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偽りの悪役令嬢は屈しない  作者: さけのきりみ
二章 社交界の蒼い月
33/35

第十三話 (後)


 ワルツの旋律は、第二楽章へと移り変わる。優雅な様式を保つ弦楽器の調べは深い哀愁を漂わせており、会場内の空気に静かな波動を広げていた。


 腰へ回されたクリストファーの腕は、相変わらず鉄の拘束具のように硬いけれど。私を問答無用で裁こうとするあの無慈悲な威圧感からは、ひとまず解放してくれたようだった。


「……お前の真意は未だ分からん。化けの皮を繕っているのか、或いは内実が変わったのか。現段階での断定は避けよう。だが、これだけは言える」


 流れる音楽に合わせるように、彼は私をひるがえす。ドレスの裾が風に乗り、遅れて宙へと舞い上がった。


「私の知る愚かで傲慢な公爵令嬢は、そのように穏やかな顔で笑う女では無かった。私のような人間に『敬意』を払う殊勝な心すら、持ち合わせていなかった筈だ」


 思考が追い付かない程の速さで、私の世界は回転する。地に足を付け、もう一度見上げた黄金の瞳には。未知の生物を解剖する学者にも似た、複雑な探究心が宿っているようだった。


 どうやらこの人は私が思う以上に、『本心からの称賛』を気に入ってくれたらしい。


「人は成長するものですわ、アークライト様。それにこの変化は、私個人の努力によるものではございませんのよ?」


 異世界人である私が、『公爵令嬢』として揺るぎない自信を持ち続けていられるのは。誰よりも私を信じ、全てを捧げてくれている。あの完璧な執事の存在があるからに他ならない。


 脳裏にジェームズの姿を思い描けば、自然と頬が緩みそうになる。だが至近距離で此方を見下ろすクリストファーの瞳には、私の姿だけが映っていた。


「ああ、確かに変わった。お前も、そして……『あの男』も」


 不意にクリストファーの眼差しが、会場の壁際へと向けられる。私の肩越しから見えるであろうその場所は。貴族の使用人が唯一立つ事を許されている、薄暗い待機列であった。


「……あの男?」

「ああ。そこに控えている銀髪の執事、ジェームズの事だ」


 疑問符を浮かべる私の顔を、クリストファーは困惑した面持ちで眺めていた。


 薄く細められたその瞳には、純粋な興味と関心が宿っており。率直な好奇心の眼差しを向けたまま、彼は口を開き、言葉を続けた。


「今のお前は知らんだろうが。以前のあの男は、『空っぽの人形』だった」


 過去の記憶を辿るように、金の双眸が空を舞う。その脳裏に蘇っているのは恐らく、私の『知っている』物語だ。


「…………」


 どうして突然そんな話をするのか。質問をするだけなら、とても簡単だ。でも今の私に、敢えてそんな話をするという事は。きっとこの話題がクリストファーの選ぶ、最後の『尋問』に違いない。


 私はセシリアにジェームズを侮辱された時。本物のイザベラでは有り得ない程に、憤りの感情を顕わにしてしまった。だからこそ、クリストファーは選んだのだ。


 この身体に宿る魂の根幹に、執事である『ジェームズ』が関わっているのかどうかを、その目で確かめる為に。


「主人の命令には完璧に従う。所作も美しく、執務能力も極めて高い。だがその瞳の奥には、何も無かった。意志も、感情も、欲望すらも」


「…………」


「誰に対しても、何に対しても執着を持たず、ただ機能するだけの精巧な人形。

 それが私の知る、かつてのジェームズという男だ。優秀ではあったが、人間としての『熱』を感じた事は一度も無い」


 淡々とした口調で紡がれる彼の言葉には、何の感情も載せられていなかった。


 真実を語る黄金の虹彩こうさいは、私の姿だけを真っ直ぐに捉えていて。そこに貴族特有の冷たい差別意識は、欠片も存在していなかった。


(……やっぱり私、クリストファー様の事、好きだな…)


 この人は同じ貴族でも、セシリアとは違う。全ての人間を守るべき民として公平に扱える、素晴らしい人だ。


(……なら私も、誠意を持って、最後の質問に答えましょう…)


 そっと瞼を閉じて、思い出す。かつて毎日のように読み耽っていた、あの小説を。


 小説の中でのジェームズは、クールで無表情なキャラクターだった。


 読者である私はそれを、『クール系執事』という記号として楽しんでいたけれど。クリストファー程の鋭敏えいびんな観察眼を持つ人間にとって。それは単なる無表情では無く、魂の根底の『虚無』として、映っていたのだろう。


