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偽りの悪役令嬢は屈しない  作者: さけのきりみ
二章 社交界の蒼い月
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第七話


 穏やかな朝の陽射しが、瞼の裏へと沈み込む。微睡む意識は夢の残滓を留めた心地良さに、一抹の名残惜しさを覚えていた。


 昨夜は色々な事が起こり過ぎて、ほとんど眠れなかった気がする。公爵との口論。ジェームズとの衝突。私の無謀な、出自の暴露。


 二度寝を決めるべく寝返りを打とうとして、ふと、左手に妙な違和感を覚えた。何かが私の手を引いている。微かに紅茶の匂いもする。そしてすぐ傍に感じる、温かな気配。


「………?」


 開けた視界の先でまず見えたのは、柔らかな暖かい毛布。次にベッドの傍らで何故か眠っている、専属執事のジェームズ。美しい銀の睫毛は陶器のような白い頬に、静かな影を落としていた。


(……え、ジェームズ?)


 ジェームズは、私と手を繋いだ状態で眠っていた。しかも互いの指と指を絡める恋人繋ぎで。


 これは幻覚だ。何の成果も無しに推しの寝顔を拝めるだなんて、そんな都合の良い現実は、絶対に有り得ない。恐らく私の脳は、まだ覚醒してはいないのだ。

 …うん、きっとそうに違い無い。


 重い瞼をもう一度閉じる。霞む意識を鮮明にしたくて、手の甲で軽く何度も擦る。再び瞼を開けば、数秒前と変わらぬ姿で眠る私の愛する推しがいた。

 …幻覚じゃ無かった。なんてこった。


「……ジェームズがいる」


 状況が飲み込めないまま掠れた声でその名を呼ぶ。すると待ち兼ねていたと云わんばかりに、彼の瞳が開かれた。


「おはようございます、お嬢様。…いいえ、私の愛しい人」


 鮮やかな深い蒼が蕩けるように優しく細められ、唇に柔らかな感触を落とされる。それは小鳥が木の実を啄むような、とても優しいキスだった。


「!?」


 昨夜の私が彼に仕掛けた、喧嘩腰のキスとは全く違う。純粋な愛情だけで満たされたそれに、私の思考は一瞬にして爆発した。


「な、ななななっ、なんっ、な……、ナァッ!?」


 人は未知に遭遇すると、言葉を喋れなくなる生き物らしい。あのジェームズが私に『おはようのキス』をしてくれるだなんて、全然全くこれっぽっちも予想していなかったから。


「昨夜はあまりお休みになれていないご様子でしたので、貴女が目覚めるまでお傍に控えると決めておりました」

「……起こしてくれて良かったのに…!」


 彼は悪戯っぽく微笑むと、寝起きで乱れまくっている私の髪を、優雅な仕草で梳いていく。白い手袋越しに伝わる体温が、私の心を更に掻き乱していた。


(…ムリ…、推しの背に後光が差してる…。…眩しい…、溶ける……)


 手のひらで顔の半分を覆い隠し、浅い呼吸を繰り返す。猛攻を仕掛ける彼から逃げるように、そっと瞼を閉じた。


 一体前世の私は、どれ程の徳を積んだのだろうか。こんなのは知らない。予定に無い。確かに昨夜の私は彼に、『好きな時に好きな事をすれば良い』と。そう伝えたけれど。


 それがまさか一夜明けただけで、こんなにも甘い展開が待っているだなんて思わなかった。推しの寝顔を拝めただけでも卒倒モノなのに。その後に続くモーニングコール、更にはおはようのキスまで貰ってしまった。


 こんな大盤振る舞い、命が幾つ有っても足りる気がしない。


「貴女の寝顔を独り占め出来るとは思いませんでした。役得というものは、存外身近にあるものなんですね」

「…そんなに良いモノじゃないよぉ~。もし私がよだれとか垂らしてたらどうするの? 百年の恋だって冷めちゃうかもしれないのに!」

「よだれ、ですか。ふむ…、そうですね。そんな貴女も、きっと愛らしいと思いますよ。試してみられますか?」

「流石にそこは引いて! 全肯定過ぎるのも逆にツライ…!!」


 考え込むような仕草をしたと思ったら、物凄く真面目な回答を頂いてしまった。今そんな答えは求めてない!


