第八話 (後)
休憩も程々に残った仕分け作業を進めていき、ようやっと最後のファイルが見終わった。私の手元のノートには文字が隙間無く埋め尽くされており、残りのページも、片手で数えられるくらいだった。
「……ねぇジェームズ、これを見て貰える?」
抜いた資料をファイルに戻していたジェームズは動きを止めて、私の手元を覗き込む。そこには分類毎に集計された悪意の、1ヶ月毎の推移が描かれていた。
「私が公爵邸へ来てから、王妃陛下のお茶会に参加するまでの期間は、『個人攻撃』と『悪口』に集中しているわ。
でもその後。特にお父様の仕事を手伝うようになってからは、『公爵家全体への攻撃』が多くなっているの。しかもその対比には、必ず聖女様の名が使われている」
集計用紙では無く、今度は悪意の要約を人差し指で示す。そこには『聖女』という単語が、何度も繰り返し書かれていた。それを一瞥し、ジェームズは静かに眉を顰める。
「私が『聖女』という単語に深いトラウマを抱えている事は、お茶会の参加者なら誰もが知っている筈よ。なら考えられる可能性は、恐らく一つだけ」
「…極めて個人的な怨恨、或いは嫉妬の類とも取れますね」
「そういう事。でも無視は出来ないわ。噂の広がり方が不自然なんだもの」
たとえ悪意ある噂でも、稚拙なモノなら無視して構わない。けれど今回問題となっている噂は、広まる時期が、あまりにも効率的過ぎるのだ。
私がお茶会に参加した直後は『個人攻撃』を行い、社交界で流れる好意的な声を掻き消している。
公爵の仕事を手伝った直後は『公爵家全体への攻撃』を行い、政界全体への抑止力にまで成っている。
これを放置するのは今後の動きを鑑みても、愚策としか言い様が無い。
「明確な意志を持った組織的な犯行である事に、間違いは無いと思う。先導者はきっと、それなりに高い地位の人間。でなければ、ここまで噂は大きく広まらないわ」
噂の流れた場所は、ほとんどが聖女派の開いたサロンだった。そして聖女が公務で訪れた貴族の屋敷も、発生地点として数多く存在している。
これだけの証拠が揃っているのだから、相手は必然と絞られてくる。
「…でも待って。だとしたら…黒幕は王妃陛下? ううん、多分…その可能性は一番低いわ。だって、あの人は……」
「…………」
思い返すのは、小説の中のワンシーン。王宮で迷子になった聖女エレンディラが、カトリーヌ王妃と悪役令嬢イザベラの妃教育を目撃する話だ。
その話の中で、王妃はイザベラへ向けてこう言ったのだ。『聖女様も結構ですが、生まれというものは変えられませんからね。貴女には王家に嫁ぐ者としての、本当の気品を身につけて頂かなくては』と。
「確かに王妃陛下は反公爵派の筆頭よ。でも同時に、血筋と格式を何よりも重んじる御方。だから平民出身の聖女様の事を、決して快くは思っていない筈。
そんな人が聖女様の名を語って、こんな稚拙で直接的な嫌がらせを主導すると思う? 私は、絶対にしないと思う」
王妃は常に、大局を見ている為政者だ。彼女が本当に動いているのなら、もっと巧妙で逃げ場の無い、政治的な罠を仕掛けてくる。お茶会で私へ投げ付けた質問以上の、とんでもない爆弾を用意するに違いないから。
「…お嬢様は、随分と王妃陛下を高く評価していらっしゃるのですね。あの侮辱にも等しい仕儀を、お忘れになったわけではありませんよね?」
「勿論忘れてなんか無いわ。でもカトリーヌ王妃以上の為政者なんて、そうそう居るものでも無し。
彼女がこの国のトップでいてくれるのなら、それこそ安心出来ると思わない?」
「…………」
ジェームズは怪訝そうな顔をしているが、仕事の出来る女性は素晴らしいと私は思う。そこに敵味方の分別は無い。生きる時代に関係無く、自然と憧れてしまうのだ。
そして今はそんな王妃の傍に、聖女は存在している。次の国母と、成る為に。
(頑張ってエレンディラちゃん。私は公爵邸の隅で、貴女の事を心の底から応援しているわ…)
小さく両手を合わせ、そっと祈りを捧げる。妃教育は、生半可な覚悟で挑めるものでは無いのだ。いくら王子への愛が天元突破していても、泣き言は数え切れないくらい出てくる筈なのだ。
だからどうか、強く生きて欲しい。私の愛する主人公。
「王妃陛下が主導していないのなら、犯人はきっと聖女派の人間ね。それなりに高い地位であり、より狡猾な…。うぅ〜ん…そんな人、居たかしら……?」
「…………」
眉間に指先を乗せて記憶の奥底を検索してみるが、該当するような人物は思い当たらなかった。
社交には積極的に参加しているつもりだけど、考えてみたら聖女派の集まりに関しては、これまでずっとノータッチだったのだ。道理で何も出て来ない筈である。
「ダメ、無理、情報が足りなさ過ぎる。聖女派の人間となんて、全然交流してないもの。
