第二話
馬車の中は、外装の豪華さに違わぬ別世界だった。上質なビロードが張られたシートに、細やかな彫刻が施された内壁が一際目を惹いた。
(公爵家の財力って本当にすごいのね。この馬車一台で、村の家が何軒建つんだろう…?)
ふかふかのシートに腰を降ろせば、すぐにでも馬車は動き出していく。窓の外の景色があっという間に鬱蒼とした森へと変わっていき、パン屋の店先とそこに立ち尽くす母の姿は、もう見えなくなっていた。
「………」
向かいには執事のジェームズが静かに座っている。彼の蒼い瞳が、まるで私を値踏みしているかのように思えて、そっと視線を逸らす。彫刻のように整ったその顔立ちは、小説の挿絵で見た『理想の紳士』そのものだった。
(そういえばジェームズって、イザベラ様の前以外ではびっくりするくらい無表情で冷たいキャラだったわよね。うんうん、クールでかっこいい! 素敵! 好き!! ……でもいざ目の前にするとこういうキャラってやっぱり…怖いんだよなぁぁっ!!)
彼は私の平穏を無慈悲に踏みにじった張本人であり、イザベラの為なら命すら差し出す忠臣。今の私が彼の逆鱗に触れればどうなるか、正直想像もつかない。
(というか、そもそも私がイザベラと似ているだけで公爵家に連れて行くのなんて、あまりにも無謀過ぎない? 貴族のマナーだって、なんにも知らないのに…)
私が知るイザベラは、貴族としての誇りを誰よりも持っていた。そんな彼女が理不尽に全てを奪われ、修道院へ送られると決まった時、一体何を思っただろう。もし私が本物のイザベラだったなら……。
「…きっと、逃げたいって思うかな」
「………?」
静寂に落ちた独り言は、驚くほど鮮明に彼の耳に届いてしまったらしい。訝しげにこちらを見やるジェームズに向けて、私は曖昧に微笑んでみせる。
色々考えてみたけれど、彼が求める『イザベラ様』を完璧に演じる事なんて、庶民の私にはどう足掻いても無理だと思う。だからこそ公爵邸へ着く前に、伝えなければならない事がある。
「ねぇ執事さん。なんで私を公爵家に連れていくの? 私は貴方の探してるお嬢様じゃないのに」
私の言葉を聞いたジェームズは数秒間何かを考えるように目を伏せた後、僅かに眉を顰めた。
「…やはり……は、……もう………」
「え?」
車輪が石を踏み締める音と重なって、重要な部分が聞き取れない。というか、いい加減腰が痛い。整備されていない街道には石や砂利がひしめいていて、とにかく車体がガタガタ揺れるのだ。コンクリート道路に慣れた現代人にとって、この手の乗り物は辛過ぎる。
「…その件をお話する前に、貴女は公爵家の内情についてどの程度御存知でいらっしゃいますか?」
(きた…!)
まだまだ暖かな気候の筈なのに、妙に背筋が寒い。まるで重役が並ぶプレゼンのようだ。恐らく私は試されている。ただの無知な村娘か、それとも交渉相手足りうる人間か。
(貴族のゴシップは庶民の間でも酒の肴として広まるものだし、要点だけ知ってても…別に問題は無い筈…!)
