第十一話
カッセル伯爵夫人は、社交界における不朽の重鎮。情勢を一変させられる程の最強の『切り札』を、仮とはいえ掌中に収める事が出来たのだ。
もうこれ以上、敵意の坩堝に留まる理由なんて無い。
(今はまだ、セシリアと直接話すような時期じゃないわ。彼女がこの会場へ現れる前に、さっさと帰らないと…)
そもそも今日の目的は、聖女派の流す悪質な噂を、この耳で聞くだけで良かったのだ。それが蓋を開けてみれば、情報提供どころか、噂の根本を叩き潰す為の強力なカードまで見つけてしまった。
順調だ。順調過ぎて、むしろ反動が恐ろしく感じる。なのでここは勝ち逃げを決め込むのが、賢い大人の選択というもの。
(えっと、ジェームズは……。いたいた。うん、やっぱりいつ見ても、私の推しはかっこいい!)
私は壁際で待機しているジェームズへ、視線を向ける。帰宅の合図を送るべく、扇を掲げようとした──その時だった。
「まぁ、いらっしゃったわ! 今宵の主役が!」
「なんて凛々しいお姿なの……!」
「!?」
さざめくような称賛の声が、音の奔流となって押し寄せる。それは私へ向けられた冷ややかな拒絶とは正反対の、熱狂的な歓迎の調べだった。
(まさか…っ!?)
重厚な扉が開かれそこから現れたのは。真っ赤なドレスを身に纏う、セシリア・マルケス。
ふわりと広がるスカートには過剰なまでのレースとフリルがあしらわれており、胸元には聖女との絆の強さを謳う大粒の宝石が輝いていた。
勝ち誇るような満面の笑みは。借り物の威光を我が物顔で振りかざす、傲慢な女狐そのもので。そんな彼女の傍らに立ち、手を取っているのは。
「──ッ!?」
まず最初に私の視界へ飛び込んで来たのは、艶のある漆黒の髪だった。次に意志の強さを感じさせる、金色の瞳。
白を基調とした聖騎士団の正装が、鍛え抜かれているであろう身体の線を寸分違わず拾い上げており。清廉と禁欲を体現するような出で立ちに、金の刺繍が驚く程映えていた。
その青年の名は、クリストファー・アークライト。グランヴェル王国聖騎士団の副団長であり、次期侯爵。そして私の、愛する推し。
(はわ…、はわわ…っ! な、生クリストファー様だっ! 嘘でしょ!? ちょっと待って! 全然心の準備が出来てない!!)
呼吸が止まってしまうかと思った。気の早い心臓が、サイレンのように早鐘を打ち始めていた。扇で口元を隠していなければ、きっと私は公衆の面前で醜態を晒していたに違いない。
(生きてる! 動いてる! 息、してる!! 挿絵でしか拝めなかった国宝級の顔面が、今、私の目の前に…!!!)
ジェームズが『至高の芸術品』だとするならば、クリストファーはまさに『質実剛健の国宝』である。
美しい彼に、派手な装飾などそもそも不要なのだ。堅牢な本質こそが、この世界に於ける唯一絶対の真理。
なんて事だ。同じ空間に、推しが二人も存在するだなんて。そんな贅沢が許されて良いのか? こんなの宝くじ一等以上の幸運と呼んでも差し支え無い程の大事件なのに!
内心で黄色い歓声を上げ、サイリウムを振り回したい衝動に駆られる。けれどその興奮は、一瞬で冷や水を浴びせられたように静まってしまった。
「さあ、クリストファー様。踊りましょう? 皆様がわたくし達を見ていますわ」
「……ああ。そうだな」
なぜならクリストファーの表情が、あまりにも『絶望的』だったからである。
セシリアはクリストファーの身体へ、それはもう絡み付く蛇のように密着していた。隣に並び立つ男を己が戦利品の如く誇示しながら、フロアの中央へと進んで行く。
オーケストラが奏でる曲調がより華やかで、主役の登場を告げる旋律へと切り替わる。その音楽に合わせて、優雅にステップを踏む二人。
「…………」
傍目で見れば、美男美女のお似合いカップルに感じるかもしれない。セシリアは幸せそうに頬を紅潮させ、恍惚とした眼差しでパートナーを見上げている。
しかし。
(……!? なんて、こと…!)