やっぱり夜会に参加するしか無さそうね。……そっちは何か見つかった?」
「一週間後、王家の遠縁に当たる伯爵家の主催する夜会がございます。マルケス侯爵家も後援に名を連ねており、ご息女であるセシリア様が参加される可能性は極めて高いかと」
なんとベストなタイミングなのだろうか。これ以上無い程の好条件である。それにセシリアは王妃とのお茶会で、親子揃って私に恥をかかされたのだ。無駄にプライドの高い彼女の事だから、きっと今でも根に持っているに違いない。
もし聖女派が噂を流す為の『実行役』を求めるとしたら、逆恨みに燃えるセシリア以上の適任なんていない。むしろ自分からその役を買って出ても、なんら不思議では無い。
だって彼女は、本物のイザベラさえも裏切った。狡賢い女だから。
「セシリア様が参加するのなら、行く価値は充分ね。その夜会に出席しましょう」
「畏まりました。恐らくですが、最近セシリア様が熱心にアプローチを重ねているという人物も、参加されると思われます」
それはなんとも面白い話である。顔面だけでフィリップ王子至上主義を貫いていたあの女に気に入られてしまうなんて、とんでもない悲劇だ。可哀想に。
「あらあら、それはまた難儀な事で…。お相手はどんな方なの?」
「聖騎士団の副団長、クリストファー・アークライト様です」
「──ゴフッ!」
「お嬢様!?」
聞き覚えのある名を耳にした瞬間。口に含んだばかりの紅茶が、堪え切れず霧のように細かく飛び散った。しかもご丁寧に、気管にまで入り込んで。
「げほっ、ごほっ…! い、今、なんて…っ?」
「無用な発言はお控え下さい! 状況の確認は、呼吸が落ち着かれてからで充分です!」
突然の異常事態に困惑するジェームズが、即座に純白のハンカチを差し出し、私の背中を優しくさする。その心配そうな手つきを有り難く思いながらも。私の意識は今、全く別の方角を向いてしまっていた。
ついさっき耳にしたばかりの、『クリストファー・アークライト』という人物に。
クリストファー・アークライト。
彼は『光の聖女と五人の騎士』に登場する、所謂サブヒーローの一人である。侯爵家の嫡男であり、若くして聖騎士団の副団長を任される。貴族の女性達にとって、最も注目すべき人物。
そしてなんと彼は私にとって、二番目の推しなのだ。
脳裏に蘇るのは。聖女を守る為、常に一歩後ろに控え、あらゆる悪意から彼女を護り抜いた、騎士としての優美な姿だった。艶やかな外ハネの黒髪と強い意志を感じさせる金色の瞳を持つ彼は、まさに聖女を庇護する揺るぎない盾であった。
(ヤバい…、これは非常にマズイ……! もしクリストファー様が目の前に現れたりなんかしたら、私…絶対に何も喋れなくなる……!!)
しかも彼は他のヒーロー達とは違い、単純な聖女の盲信者というわけでは無かった。
あれは忘れもしない。王宮のエントランスホールに設置されている正面階段で起きた、とある事件。聖女が階段を降りようとした時に、突然イザベラと、セシリア含む名も無き取り巻き令嬢達が現れたのだ。
そして令嬢の一人が暴走し、聖女の背中を突き飛ばしてしまい、階段から転げ落とさせてしまったのである。
この出来事は、イザベラにとっても完全に予想外だったらしく、彼女は令嬢に向かって激昂したのだ。『一歩間違えれば命に関わるわ! なんて事をしてくれたの!』と。
それを見て唖然とする聖女の元へ、やはりお約束として王子は駆け付ける。そしてこの時だけは、何故かクリストファーも一緒だった。
王子は当然のように倒れた聖女を抱き起こし、イザベラへ向けて罵声を浴びせる。しかしクリストファーの対応は、王子とは全然違っていた。『お待ち下さい殿下。リリエンタール嬢の顔色は、尋常で無い程に蒼白。ここは事の真意を問うべきです』と進言し、イザベラの元へ駆け寄ってくれたのだ。
厳しい視線を向けながらも、いつだってクリストファーは、イザベラを守るべき民の一人として、公平に接してくれていたのだ。その実直さが、私は大好きだった。
(あのシーンは本当に痺れたわ…。冷静な分析力。的確な洞察力。周囲に流されず、自分の目で見た物だけを信じようとする揺るぎない姿勢。悪役令嬢であるイザベラにさえ最低限の情けを掛ける、確固たる騎士道精神。
……うん、やっぱり今思い返しても、フィリップ王子とは格が違うわ。最高。推せる)
噎せる呼吸を必死に整えつつも、完全に自分の世界に入り込んでしまった私は、ソファの上で激しく悶えていた。推しの勇姿を思うだけで、ご飯三杯分の栄養が余裕で賄えてしまうから。
(……でも、ちょっと待って。今の私は、あの頃のイザベラじゃないわ。聖女への悪行を全て被った、大罪人のイザベラよ。と、いう事は…、つまり……?)
