第十話 (後)
覚悟の味は仄かに苦かった。空になったグラスを、通りがかった給仕のトレーへ滑り込ませた──その時だった。
「ごきげんよう、イザベラ様」
背後から、穏やかで落ち着いた声が掛けられた。探るように後ろを振り返れば、そこには温和な笑みを浮かべる年配の女性が立っていた。
「カッセル伯爵夫人!」
落ち着いた深緑のドレスを上品に着こなすこの人こそが。夜会の主催者、カッセル伯爵夫人だ。
即座に淑女の礼を取り、感謝の意を伝える。周囲の冷ややかな視線とは裏腹に、彼女の穏やかな瞳には、私を拒絶するような意志は見受けられなかった。
「本日は素晴らしい夜会へ参加させて頂き、誠にありがとうございます」
「礼を言うのはわたくしの方ですわ。正直を申し上げますと、貴女がいらして下さるとは思っておりませんでしたの。
今宵の夜会は招待状を必要としない、開かれた場。それ故に、貴女に対して心無い言葉を投げ掛ける者が、紛れ込む恐れもございました。わたくし、それがとても心配で……」
夫人の眼差しには、憐憫と慈愛が満ち溢れていた。聖女派に属していながらも公平な目を持つ人格者であるという噂は、本当だったようである。
申し訳無さそうに頭を下げる彼女の肩口へ、そっと片手を添える。恭順は不要であると、指先から伝える為に。
「そんな…。お心遣い、痛み入ります。それに私は、リリエンタール公爵家の娘ですもの。謂れのない噂や逆風に背を向けて、逃げ出すような真似は致しませんわ」
これは紛れも無く、私の本心だ。そもそも今日の夜会へ参加した理由は、私への悪意を聞く為だったのに。むしろ全然聞けなくて、肩透かしを食らった気分である。
「…ふふっ。その凛としたお強さは、昔からお変わりになりませんわね」
「………?」
瞳の奥に穏やかな笑みを湛えながら、夫人は静かに此方を見遣る。遠い日を懐かしむようなその眼差しから、目を逸らす事は出来なかった。
「貴女とお会いするのは、これが初めてではありませんのよ。
わたくしは伯爵家へ嫁ぐ前、王家の末席に連なる者でした。貴女がフィリップ殿下と婚約を結ばれたあの日。王族側の一員として、立ち会わせて頂いたのです」
「えぇっ!?」
小説にすら書かれていなかった衝撃情報に、思わず目を見開き、固まってしまう。確かにカッセル伯爵家は王家の遠縁だと、ジェームズは言っていたけれど。
まさか夫人が元王族だなんて思わなかった。てっきり、伯爵の方だと思っていたのに。
「あの日。まだ幼いながらも毅然として前を見据える貴女を見て、わたくしは確信致しましたのよ。この方こそが、次代の国母に相応しいと」
「…そんな、買い被りですわ。私は聖女様を陥れた『大罪人』。そして今は、記憶を失った、ただの公爵令嬢に過ぎませんもの。次代の国母は、聖女様こそが相応しいのです」
敢えて自嘲気味に、世界が私に貼り付けたレッテルを口外する。けれど夫人は私の言葉に対して、肯定も否定もしなかった。
「…………………」
ただ扇の縁から覗く瞳を細め、意味深な笑みを浮かべただけ。
それは世間の評判など意に介さない。或いは、隠された真実すら見通しているかのような。強者だけに許される、余裕に満ちた沈黙だった。
「…イザベラ様。わたくしの目は、節穴ではございませんことよ?」
「……っ…」
視線が交差し、背筋に悪寒が走る。風格を感じる上品な笑みのまま、彼女は静かに言葉を紡ぐ。
「聖女様の慈悲深さは、確かに素晴らしいものです。民草を慈しむその御心は、国の宝と言えましょう。
ですが国を背負う王妃の座には、優しさだけでは足りないのです」