 悪役令嬢イザベラに忠実でありながらも。心まで捧げる事が叶わなかった、過去のジェームズ。


 自己の存在意義を持たず。優秀な機能を内包しながらも、それを活かす機会を与えられなかった。空っぽの器。


 以前の彼を一人の人間として扱うには。その在り方はあまりにも、寂し過ぎる。


「……だが、それが今はどうだ?」

「?」


 クリストファーは口元を僅かに歪め、愉悦を覚えた獣のように、獰猛な笑みを浮かべる。彼が向けるその視線の先には、彫像の如く佇むジェームズがいる筈で。


 今の立ち位置的に、私がジェームズの姿を確認するのは無理だけど。きっとあの蒼い瞳には、私に触れている目の前の男への。明確な敵意が宿っているに違いない。


「先程から、身体に穴が空きそうな程の視線を感じる。……実に良い殺気だ」


 どうやらクリストファーが浮かべているその笑みは。自身へ向けられている強烈な殺意を、享受している証らしい。


 それは絶対的な強者だけに許されている。非情な余裕をも感じさせる。戦闘狂の薄嗤いだった。


「空っぽだった人形の中に、今は煮え滾る溶岩が詰められている。……随分と人間らしい顔をするようになったものだ」

「ッ!!!?」


 その瞬間。私の脳内で、祝福のカンパネラが鳴り響いた。まさか『推し』(クリストファー)による『最推し』(ジェームズ)の解釈が聞けるだなんて、想像すらしていなかったから。


(な、ななな、なんて的確な表現をするのよ!? 推しによる推しの解釈、あまりにも解像度が高過ぎるんですがッ!?)


 こんなのは予想して無い。予定に無い。今って確か物凄く、真面目な話をしてましたよね!?


「〜〜〜ッ」


 情緒の落差が、それはもう凄まじい事になっていた。こんなのは感情のジェットコースターだ。胸奥で激しく悶絶し、フロアの床を転げ回りたい衝動に駆られてしまう。


 でもそんな事をすれば、ただでさえ地に落ちている評判がもっと悪くなってしまうので。表面上は公爵令嬢としての、涼しい顔面を保ち続けた。……耐えろ。私の表情筋。


「……彼をそこまで変えたのが私だとしたら、光栄ですわね」

「ああ、間違いないだろうな。使用人にしては、悪くない気迫だ」


 クリストファーは感嘆するように、低く喉を鳴らしていた。それは宮廷で見せるような、紳士の相貌では無かった。血と鉄の匂いを知る、歴戦の騎士だけが見せる、『雄』の姿だった。


 ……というか、なんで私の推しは、揃いも揃ってこんなにもカッコイイのだ。今は尋問の真っ最中である筈なのに、不覚にもときめいてしまう。


 小説ですら拝めなかった。戦闘狂の片鱗。不敵に嗤うクリストファー様。あまりにも良過ぎる。


「立ち姿に無駄がない。重心の位置、筋肉の緊張。主を守る為の鍛錬は、それなりに積んでいるのだろう。……だが所詮は、『使用人』の域を出ない」

「……え?」


 クリストファーはジェームズの変貌を認めつつも、評価はあくまでも冷静で、そして容赦が無い。


 彼は私の手を握り直し。ダンスの回転を利用して。敢えてジェームズの方へ視線を流す。


「あの男は、実戦の匂いが希薄だ。人を殺める為の術理も、戦場を生き抜く為の泥臭さも足りない。

 私と斬り合えば、三合と持たずに私が勝つ。護衛としては優秀だが、騎士の真似事は荷が重いだろう」

「………………」


 その分析はあまりにも率直で、痛い程に的確だった。クリストファーの主観ではなく、客観的な戦力評価としての断言である以上。私から意見出来る事なんて、何も無かった。


 悔しいのは事実だけれど、こればかりは認めるしか無い。なにせこの世界には、ファンタジー世界のお約束でもある便利な魔法が、存在していないから。


 唯一の例外である『聖女の癒しの力』を除けば。純粋な身体能力と剣技、そして積み重ねた経験だけが、武力を測る為の物差しとなる。


 毎日死に物狂いで鍛練し、国境での小競り合い、魔物討伐、対人戦を繰り返している聖騎士団の副団長。


 公爵邸で日々主人の世話を執り行い、その合間を縫って独学に近い形で剣を学んだ執事。


 戦闘力に埋め様の無い差が生まれてしまうのは、至極当然の話なのだ。


(……いや、まぁ…そりゃあ私だって、めちゃくちゃ悔しいよ…? ジェームズが最強であって欲しいというファン心理は、勿論私にだってちゃんとある。あるんだけど……。でもそれ以上に圧倒的な実力差を淡々と語るクリストファー様の『強者感』が、カッコ良過ぎてヤバいんだよッ!!)