あの全ての人間に公平であろうとしたクリストファーから、軽蔑の眼差しを向けられる可能性が非常に高いという事に他ならなくて。氷のように冷たい辛辣な言葉が、美しい彼の口から吐き出されるかもしれなくて。
それに思い至った瞬間、私の背筋に甘い電流が走り抜けた。
「え、なにそれ、ご褒美じゃん。絶対見たい」
意図せず、恍惚の呟きが溢れてしまった。油断した。すぐ近くにジェームズがいる事すら、意識から抜け落ちていた。完全にやらかした。
「……お嬢様」
「ひゃい!?」
耳元で、絶対零度の声がした。室温が、急激に冷えた気がした。我に返り振り向くと。背をさすってくれていた筈のジェームズが、能面のような顔で私を見下ろしていた。その蒼い瞳の奥に、底知れぬ影を宿して。
「その副団長殿に、何か特別な思い入れでもございましたか?」
「い、いや…! べ、別に何も…、そんな……、な、無いよ?」
向けられる視線があまりにも恐ろし過ぎて、咄嗟に目を逸らしてしまう。慌てて戻したけれど。どうやらダメだったらしい。
返答を聞いた彼は、ふわりと完璧な執事の笑みを浮かべてくれる。だがその瞳は、全然笑ってなんかいなかった。私はジェームズの地雷を、土足で踏み抜いてしまったようである。なんてこった。
「なるほど? 貴女は先程、『ご褒美』という甘美な響きを、幼子のように喜んでいらっしゃると拝察致しましたが。これは一体、どういった意図で?」
「…あ、あのですね、ジェームズさん。こ、これには、その、ちゃんとした理由が──っ!?」
苦しい言い訳を並べようとする私の顎を、彼の白い指先がそっと掴む。鼻先が触れ合いそうな程の至近距離。逃げる事は許されないと、その瞳が雄弁に語っていた。
「夜会の場では、私が貴女の隣に立つ事は許されません。ですが舞踏室の片隅から、私の視線が貴女から外れる事は一瞬たりとも無い事を、重々ご承知おき下さい」
それはもはや忠誠心の発露などでは無かった。自分の役割と立場を理解した上での、冷たい監視の宣告だった。
ちゃんと私が与える仕事もやって欲しいと思うのに、こんな状況では何も言えやしなかった。自業自得と云えば、それまでなんだけど。
「副団長殿は、聖女を崇拝する強固な騎士。下手に興味を示せば、我々の計画に綻びが生じかねません。会話は必要最低限に。…よろしいですね?」
意志を問わぬ、峻厳な命令。それは私の安全を考慮する進言を装いながらも、彼の独占欲を満たす為の明確な釘でしか無かった。
見えない首輪を嵌められているようで、魂が震えた。こんなの、心臓が壊れるくらいに高鳴ってしまう。
(うわあああぁぁ! 嫉妬するジェームズとかレア過ぎてヤバいィィ~~…ッ! 怖いのもカッコイイなんて、最高過ぎるんだよおおおぉぉ~~~ッ!!)
ジェームズは物凄く真剣に私の事を心配してくれているのに。対する私の脳内は、それはそれは残念な事になっていた。
敢えて漫画的な表現をするのであれば、今の私の目の中にはきっと、大きなハートマークが描かれているに違いない。
貴方のそういう所も、私にとって『至高のご褒美』になるのだと。そう伝えたら彼は、どういう反応をしてくれるのだろうか。
見たいような、怖いような。なんとも悩ましい議題である。
「……勿論よジェームズ。貴方を悲しませるような真似は絶対にしないわ。約束する」
散々考えてみたけれど、結局は無難な答えに落ち着くのであった。今の関係性を壊してしまうのは、あまりにも野暮過ぎる。もう少しだけ堪能したい。
私はもっと、色んなジェームズを見てみたいから。
そっと口元に小さな笑みを作り、それを彼へと向ける。するとジェームズも同じように、笑みを返してくれた。
私の大好きな。狂おしい程の執着を孕む、静謐な笑みを。
「貴女の剣と成り得るのは、私だけで充分です。他の誰にも、その役目を譲るつもりはございません。…お忘れなきよう」
背筋を駆け上る甘い悪寒に震えながらも。一週間後の夜会が、色々な意味で波乱に満ちた物になる事を、確信するのだった──。