「公爵令嬢イザベラ様は聖女様への執拗な嫌がらせを繰り返し、それが原因で王子殿下から婚約を破棄され、修道院へ送られることになった…と。そのように把握しております」
「なるほど。では貴女は、ご自身の姿を見てどう思われますか?」
「どう、とは……」
窓ガラスに反射する自分の顔は、やはりイザベラにしか思えない程に酷似している。けれど右目の下に見える泣きぼくろが、それは違うのだと教えてくれている。
挿絵のイザベラは、いつも不機嫌そうな顔をしていた。けれど、今の私は違う。眉間にシワなんて寄って無いし、眉だってつり上がってない。そういう表情一つとっても、私と彼女は別人だ。
「初めて姿絵を拝見した時は本当に驚きました。まさか私が、公爵令嬢であるイザベラ様と、こんなにも似ているだなんて思いません。でも彼女の右目の下に、ほくろなんて無い。
執事さん。私は、イザベラ様ではありません。パン屋の娘、エリアーナです」
「…………」
もし彼が私に同情してくれたなら、あの穏やかな日常に戻れるかもしれない。私を迎えに来た時点で彼らの意志は曲げられないだろうけど、それでもほんの少しでも可能性があるのなら。未練がましくても縋りたい。たった半日の、偽りの日常だったとしても、諦めきれない自分がいる。
「左様でございますか。ですが、それでもなお貴女にはお嬢様を演じて頂きたい。公爵様は後悔しておられるのです。お嬢様との関係が拗れ、あのような蛮行に走らせてしまったのは、全てご自身の責任であると」
「ならどうしてお嬢様本人を連れ戻さないの? 修道院にいるのなら、私が行く必要なんて無いじゃない…ッ」
声が震えるのを止められなかった。何故なら私は、彼女が修道院にいない事実を既に知っているから。
でも私はこの身体の持ち主の為にも、穏やかな人生を無意識に奪ってしまった償いの為にも、幸せにならなければいけない。そしてその為の交渉が出来るのは、後にも先にも、今この瞬間だけだろうから。
「…貴女は聡明な方だ」
ジェームズの蒼い瞳が、初めて値踏みではない、微かな驚きと興味の色を宿して私を見た。
「きっとお嬢様の行方についても、大凡の検討が付いておられるのでしょう。その上で、敢えてあの場で私に『条件』を提示なされた。素晴らしい慧眼です。
では逆に問いましょう。貴女の『条件』の真意を、お聞かせ願えますか?」
ここが正念場。パン屋の娘としての、あの温かい日常を取り戻せるか。それとも偽りの令嬢として、名も知らぬ貴族たちの陰謀に使い潰されるか。私の未来を決める分水嶺が、今ここにある。
私は震える膝を叱咤し乾いた唇を一度引き結ぶと、目の前の男を真っ直ぐに見据えた。
「私がイザベラを演じる代わりに、私の身の安全と、最終的な自由を保証して。具体的には全てが解決した後、私を『エリアーナ』としてパン屋のお母さんの元へ帰すことを約束して欲しいの」
私の言葉を聞いたジェームズは、ふっと、本当に微かに口元を緩める。その穏やかな表情は、私が小説を読み焦がれた『ジェームズ』の姿そのもので、思わず頬が熱くなった。
「左様でございますか。…失礼ながら、以前のお嬢様よりも、『今』のお嬢様の方が、私は好きかもしれません」
「す……ッ!!!?」
深く、恭しく頭を下げる彼を前に、思考が停止する。
推しからの、あまりにも不意打ち過ぎる『好き』という言葉に頭が真っ白になる。いや待って落ち着け私! これはそういう意味じゃない!! ただのビジネスライク!!! 間違ってもラブの方じゃない!!!!
…と、分かってはいても、勝手に口元がにやけてしまう。それを決死の覚悟で引き締める。彼が発した言葉が何を意味するのか分からない程、私は鈍感では無い。これはつまりジェームズと私が交わした、正式な『共犯者』としての契約だ。
「申し遅れましたが、私はイザベラ様の専属執事、ジェームズと申します。今日この時より新しい『イザベラ』様にお仕えできる事、このジェームズ、光栄の至りにございます」
私の武器は、社会人として培った交渉術と問題解決能力。この世界は、どういうわけか原作『光の聖女と五人の騎士』のエンディング後から始まっている。となれば、まず必要となってくるのは情報。断罪されたイザベラが今、貴族社会でどう扱われているのか。そして、物語の主人公であるエレンディラと王子は、今どこで何をしているのか。それを私は、知る必要がある。
偽りの悪役令嬢、イザベラ・フォン・リリエンタールとして──。