 布団の奥深くに潜り込み、羞恥に燃える顔を必死に隠す。そんな私を見たジェームズは喉を低く揺らし、それはそれは楽しそうに笑っているようだった。

 …なんか悔しい。


「………(チラッ」


 布団の隙間から顔を出し、潜みながら彼を見る。ジェームズの顔は、それはもうニッコニコだった。普段の無表情なんてどこにも無かった。私が憧れた完璧な執事の仮面の下に、こんなにも無垢な面差しが秘められていたなんて知らなかった。


 小説を読むだけでは知り得なかった。本物のイザベラにさえ見せる事は無かった。これが彼の、本当の素顔なのだ。


(…ジェームズって、恋人相手にはこんなにも甘くなるんだ…。知らなかったなぁ…)


 彼が登場するシーンを全て暗記している身としては、現在の彼はその齟齬そごが凄まじい。決して悪い意味では無い。むしろ良過ぎるのが大問題。毎日が新発見で、このままでは私の身が持ちそうに無いから。


 でも。


「良かった。ジェームズが元気になって」

「………」


 布団から抜け出して、そっと身体を起こす。毛布をマントのようにパタパタとさせながら、彼の表情を窺ってみる。


 もう流石にニコニコはしていないけれど。昨夜見た、今にも壊れてしまいそうな危うい影は、綺麗サッパリ無くなっているようだった。


 私達の関係は昨夜を境に、明らかに良い方向へ変わったのだ。それがとても、私は嬉しい。


「遅くなっちゃったけど、おはようジェームズ。いっぱい寝かせてくれてありがとう。今は何時かな?」

「午前9時を過ぎた所です。朝食の準備は、既に出来ております」

「うわぁ、私ってばそんなに寝てたんだ…。連勤明けの振替休日でもそんな寝ないのに。ベッドの寝心地が良過ぎたのね。だってフカフカなんだもの」


 これは元の世界に帰ったら、きっと大変だ。こんなにも上等な寝具を経験してしまったら、とてもじゃないけど安物の煎餅布団で快眠出来る自信が無い。

 空腹を感じるお腹が、小さく鳴った。


「うぅ…、意識したらお腹が……。ご飯食べたいですジェームズさん」

「かしこまりました。部屋までお持ちしますので、着替えは食事の後に致しましょう」


 彼はいつもの表情で、いつも通りの洗練された所作で一礼し、私の願いを聞き入れる。失いたくないと願った幸せな日々は、確かに私の元へ戻って来てくれたのだ。





 朝食を終え身支度を済ませた私の元へ、ジェームズは公爵からの伝言を伝えに来てくれた。


「公爵様より伝言を賜っております。『昨夜は考えがまとまらず、取り乱してしまい申し訳無かった。今日は一日、心穏やかに屋敷で過ごして欲しい』との事です」

「……そう、お父様が」


 公爵のトラウマを無遠慮に抉ったのは私の方なのに。こんな時でも彼は、良い父親の顔をする。どうせ偽物なのだからと、見限ったりなんてしない。この屋敷に住む人間は揃いも揃って、余所者の私に甘過ぎる。


(この気遣いは、素直に受け取るべきよね。無理に反発して公爵との関係を悪化させるのは、望ましくないもの…)


 でも貴重な一日を、無駄に消化するつもりは無い。むしろ好都合だ。他人の目を気にせず、自由に動ける時間が出来たのだから。


「分かった。今日の社交は全部キャンセルにする。部屋でゆっくり過ごすわ」

「賢明なご判断です」

「…だからジェームズ。私のお願い、聞いてくれる?」


 私は読書用のソファに深く腰掛け、彼の瞳を真っ直ぐに見据える。言葉をより強調する為に。射抜くように目を細め、視線を合わせた。


「これまで私に、『イザベラ・フォン・リリエンタール』に向けられていた、悪意をまとめた資料が欲しいの。どんな些細な内容でも構わない。なんなら前に貰った脅迫状も持って来て。

 敵を知らなければ、対策を打つ事だって出来ないでしょ?」

「…………」


 その瞬間。ジェームズの指先が動きを停止し、表情に暗い影が差す。彼が今何を考えているのかは、ちゃんと理解しているつもりだ。これまで私へ向けられていた悪意は、全部彼が、処理してくれていたから。


「そしてもう一つ。こっちの方が、さっきのよりも重要よ。

 聖女派が主催する夜会で、私が参加出来そうなモノを探して欲しい。水面下で動く為の、足掛かりになる筈だから」

「………お嬢様」


 そっと囁かれた低声に、身体が勝手に恐怖を覚える。昨夜見せられた仄暗い感情の片鱗が、その瞳に宿るのが分かったから。


「……っ」


 でも今は彼の忠告を、「はい、そうですか」と聞いてあげるわけにはいかないのだ。与えてくる威圧感に思わず息を呑み込むけれど、絶対に視線だけは逸らさない。続く二の句を封じるべく、彼よりも先に口を開いた。


「そんな顔しないで。私は貴方が思う程、弱くも脆くも無いわ」

「ですが聖女派の夜会に参加するなど、あまりにも危険です。悪意の渦中へ飛び込むおつもりでしたら、私は──」

「だからこそ私は貴方を頼るの。私が正面から敵陣へ乗り込めば、必ず相手は隙を見せる。

 私がどんな敵と向き合う必要があるのかを、他ならぬ『貴方』の目と耳で、確かめて欲しいから」

「…………っ…」


 ジェームズは深淵を映す瞳を歪にゆがめ、苦々しく言葉を詰まらせる。


 夜会はお茶会やサロンとは違って、唯一会場内に使用人を待機させる事が許されている。参加者の邪魔にならず、かつ会場の全体を見渡せる位置に。


 貴族達は、皆ダンスと社交をメインに楽しむけれど。使用人であるジェームズ達の役割は、それとは大きく異なっている。


 監視と護衛は勿論の事、裏方のサポートも完璧でなければならない。主人が飲み物を必要とする素振りを見せれば、近くの侍従に目配せをして、適切な飲み物を運ばせる。主人が疲れた態度を見せれば、休憩出来るテラスへ向かうよう、そっと合図を送る事もある。