 心の中でドンドンと、硬い床をひたすら叩く。奥歯をギリギリと噛み殺しながら。喉元から際限無く迫り上がる激情に、ひたすら耐える。


 並のオタクなら、反発不可避のブチ切れ修羅場案件だけど。その冷徹な分析力こそ、クリストファーの魅力の一つだから。


 推しが推しを正しく評価してくれた。その事実は、素直に受け止めるべきである。悔しいけど。認めるしかないのだ。……悔しいけど!


「手厳しいですわね、アークライト様。そもそも彼は、騎士ではありませんわ。ただの執事です。貴方のような国の英雄と剣を交えて、勝てる道理などございません」

「……随分とあっさり認めるのだな」

「事実を捻じ曲げ、貴方の努力を無為にしてしまうような不遜な言葉を、申し上げるつもりはございません。

 けれど人の持つ『強さ』とは、剣の腕前だけで決まるものでしょうか?」

「何?」


 私はクリストファーの瞳を、真っ直ぐに見詰め返す。その目に宿っているのは、高潔な騎士としての揺るぎない正義。だからこそ彼はきっと、ジェームズの本質までは理解出来ない筈だ。


「彼には、私を守る為なら命さえ投げ出す『覚悟』があります。たとえ貴方に勝てなくとも、腕を一本切り落とされようとも。私が逃げる時間を稼ぐ為なら、きっと喜んでその身を盾にするでしょう。

 今の私にとっては、彼の抱えるその覚悟こそが、この世の全てを超越する程の『強さ』です」


 クリストファーは私の言葉に応えるように、改めて視線をジェームズへと向ける。そして露骨な嫌悪を隠そうともせず、その顔を顰めてみせた。


「……ああ、そうだな。其処に関しては同意しよう。むしろ『異常』と言ってもいいくらいだ」

「え……?」

「あの男の今の瞳を見れば分かる。あれは単なる忠誠心などという美しい言葉で飾れるものでは無い。もっと重く、昏く、底知れない……『狂気』に近い執着だ」

「──ッ!?」


 心臓が、今日一番と言っても良いくらいに跳ね上がった。まさかこの人に、そこまでジェームズの本質を理解して貰えるだなんて、思ってもみなかったから。


「正しき騎士の剣は、守るべきものの為に振るわれる。だがあの男の殺意は違う。己が崇める神に近付く羽虫を、一片の慈悲も無く焼き払おうとする。狂信者の利己的な独占欲だ。

 ……私はああいう手合いが、反吐が出る程嫌いでな」


 地獄の底を這うような低い声で、クリストファーは言葉を吐き捨てる。眉間には深い皺が刻まれており、彼の本能が騎士道精神から外れた『歪な情念』を拒絶している様が、否応無しに伝わって来た。


「あのような危険な男を、よくもまあぎょせているものだ。いつかその牙が、飼い主であるお前自身の喉笛を食い破るかもしれんぞ?」


 それは私の身を案じる言葉でありつつも。制御不能な獣を警戒する、騎士としての明確な忠告だった。


 『正しき道』を歩むクリストファーにとって。ジェームズのような理性を超えた存在は、到底許容出来ないのだろう。


 でも。


(……違うんです、クリストファー様。ジェームズの執着は私にとって、一番の安定剤でもあるんです。貴方のような光の騎士様には、きっと一生、理解しては貰えないけど……)


 言えるわけ無かった。『実は私達は恋人同士で、あれはただの嫉妬なんです』だなんて。口が裂けたって、言えるわけ無い。


 向けられるその視線から逃げるように、顔を俯かせて思考する。言ったら最後。私はこの人から軽蔑されて、ジェームズは『排除すべき悪』として、認定される未来しか見えないから。