憂いの感情を瞳に乗せて、謳うように繋いでいく。彼女が浮かべるその笑みからは、私からの発言権を取り上げる程の、厳かな圧力が込められていた。
「あの御方の純粋さは、時として強かさを欠き、周囲の思惑に流される隙を生んでしまいます。
わたくしが憂慮するのは、ただ一点。王家、或いはその近しい者達の『傀儡』となってしまわれないか。その未来だけが、わたくしには恐ろしいのです」
聖女エレンディラは、善良なヒロインだ。その純粋さが政治的な弱点に成り得る事を、元王族である夫人は危惧している。
そして今のセシリア達の暴走を考えれば、彼女の憶測が間違っていない事が、否応無しに証明されてしまう。
(見事な洞察力だわ。元王族でもあるし、その情報網も信頼出来る……)
それにこの話を敢えて私に聞かせるという事は。恐らくカッセル伯爵夫人は、私に何か、して欲しい事があるのだろう。
「…………」
窺うように、そっと顔を覗き込む。すると彼女は、花の綻ぶような笑みを浮かべて見せた。
「セシリア様は確か、イザベラ様の、かつての『お友達』でしたわよね?」
「!?」
夫人の視線が、舞踏室の入り口へと向けられる。姿までは見えないものの、周囲の雑踏が求心力を持つかのように、集束しつつある気配があった。
「聖女様の御威光を借りて、随分と楽しそうに振る舞っていらっしゃること。……見ていて、あまり気持ちの良いものではありませんわね」
穏やかだった瞳の奥に、無作法を許さぬ鋭い光が浮かび上がる。この人は一体、『どこまで』知っているのだろうか。
「もし貴女が動かれるようでしたら、わたくしにも是非、お声掛け下さい。
わたくしは嫁いで久しい身ですが、それでも古い知己や伝手はそれなりにございますの。貴女が正しき道を往く為の助けとなるのであれば、お力になりましょう」
ただの優しい貴婦人では無かった。彼女は社交界という戦場で、確固たる地位を築き上げた古強者。立ち居振る舞いの全てに、この国で長年生き抜いて来た者だけが持つ、洗練された凄みが滲んでいた。
「…ありがとうございます、伯爵夫人。その時は…是非、頼らせていただきますわ…」
感謝の言葉を述べながらも。私の頭の中では、冷徹な計算機が回り始めていた。
(夫人の申し出は、正直とてもありがたいわ…。でも、彼女のメリットは…何…?)
聖女の周辺を整理する事は、国の未来を考えれば避けられない責務だ。でもそれだけの為にわざわざ、『マルケス侯爵家』という巨大な権力を敵に回すリスクを冒す道理があるだろうか。
マルケス侯爵は、聖騎士団の生殺与奪を握る、軍部の実力者。
マルケス侯爵夫人は、王妃の意思決定を左右する、宮廷の助言者。
娘のセシリアは、聖女の言葉を代弁し世論を操る、彼女の『親友』。
軍事力、政治力、そして聖女という名の宗教的権威。どう贔屓目に見ても、カッセル伯爵夫人にメリットなど無い。
(『何故私に協力するのか』、この言葉を口に出すのは危険だわ。夫人の厚意を疑う事になるし。正義感で動いているのなら、私の計算高さに、失望されてしまう可能性も…)
喉元まで出かかった問いを飲み込んで、最適な答えをもう一度探す。
結論を出すには、まだ早い。この人が本当に私の味方になってくれるのなら。セシリアの流した噂の火消しどころか、聖女派の基盤を揺るがす事さえ、可能になるかもしれないから。
強力な手札が増えた事を、今はただ、感謝する時だ。余計な疑問など邪魔になるだけ。そう結論付けた、その時だった。
「……貴女は記憶を失われてから、随分と聡くなられましたのね」
扇で口元を隠し、夫人は楽しげに瞳を細める。彼女の視線は私の胸奥にある疑問を、完全に見透かしているようだった。
