第十二話 (後)
言うべき事は全て言った。蒼白に染まったセシリアは口を小さく開閉させるだけで、完全に言葉を失っていた。それは粉々に砕け散った硝子の破片が無惨な光を反射する、空疎な墓標のようだった。
「…気分が優れませんので、席を外させていただきますわ。ごきげんよう」
そんな彼女を残し、颯爽と踵を返す。勝利の余韻を背に、扇を小さく揺らす。今の私はまさしく、計算し尽くされた『悪役令嬢の引き際』そのものだった。
背中で感じる周囲の視線は、底知れぬ畏怖と戸惑いに満ちていた。予定より随分と時間を取られてしまったが。憎い女に対して特大の釘を刺せたのは、むしろ大きな収穫だったと云える。
(最高の勝利ね。ジェームズを侮辱された怒りも晴らせたし。セシリアだって、これでしばらくは大人しくしてくれる筈よ)
扇を閉じる乾いた音が。静まり返った舞踏室へ、終幕の合図として響き渡る。胸の内で勝利のファンファーレを鳴らし、優雅に一歩を踏み出した。その時だった。
ガシッ──。
「……ッ!?」
不意に、誰かに手首を掴まれた。鋼鉄の枷を嵌められたような、容赦の無い衝撃がこの身を襲う。それは骨の軋む音すら聞こえてくる程の、絶対的な拘束だった。
「待ちたまえ、リリエンタール嬢」
背後から掛けられたその声は、刃の如く鋭かった。セシリアの金切り声では無い。腹の底を直に震わせる、峻厳な男の声だった。
(……え?)
心臓が大きく跳ね上がる。驚愕に息を呑み、勢いよく振り返った私の視界を埋め尽くしたのは。燃え盛る黄金の炎だった。
「まさかこのまま、挨拶だけで帰るつもりか?」
クリストファーは隣にいた筈のセシリアを置き去りにして、一瞬で私との距離を詰めていた。
その顔には先程までの虚無感は消え失せており。代わりに明確な『敵意』と、獲物の正体を見極めんとする狩人にも似た眼光が浮かんでいた。
彼は見たのだ。かつて執事を家畜の如く虐げた悪役令嬢が。今はその執事の尊厳を守るべく、身分すら厭わぬ怜悧な弁舌で断じた姿を。
「……ぃ、…た…っ!?」
思わず小さな悲鳴が漏れ出てしまう。骨が軋む程の握力と、容赦の無い男の手。あの夜、ジェームズが私へ触れた時でさえ、ここまでの痛みは感じなかったのに。
(…な、なんで…? クリストファー様は、こんな強引な事…、するような人じゃ…っ)
背筋を氷の刃でなぞられたような、凄まじい悪寒が駆け抜ける。動けない。不可解な現象を解明しようとする探究心と疑念の炎が、物理的な拘束以上に私をこの場に縫い止めていたから。
「私の知る『イザベラ』という女は、理路整然な語りなどしなかった。一介の使用人を庇う為に貴族令嬢を論破するなど、出来る筈も無い」
至近距離で見上げるクリストファーの顔は、やはり国宝級に美しかった。けれどその瞳は正体不明の侵入者を見定める門番のように、厳格な光を放っていた。
彼は有無を言わせぬ強い力で私を引き寄せると。周囲の喧騒に紛れるように、耳元で無機質な吐息を落とす。
端から見れば親密な距離感だが。そこで囁かれた言葉は、魂を凍て付かせる程の、非情な呪詛だった。
「……お前は誰だ?」
「!?」
低く、地を這うような問い掛けが。私の心臓を鷲掴む。彼が纏う濃密な威圧感の前では、シャンデリアの煌びやかな光さえも蜃気楼の如く霞んで見えた。
意図せず瞳に溢れた剥き出しの戦慄を、クリストファーは視認する。獲物を追い詰めた断罪者の如く、薄い唇を不敵に歪めて見せた。
(……っ、流石は聖騎士団の副団長様。一国を背負う参謀役の名は…ただの飾りじゃ無かったのね……っ)
小説を繰り返し読み、クリストファーを推していた時は。彼の持つ鋭利な洞察力に痺れていたけれど。いざ自分が向けられる側になると、これ程までに恐ろしいとは思わなかった。
喉元へ剣を突き付けられているような、本能的な忌避感を覚える。彼が本気で『敵』として立ちはだかった時、こんなにも絶対的な脅威に成り得るだなんて。
「私はお前を知っている。独善と嫉妬に塗り潰され、他者の尊厳を顧みない。自分以外の生命を、道端の石塊程度にしか思わない。救い様が無い程に浅ましい、空虚な女」
「っ…、な…にを……、……ぅぐっ!?」
血流が途絶えてしまいそうな程に、クリストファーは私の手首を締め上げる。それは指の跡が深く刻まれる事を予感させる、暴力に近い強さだった。
「記憶の欠落如きで、人の根幹を成す魂の形が変質するなど有り得ない。お前は今その皮の下で、何を企んでいる?」
核心を無慈悲に抉るその言葉に、呼吸すらも忘れてしまう。彼の持ち得る知性の鋭さは、偽りの皮を容赦なく剥ぎ取っていた。
彼にとっては『改心』など、偽装工作の別名に過ぎない。『悪女が狡猾な猫を被り、未知の策謀を弄している』と、最高度の警戒を以てその刃を研ぎ澄ませているのだ。
(……最悪、…過ぎる……ッ!)