 だからこそ私へ向けられている悪意に、ジェームズは誰よりも先に気付く事が出来る。けど未然に防ぐ事までは、残念ながら許されていない。あくまでも彼は『使用人』として、事後処理の権限しか持ち合わせていないのだ。


(流石に公爵令嬢を殺そうとする人間は出て来ないと思うけど。怪しい人間が私に近付こうとして、それを事前に止められないのは…、まぁ辛いよね。うん……)


 それでも私は、敢えてこの身を危険に晒してでも、彼にやって貰いたい事がある。


 それは彼の『執事』という立場を利用した、他貴族の使用人達との情報交換。表の会話では絶対に出て来ないであろう、裏の情報を収集する絶好の機会でもあるから。


「もし私が道を踏み外しそうになったら。その時は私を、貴方の思う通りにしてくれて良い。そのくらいの覚悟は、決めているつもりよ」


 そっとソファから立ち上がり。彼の硬く握り締められた拳を、両手のひらで優しく包み込む。驚きに染まる蒼い瞳に、揺るぎない覚悟を映す為に。


「……だからお願い、ジェームズ」

「…………」


 その瞳に浮かぶのは、やはり深い葛藤だった。彼は私の意志の強さと、それがもたらす危うさを、誰よりも正しく理解してくれている。だからこそ、迷っているのだ。


 私の意志を尊重し、共に戦場へ赴くか。

 私の意志を黙殺し、屋敷に囲い込むか。


「………畏まりました。我が主の、仰せのままに」


 時間を掛けて吐き出されたその声は、背筋が凍る程に冷えていた。彼は私へ向けて恭しく頭を下げるが、それが単なる執事の了承で無い事は、目に見えて明らかだった。


「ありがとうジェームズ。貴方は私にとって、最高のパートナーよ」


 告げられたその言葉には、私の自由を奪う脅迫が含まれていた。でも私だって今更それに、怯むつもりは無い。彼が抱える執着の根源が崇高で尊い事は、この世界の誰よりも、理解しているつもりだから。


 引き締めていた表情を緩めて、彼にそっと笑みを向ける。今後共に戦場へ赴く事になる忠実な執事を、労う為に。


「貴女の望むもの全てを、ご用意致します。…では、御前を少々失礼」


 顔を上げた彼の表情に、もう迷いは無かった。私はそんな彼に深く頷いてから、書き物机へと歩みを進める。時間は常に過ぎている。一刻足りとも、無駄には出来ない。


 引き出しから小綺麗な便箋と封筒を取り上げ、インクの染みた硝子ペンを手に持った。


『親愛なるレーニエ様へ


先日のお茶会では、心温まる時間をありがとうございました。

お約束しておりました通り、是非近い内に貴女のお屋敷へ伺いたいと思っております。

もしよろしければ、来週あたりでご都合の良い日をいくつか教えて頂けますかしら?


貴女とまたゆっくりお話出来る日を、楽しみにしておりますわ。


イザベラ・フォン・リリエンタールより』


 ディープブルーのインクが真っ白い紙面を彩り、小さな文字の端を意図せず太くする。この世界へ来てから、筆記はずっと硝子ペンを使っているけれど、まだ全然慣れてくれる様子は無い。


(…掠れてないだけマシ…かな。ちゃんと読めるし、多分…大丈夫よね……?)


 私の字は、あまり綺麗な方では無い。元の世界では細めのボールペンを愛用していて、万年筆や硝子ペンなんて上等な筆記具は、一度も使った事が無かった。


 もっと色々試しておけば良かった。後悔先に立たずという言葉の重みを、身を持って経験する事になるとは思わなかった。


 レーニエはこの世界で出来た、私にとって初めての親友。そんな彼女の書く文字は、とても丸くて愛らしいのだ。一目で女の子と分かる、可愛い文字。


(私も一度で良いから、綺麗な字が書いてみたいわ…。流石にもう手遅れだけど……)


 噂の出所を探るには、令嬢達の会話に勝る情報源は無い。その為にも、まずは味方との連携を密にする必要がある。


「…どこの誰だか知らないけど。逃さないわよ、絶対に」


 偽物の私を、無条件で庇護する公爵とジェームズを哀しませた。その罪は重い。生温い謝罪如きで、許すつもりは微塵も無い。


 ペンを置き、窓の外に広がる青空を見上げる。トレーに乗せていた紅茶が揺れて、水面に小さな波紋を作り出す。蒸気が私の頬を撫でるように浮かび上がり、そのままゆっくりと姿を消した ──。



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