「何故わたくしが『リスクを冒してまでマルケス侯爵家と対立するのか』、そうお考えなのでしょう?」
「……ッ!? め、滅相もございません。私は…、ただ…っ」
「隠さなくても結構ですわ。政界に身を置く者として、利害を考えるのは当然の事。わたくし、無償の愛や正義感だけで動く程、甘い人間ではございませんもの」
言葉に詰まる。夫人の利害を懸念していたのは紛れも無い事実だけれど、こんなにも早く悟られるとは思わなかったから。
夫人は一歩私へ近付くと。庭の草花を愛でるかのような、優雅な口調で謳い始めた。
「美しい庭園には時折、身の程を弁えない『雑草』が蔓延る事がございますの。華やかな花を装ってはいても、所詮は雑草。本来あるべき美しい景観を、随分と長く穢されている気が致しますのよ」
「……雑草…、ですか?」
「ええ。よく、『実はその種に似る』と申しますでしょう? 繁殖力はお強いけれど、品位というものが欠けている」
その声音は鈴を転がすように軽やかだが、含まれる温度は氷点下だった。
彼女が扇を閉じる音が、パチンと冷たく響き渡る。枯れた枝を切り落とす鋏の音に、それはとてもよく似ていた。
「伸び過ぎた枝葉は、剪定が必要。ですが根が深ければ深い程、引き抜くのには骨が折れます。表面の葉を払うだけでは、またすぐに生えて来てしまいますもの」
獲物を狙う猛禽類のような瞳が三日月の如く細められ、唇には歪な笑みが浮かび上がる。
それは庭園の美観を守る為ならば、不要な存在を容赦無く切り捨てる。『管理者』としての冷徹な意志だった。
「貴女には根元の土を少々、『掘り返して』頂きたいのです。若芽が揺らげば、その下に隠れている親株の根も、自ずと露わになるでしょう?」
凍て付くような響きを内包する謳声に、背筋が震える。夫人の言葉は極めて婉曲的だが、それの意味するところは明白だった。
夫人は、私がセシリアを排除する事で、その母親であるマルケス侯爵夫人の足元を崩したいのだ。
娘の不祥事は、親の監督責任。セシリアが失脚すれば、母親の権威も、自ずと地に落ちる。
「そうすれば、あとはわたくしがこの手で、綺麗に『整える』事が出来ます。真に陛下の御心を支える者は、影のように寄り添い、決して出しゃばらぬもの。
……かつて、わたくしがそうであったように」
奪われた席を取り戻すのではない。荒らされた庭を、あるべき姿に戻すだけ。夫人の瞳が『貴女を利用しますよ』と、雄弁に語っていた。
(…なるほど。そういう理由なら、むしろ大歓迎よ)
でもそれは私にとっても、決して悪い話では無かった。互いの利害が完全に一致した、老練な政治的取引だったから。
「承知致しました。雑草の根が露わになるよう、及ばずながら土を耕させて頂きます」
「ええ、期待しておりますわ。良い庭造りを致しましょうね?」
善意だけの無償の支援程、恐ろしいモノなんて存在しない。彼女が掲げるその信念は、倫理から外れた独善に過ぎないけれど。だからこそ信頼出来る。
その誇り高さと冷徹さには、いっそ頼もしさすら、感じられるから。
(利用されるだけの『駒』で終わるつもりなんて勿論無いけど。共通の敵を討つ為の連携なら、拒む理由なんて無い)
もしかしたら夫人は、ずっと探していたのかもしれない。今や王家の支柱とも云えるマルケス侯爵家。その堅牢な地盤に亀裂を入れ、外側から圧力を加える事が出来る。強力な『駒』を。
聖女の威光を恐れず、泥を被る事も厭わない。そんな都合の良い存在など、そうそう現れるものでは無い。
だが彼女は運良く見付けたのだ。記憶を失い、怖いもの知らずとなった、『私』を──。