頬を冷たい汗が滑り落ちる。憧憬は氷点下の戦慄へと塗り替えられ、全身の血管が萎縮する。逃げ場の無い鉄の拘束が、私の自由を根刮ぎ奪っていたから。
そう。彼は正しい。彼は『本物のイザベラ』を知っている。だからこそ今の私が演じている『理想のイザベラ』との乖離に、誰よりも先に気付いてしまった。
クリストファー・アークライトは、高潔な鎧を纏う冷徹な軍師。対象を静かに見据える双眸は、僅かな違和感すらも決して見逃したりなんかしない。
それが今の私にとって。喉元へ死の鎌を掛けた、生涯最大の『誤算』だったのだ。
(失敗した…ッ! もっと早く、セシリアに一言返した時点で、さっさと立ち去るべきだったのに!!)
ジェームズへの侮辱に我を忘れて反論してしまった代償は、あまりにも大き過ぎた。
視界の端で、見慣れた白銀の髪が動いたような気がしたけれど。クリストファーは私の意識を遮り、更に顔を寄せて来た。
黄金の眼差しが、揺れる翠を覗き込む。魂の奥底まで、暴き立てる為に。
「答えろ。お前は何者だ?」
「………っ…!?」
記憶喪失。改心。もうそんな生温い言葉では誤魔化せない。彼は直感的に見抜いているのだ。この皮の中に宿る魂が、かつてのイザベラでは無いという『真実』を。
(…ダメ…、なんでもいいから考えて……っ! この人から逃れる為には、頭を使わないといけないのに……っ!!)
握られた手は熱いくらいなのに、そこから流れてくる感情は極寒だった。
でもその妥協無き潔癖さと、悪を許さぬ苛烈な眼差しが。どうしようもなく私を魅了してしまうのも、また事実だった。
整った鼻先が触れそうな程の至近距離。彼の吐息が掛かる度に、身動きが取れなくなる。頭が働く事を放棄し。呼吸さえも忘れ。私はその場で硬直した。
「ちょ、ちょっと!? 何をなさってますのクリストファー様!!?」
張り詰めた空気を切り裂くように、金切り声が響いた。我に返ったセシリアが、顔を真っ赤にして叫んでいた。
「早くその手を離してくださいまし! 汚らわしい! わたくしというパートナーがいながら、大罪人の女に触れるだなんて!! お父様に言い付けますわよ!!?」
「…………」
セシリアは形振り構わずクリストファーの腕へ縋り付き、私を引き剥がそうと躍起になっていた。長く整えられた彼女の爪が、硬質な純白の軍服を無様に歪ませている。
普段ならば、鬱陶しいだけの癇癪だけど。今の私にとっては、天から差し込む一筋の光にも等しい救済だった。
(セシリア……!? なんてベストなタイミングなの! 今だけは、貴女の空気の読めなさに感謝するわ!!)
クリストファーの追及から逃れるには。セシリアが騒ぎ立て、彼を連れ去ってくれるのが一番の近道なのだ。
私は心の中で。かつてない熱量を以て。セシリアへ最大限のエールを送った。
(行けセシリア! もっと喚いて! 貴女の自意識過剰な独占欲で、クリストファー様を困らせて!!)
内心で特大のメガホンを掲げてみるけれど。私とセシリアの必死さとは裏腹に、クリストファーは動かなかった。その瞳は捕らえた獲物である私から、一瞬たりとも外される事は無かった。
クリストファーにとってはセシリアの存在など、審問の最中に飛び回る羽虫程度の価値しか無いのかもしれない。
「黙れ」
「へ……?」
「今は取り込み中だ。私の邪魔をするな」
それは随分と人間味の無い、吐き捨てるような声だった。セシリアのプライドを粉々に砕く程の、完全なる無視と拒絶。
セシリアが息を呑み、恐怖に顔を引き攣らせて後ずさるけれど。その容赦の無い態度を見て、むしろ妙に納得してしまった。
(…さっきの『接待ダンス』、よっぽど根に持ってたのね……)
好きでもない相手に無理やり付き合わされ。ベタベタと身体を触られ。生理的な嫌悪感を理性だけで押さえ込んでいた反動が、きっとここに来て爆発したのだろう。
今の彼にとってセシリアは、残業を強いてくる理不尽な上司。或いはしつこいクレーマーにしか見えていないのだ。
なんだか、セシリアが可哀想に思えてきた。権力を振り翳す事でしか好きな人に相手をして貰えない、その孤独な乙女心には同情を禁じ得ないから。
でもそのとばっちりが私へ向いている現状には、戦慄するしかないのである。
「……っ!?」
邪魔者は消えたと言わんばかりに。クリストファーは私を捕らえる腕を乱暴に引いた。抵抗など許さないという圧倒的な力で、自分の領域へと引き摺り込む。
「ここで話すには邪魔が多過ぎる。……場所を変えるぞ」
彼は私の腕から手を離すと。素早く、しかし洗練された動作で、私の掌を下から支え直す。それは周囲の目を誤魔化す為の、即席の『ダンスの申し込み』の形だった。
「イザベラ・フォン・リリエンタール嬢。一曲、付き合っていただこうか」
黄金の瞳が、嗜虐的なまでに細められる。そこには恋慕の感情など欠片も無い。あるのは不審人物を徹底的に追い詰めようとする、冷酷な執行者の微笑だった。
(…嘘…、でしょ…?)
全身から血の気が引いていく。手首に残された痛みが。これが逃れられぬ現実である事を、教えてくれている。
背後ではセシリアが何事かを恨めしく呟いており。会場の隅からはジェームズの放つ殺気が華やかな熱狂を凍結させていた。
しかし眼前の騎士は、外界の一切を黙殺していた。ただ私という『悪』を暴く事だけに、その意識を集中させていた。
これはダンスの誘いでは無い。衆人環視のダンスフロアという『尋問室』への、強制連行だった──。




