんかいなかった。それはこれまで見た中で。最も美しく。最も恐ろしい。凍て付く程の冷笑だった。
ジェームズは無言を貫いたまま。私の右手を支え持ち。ドレスの袖口から僅かに覗く赤黒い鬱血の痕を、包むように閉じ込める。
それは衆人環視のダンスフロアへ強制連行される直前。クリストファーが容赦無く手首を締め上げた時に出来た、指の圧痕だった。
あの時は必死過ぎて、痛みなど感じている余裕も無かったけれど。白い肌の上でそれはあまりにも痛々しく、暴力の痕跡を主張していた。
「……っ…」
ジェームズの指が痕に触れた途端、鋭い痛みが腕を走り抜ける。でも素肌を滑る仄かな熱は、驚く程に優しくて。まるで壊れ物を扱うような。極限まで慈しむような。祈るような手付きで私に触れていた。
「……見ておりました。全て」
その言葉には、抑え切れない怒りの振動が含まれていた。込み上げる感情を噛み殺す低い声で、彼は呼気を零していた。
「……あの男が、貴女の腕を力任せに掴んだ瞬間も。そのあまりの痛みに、貴女が顔を歪めた瞬間も。私はただ、壁際から見ている事しか出来なかった」
赤い痕を辿る白い指先は、小刻みに震えていた。それは傷を癒やす手当てのようでありながらも、悔恨に身を焼く男の自傷行為にも感じられた。
「執事という立場が、これ程までに憎いと思った事はありません。貴女が乱暴な扱いを受けているにも関わらず。私は駆け寄る事も、あの男を突き飛ばす事すら、叶わない。
ただ指を咥えて、貴女が傷付けられる様を眺めている事しか出来ない無能な己が、私は許せないのです……ッ!」
奥歯の軋む音が聞こえて来た。蒼の双眸には。役目を果たせなかった自分への激しい嫌悪と、主を傷つけた男への底知れぬ殺意が渦巻いていた。
「……ジェームズ」
堪えようとしている涙は、今にも溢れ落ちてしまいそうだった。いっそ痛みを感じる程に拍動する私の心臓は、彼の悲痛な叫びに呼応しているようだった。
私が舞踏室で。必死にクリストファーと対峙していたその裏で。ジェームズは『忠義』という鎖に繋がれたまま。音を立てず。言葉も出せず。ただ深い自責の念で、ずっと心を傷めていたのだ。
その事実がまた一つ。私の隙間を埋めていた。愛しい執事が与えてくれる、狂おしい程の執着で。
「あのような男に、貴女の肌を傷付ける権利など無い。……聖騎士団の副団長であろうとも、この代償は必ず、支払わせます」
落とされる声は呪詛のように重く、暗い響きを内包していた。彼は私の手首へそっと額を押し当てており。布地を透かして届く熱い吐息が、消えない刻印を焼き付けているようだった。
「……痛かったですよね。怖かったですよね。貴女をお守りすると誓った舌の根も乾かぬうちに、この体たらく……。申し訳ございません、お嬢様……ッ」
悔しさに顔を歪める彼の姿は、傷付いた主を前に慟哭する忠犬そのものであり。私に対する狂信的な献身を、鋭利な楔として胸奥に打ち込んでいた。それは自らの存在を粉々に砕いて捧げる程の、美しくも悍ましい自己犠牲だった。
(……私……愛されてるなぁ…)
申し訳無いと云う気持ちは勿論あるけれど。こんなにも私の傷に心を痛めて、涙を浮かべて悲しんでくれる人がいる。その事実が堪らない程、私は嬉しかった。
だってこの人はいつだって。『私』の不完全な魂を。奈落の底まで沈み往くような。甘美な毒で満たしてくれるから。
「大丈夫よ、ジェームズ。貴方のその視線があったからこそ、私は辛くても耐えられたの。貴方が私だけを、真っ直ぐに見ていてくれたから。私はずっと、独りじゃなかったわ」
「……お嬢様」
美しい白銀の髪を、空いている左手で優しく撫でる。緩く瞳を細めて。穏やかな慈愛の笑みを。そっと口元に浮かべてみる。
今にも泣いてしまいそうな可愛い顔を。胸元へ引き寄せて、瞼にキスしてしまいたい衝動に駆られる。でも此処は私達の立つ舞台として、あまり相応しくは無いから。
「さあ、帰りましょう? 私、早く貴方に手当てをして欲しいわ」
早く屋敷に帰りたい。誰にも邪魔されない、二人きりになれる場所で。この愛しい執事を、めいっぱい甘やかしてやりたい。
そんな気持ちで私は、ジェームズの腕をそっと引いた。
けれど。
「…………『帰る』?」
私の言葉に。ジェームズはゆっくりと。譫言のように何かを呟いてから。そっと顔を持ち上げる。交錯した瞳に宿っていたのは、私の期待していた感情では無かった。
もっと暗く。澱んだ。昏い闇。光を拒絶する深淵の意志が、溢れんばかりに滲み出ていた。
「……っ…」
思わず息を呑み込んでしまう。冷笑など生温い。彼の薄い唇には、祈りと断罪を同時に捧げるような歪な笑みが刻まれており。深い闇を湛える瞳は、私を泥濘へ誘う底知れぬ歓喜で濁っていたから。
「……ええ、そうですね。ここには会場の皆様の視線がございます。馬車を回しておりますので、まずはそちらまで戻りましょう」
力強い男の腕が、私の腰へと回される。でもそれは、淑女を導く為の柔らかな添え手などではなかった。獲物の自由を奪い。懐へ縫い止める為の。捕縛の動作だった。
「……っ。う、うん…。分かっ、た…」
呼吸が苦しい。鼓動も煩い。ジェームズの纏う空気が。いつもの独占欲を通り越して。逃げ場を塞ぐ程の冷徹さを以て。決定的な『何か』が、遂行されようとしている気配がした。
(……ヤバい。これ…、ただの『激おこ案件』じゃないかも……)
この感覚は恐らく、破滅への序曲。どんな選択肢を選んでも死に至る、詰みルートの開放。
私は光溢れる夜会の喧騒から。彼一人が支配する沼の底へと、引き摺り込まれるのだった──。