私は気付いてしまった。クリストファーの美しい瞳が、光を失っている事に。
「あぁ、クリストファー様。わたくし、今夜は本当に幸せですわ。聖女様もきっと、わたくしたちのダンスを祝福して下さっています」
「……そうか」
「ええ、間違いありませんわ。聖女様の親友であるわたくしと、聖女様をお守りする貴方様。これほど相応しい組み合わせはございませんもの」
漏れ聞こえるセシリアの甘ったるい声に、クリストファーの頬がピクリと痙攣する。
彼はセシリアの腰に手を回しているが、その手つきは汚物へ触れるかのように、指先だけでドレスの布地を摘まんでいた。極力彼女に触れたくないという必死の抵抗が見て取れる。
クリストファーのダンスは完璧だった。騎士として鍛え上げられた体幹はブレる事が一切無く、エスコートも的確で、セシリアの足捌きを邪魔しないよう細心の注意が払われている。
だが、その完璧な技術とは裏腹に、二人の間に流れる熱意は対極であった。
(……目が、死んでる……)
彼の瞳には、目の前で踊るセシリアの姿など微塵も映っていない。光を失い。感情を殺し。ただ義務だけを遂行する機械のような冷たさが、そこにはあった。
マルケス侯爵家は、聖騎士団最大の後援者。副団長という立場にあるクリストファーにとって、愛娘であるセシリアからの誘いは、事実上の業務命令に等しい。
断れば聖騎士団への予算が削られるかもしれない。部下たちの装備や生活に影響が出るかもしれない。真面目で責任感の強い彼だからこそ、個人の感情を押し殺して、この『接待』に応じているのだろう。
「もっと近くにいらして? この場にお集まり頂いている方々の眼差しを、裏切るわけには参りませんもの」
「……足並みが乱れている。あまり寄らないでくれないか、セシリア嬢」
「まぁ、照れ屋さん。でも、そんな硬派なところも素敵ですわ」
セシリアは彼の拒絶を都合よく解釈し、さらに身体を擦り寄せる。その姿は獲物を呑み込まんとする毒蛇のように恐ろしい。
クリストファーの瞳から、完全に生気が消え失せていく。虚空を見つめるその目は、曲が終わる事だけを切に願っているに違いない。
見え透いた甘え方。媚びるような声色。守られるべきか弱い令嬢を必死に演じているつもりなのだろうが、隠しきれない野心と棘が全身から滲み出ている。痛々しくて見ていられない。クリストファーが虚無顔になるのも当然だった。
(うわぁぁぁん! 推しが……、推しが、社畜みたいな顔してるぅぅぅッ!!)
胸が張り裂けてしまいそうだった。セシリアのあからさまな好意と接触に、クリストファーは少しも喜んでなんか無い。むしろ嫌悪感を理性で必死に抑え込んでいるのが、オタクの私には痛い程伝わってきたから。
(やめたげてセシリア! その腕の絡ませ方は淑女として相応しく無いわ! クリストファー様の『拒絶』を『照れ』に変換するポジティブさは凄いと思うけど! それただの職権乱用だからね!?)
内心で絶叫しながらも、私の胸には深い同情と抗い難い情念が押し寄せていた。
美しくも虚ろな、あの瞳。推しの苦痛に歪む顔なんて、一度だって見たくはない。
でも耐え忍ぶその姿から滲み出る禁欲的な色気が、どうしようもなく私の性癖に突き刺さってしまうのも、紛れも無い事実で。
(うぅ…、なんて冷たい瞳……。ゾクゾクする程カッコイイのに…っ。めちゃくちゃツラい……ッ!)
推しが輝いている姿を見るのは、勿論嬉しい。けれど推しが心身をすり減らして接待労働に従事している姿を見るのは、ファンとして、そして元社畜として、甚だ辛い現実だった。
セシリアは気付いていないのだろうか。それとも、気付いていて尚、彼を権力で縛り付けている自分に酔っているのだろうか。
どちらにせよ、罪深い。あまりにも罪深過ぎる!
「なんてお似合いなのかしら!」
「まるで物語の王子様とお姫様ですわね!」
周囲の貴婦人達は、うっとりとした表情で二人を称賛している。彼女達の目には権力と美貌を兼ね備えた、理想のカップルにしか映っていないのだろう。
けれど、私には見える。
煌びやかなドレスと正装の下にある、ドロドロとした権力構造と騎士の悲哀が。
「…………」
クリストファーの視線が、ふと宙を彷徨い、壁際に立つ私の姿を、一瞬だけ掠めた気がした。その瞳はただ深く、暗い海のように沈殿していて。私は思わず、扇を持つ手に力を込めた。
(頑張って、クリストファー様。地獄のダンスタイムが終われば、きっと解放されるはずだから。……強く生きて!)
届けられる筈もない労いの言葉を、心の中でそっと捧げる。それは聖女への祈りよりもずっと切実な、同胞へ向ける哀悼の感情だった──。




