第五話
※ 作品情報に『ヤンデレ』タグを追加しました。苦手な方はご注意下さい。
薄暗い長い廊下を、重い足取りで歩く。磨き上げられた大理石の床に、無力な影が映り込む。外の景色は光を失い、濃密な闇夜に沈んでいた。
(やっちゃった……)
この感情を、言葉で表すのは難しかった。過去の亡霊を振り払う事なんて、きっと誰にも出来やしない。
けれど、せめてもっと、時間を置くべきだったのだ。公爵が私を諭してくれた時に、気付かなければいけなかったのに。
(私…、公爵様のトラウマを…思い出させちゃった……)
公爵の慟哭する姿が、脳裏に焼き付いてしまって離れない。
酷い事を言ってしまった。私があの場で溢れさせてしまった言葉達は、公爵の好意を素手で握り潰す暴力でしか無かった。それを承知の上で私は、あの人を追い詰めてしまった。迂闊だった。
「………っ…」
逃げるように瞼を伏せて、両腕で頭を抱え込む。公爵邸で共に生活をするからには、遅かれ早かれこういう事態は起きていただろうけれど。そう簡単に割り切れるものでは、やはり無かった。深い後悔が、胸の奥に募ってしまう。
(私、ジェームズに…なんて報告したら、良いんだろう……)
今の私に必要なのは、その先の対応である事は間違い無くて。これからは特に、慎重に動かなければいけなくて。
だからこそ私はあの完璧な執事に、どう報告したら良いのか分からなかったのである。
※
自室の扉を、ゆっくりと開ける。すると部屋の中には、明かりも付けずに窓辺で佇む一つの人影があった。
(ジェームズ……)
淡い月の光を浴びて銀色に輝くその姿に、自然と安堵のため息を吐く。すると彼は、物憂げな眼差しのままこちらを振り向いた。
「おかえりなさいませお嬢様。公爵様とのお話は、いかがでしたか?」
「………」
彼の声には、隠し切れない程の緊張が滲んでいるようだった。きっと彼は、私が公爵と何を話していたのか、その全てを察している。そして私が無茶な計画を推し進めようとしている事実を、誰よりも心配しているのだと思う。
だからこそ私は彼に、全てを打ち明ける事にした。
「…お父様に、止められてしまったの」
作り笑いすら浮かべる事も出来ず、掠れた声で事実を告げる。悔しさに唇を噛み締めてみれば、口の中で鉄の味がした。
「私に関する悪質な噂も、辺境伯領の件も。今後はお父様が、解決して下さるんですって。だから私は…このお屋敷で、心穏やかに、過ごしていれば…良い、って…」
身を襲う苦しみを吐き出すように、言葉を紡いでいく。するとジェームズの表情は、緊張の糸が解けたみたいに、目に見えて和らいだ。
「左様でございますか。公爵様は、賢明なご判断を成されましたね。貴女はこれ以上、危険な渦中へ身を投じる必要はございません。どうか、ご安心を」
「……安心、ですって? そんな事、出来るわけないじゃない!」
彼の安堵が、私の焦燥心を逆撫でる。深淵に沈んでいた筈の激情が、沸々と煮え滾るのを感じる。
信頼していたジェームズまで私の自由を奪おうとしているのが、心の底から許せなかったから。
「このままじゃ何も変わらないわ! 噂が消えた所で、根源を絶たなければ同じ事の繰り返しよ!