「…………」


 そっと視線を戻し、無理やり微笑んでみせる。そんな私を見るクリストファーの表情は、とても静かに、凪いでいた。


「ご忠告、感謝致します。ですが、その心配は無用です」

「……何故そう言い切れる? 人の心の闇は計り知れんぞ」

「存じておりますもの。ジェームズの抱える闇が、どれほど深く。その執着が、いかに重たいものであるのか。私は全てを理解した上で、彼の手を取っておりますので」


 脳裏に鮮明に蘇るのは、私を鳥籠へ閉じ込めようとしていた、縋る様な仄暗い瞳と、壊れそうな程に震える大きな手。


 あれを狂気と呼ぶのなら。私は喜んで、その全てを受け入れる。だってその根底にあるのは、痛みを伴う程に深い『一途な愛』である事を。私は誰よりも理解しているから。


「誰かに執着されるというのは、案外悪い気分ではありませんのよ? 世界中を敵に回しても、ジェームズだけは、絶対に私を裏切らない。

 そう確信出来る相手がいる事は、とても幸福な事ですわ」


 私の言葉に、クリストファーは心底理解出来ないといった顔で目を丸くする。不愉快そうに息を吐き出すと、探るように此方を見下ろした。


「……正気か? 狂犬に首輪をつけず、自ら喉を差し出しているようなものだぞ」

「ええ、そうですわね。でも、もし彼に噛み殺されるのなら、それもまた本望です。

 彼は貴方の言う通り、有能な執事。私に足りないものを補い、支えてくれる、得難い人材です。

 有能な部下に敬意を払い、信頼関係を築く。それは組織を束ねる副団長様ならば、当然の理屈ではありませんか?」


 金の双眸が、一際大きく揺れ動く。それはきっと、私の言葉に含まれた嘘偽りの無い『道理』を、感じ取ってくれたからだろう。


 聖騎士団という組織の長の一人として。部下との信頼関係を築く重要性は、この人が一番よく知っている筈だから。


「……それはまた、健気な事で」


 深く長い溜息を吐くクリストファーだったが。その瞳からは、先程までの険しい警戒心は薄れているようだった。


 代わりに浮かんだのは。『手の施し様の無い変わり者』を見るような、ほんの少しの興味と、呆れの感情。


「……やはりお前は変わった。以前のイザベラなら、使用人など消耗品としか思っていなかっただろうに」

「大切なパートナーですもの。それに、あんなにも優秀で、顔も良くて、紅茶も美味しくて、私だけを見てくれる執事なんて、世界中何処を探してもおりませんわ! まさに至高の芸術品! 我が家の自慢です!!」

「……最後の方は随分と熱が入っていたな」


 おっと、いけない。ついオタク心が溢れ出して早口になってしまった。というか、私は今もしかして、『推し』(クリストファー)『最推し』(ジェームズ)語りをするという、とんでもない時間を過ごしてしまったのでは無いだろうか。


 過去と現在のジェームズの解釈を、物語のサブヒーローの口から聞けてしまうという。天変地異にも等しい大事件。


 コホン、と小さな咳払いで誤魔化してみるが。クリストファーの顔には、珍獣を見守る調教師のような、乾いた笑みが浮かんでいた。


 ……恥ずかしい。穴があったら入りたい。





 オーケストラの音色が、最終章を奏で始める。ワルツは終局へと向かい始め、劇的な調律を以て荘厳な結びを告げていく。


 最後のターン。世界が回る。煌めくシャンデリアと着飾った貴族達が、色彩の渦となって流れていく。


 私はクリストファーを、真正面から見据えていた。その相貌に浮かんでいたのは、これまでの警戒心や侮蔑とは全く異なる。思考の海に沈む男の顔だった。


「……狂気も極まれば、一種の愛に見えるという事か。理解は出来んが、お前の覚悟だけは伝わった」


 『自慢の執事』についての熱弁を聞かされたクリストファーは。呆れるように、けれど何処か憑き物が落ちたような顔をして、小さく息を吐き出した。


「イザベラ。今日のところは、見逃してやる」

「……見逃す、とは?」

「お前が『何者』であるのか、その答えは出なかった。だが少なくとも今の私にとって、即座に排除すべき対象では無いと判断した」


 クリストファーが、至近距離で私を射抜く。そこにはもう、罪人を裁く執行官のような冷徹さは、無くなっていた。


 残っているのは。油断ならぬ好敵手を値踏みする静かな警戒心と、僅ばかりの敬意。


「だが忘れるな。私はお前を信じたわけでは無い。お前が狂犬の手綱を放し、この国に害を為すと判断すれば。私はいつでも、その首を刎ねる」

「ええ、肝に銘じておきますわ。聖騎士団の副団長、クリストファー・アークライト様」


 深く頷き、肯定の意を示す。クリストファーの警告は私にとって、『極上の賛辞』に他ならない。高潔な騎士による『監視』とは、手厚い『庇護』を得る事にも等しい幸運でもあるのだ。


 厳格な眼差しが存在している限り。私が道を誤る事は、恐らく無いだろう。


「その剣を抜く必要が無い事を、いずれ行動で証明してみせます。私はただ、リリエンタール家の汚名をすすぎ、大切な人達を守りたいだけなのですから」


 最後の音が響き渡り、私達の足はピタリと止まる。静寂の戻ったホールで、クリストファーは騎士の礼儀にのっとり、私の手を取って恭しく一礼した。


「その言葉、覚えておく。今のところは『保留』としておこう」

「感謝致しますわ、アークライト様」


 私もまた公爵令嬢としての、最上のカーテシーで応えた。


 互いに敵意を秘めつつも。実力を認め合い。一時的に剣を収める。それはまさにダンスフロアという戦場で結ばれた、奇妙で美しい停戦協定だった──。



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