辺境伯領で苦しんでいる民はどうするの!? それを黙って見過ごすなんて、私には──!」
「今後それらは全て公爵様が成されるのです。貴女自らが表舞台へ、立つ必要など無い」
私の言葉を遮るその声は、氷のように冷たかった。声量に変化はないけれど、絶対的な排斥の意志が含まれていた。
もしかしたら彼の瞳に映る私は、傷付きやすい子兎のような姿をしているのかもしれない。けれど私の心はそんな簡単に崩れる程、脆くも柔くも無い筈だ。
「ジェームズ! 貴方は──!」
あの時の約束を忘れたのか、と。そう問おうとして、言葉を詰まらせた。
思わず息を呑み、目を見開いてしまう。あんなにも穏やかな表情を浮かべていた彼の顔から、全ての感情が消え失せてしまっていたから。
「………っ…!?」
底無しの闇を湛えた鋭い瞳が、私を真っ直ぐに射抜いていた。ただ獲物を定める獣のように、獰猛な光を宿して。
「…お嬢様。いいえ、イザベラ様。私の、ただ一人の主」
「……っ。……ジェー、ムズ?」
彼は譫言のように何かを呟きながら、ゆっくりと此方へ歩み寄る。逃げ場の無い部屋の中で、私の身体を、黒い影が覆い尽くす。
トン、と重たい音が聞こえて、心臓が恐怖に跳ね上がった。いわゆる壁ドンという状況だけれど、少女漫画のように甘い空気感なんて此処には皆無だった。
見上げた彼の瞳の奥に、本来在るべき筈の色が、全然認識出来なかったから。
「貴女は、ご自分の価値を理解なさっていない。貴女が危険な場所へ身を置く事で、私がどれほど心を乱すか。お分かりでない」
「……っ…!」
湿った吐息が肌に掛かる。彼は耳元で静かに囁き、壊れ物を扱うように私の頬をそっと撫でる。その感触は優しいものである筈なのに、冷たい鎖と寸分違わぬ程の重圧が、この身を苛んでいた。
「貴女がどれほど聡明で強くあろうとも、悪意という物は常に人の隙を突いて来ます。以前のお嬢様もそうでした。私がお傍にいながら、お守りする事が…出来なかった…」
深淵を彷彿とさせる瞳から、一筋の雫が頬を伝う。それは本物のイザベラへ向けた贖罪であり、私に対する切実な祈りでもあった。
「私はもう二度と、主を失う恐怖を味わいたくは無い。貴女を失うくらいなら、私が用意する安全な場所で、ただ美しく、咲いていて欲しいんです。
この部屋が、貴女の世界。私の存在が、貴女の全て。それが私の、ただ一つの望みです」
「……ッ!!?」
いっそ清々しさすら覚えてしまいそうだった。こんなにもおぞましい愛の告白が存在するなど、信じたくなんか無かった。
彼が抱えるその想いは、剥き出しの独占欲と狂気さえ孕む執着。私を薄暗い檻に閉じ込め管理しようとする、あまりにも身勝手で独善的な感情だった。
「ジェームズ…っ、私は…貴方の所有物じゃないわッ!」
「いいえ、貴女は私のものです」
背中に冷たい壁の感触が伝わり、恐怖で足が竦み出す。温度を失った白い指先が顎を捕え、無理やりにでも視線を合わせられる。
彼の奥底に棲む情念が。凍て付くような欲求が。私の魂を、侵そうとしていた。
「貴女の全ては私のものだ。その髪も、瞳も、心臓の音さえも。誰にも渡さない。それがたとえ公爵様であろうとも、自由にさせるつもりなど無い」
「……ぃ、………っ!」
掴まれた頬が痛かった。こんなのはもう、忠実な執事の言葉なんかじゃなかった。たった一人に固執する、ただの獣の狂言だった。
でも反論しようにも、今の彼の姿はあまりにも怖くて、身体が震えて、声だって全然、出て来てくれない。
私はこのまま檻の中で、愛玩されるだけの存在に成り下がってしまうのだろうか。でも誰かに全てを委ねる生活は、存外居心地が良いのかもしれない。テラリウムに押し込められた観葉植物のように。何も考えず、静かに生きられたなら…どんなに……。
(違う)
彼が望む人形になってしまえば、きっと大好きなこの人に、ずっとお世話して貰える。何不自由無く暮らせるし、心穏やかな毎日が約束されている。嗚呼、それはなんて楽で。
──いっそ虫唾が走る程に空虚で惨めな生き方なのだろうか。
(そんなのは『私』じゃないわ。だってそこに、私の意志は無いんだもの)
そんな生活、死んでもお断りだった。だって私は、この身体を借りているだけの、魂を定着させているだけの、ただの異世界人なのだ。
そんなのは嫌だ。私が私である唯一を、他でも無い彼に否定されるなんて。そんなのは絶対に嫌だった。
ジェームズは壊れ物を包むように、私の身体をそっと引き寄せる。彼の胸に耳が当たり、規則正しい心臓の音が聞こえてくる。
それは私が生きている事を精一杯確かめようとする、力強い、魂の悲鳴だった。
「お嬢様、お慕いしております…」
「…っ……!」
身を蕩かすような声が聞こえた。白手袋で覆われた大きな手のひらが、私の髪を優しく梳いていた。本来温かい筈のそれは、凍えるくらい、冷えていた。
嫌な事に気付いてしまった。出来る事なら、死ぬまで気付きたくなんか無かった。でも一度気付いてしまったからには、知らなかった頃になんて、戻れない。
(ジェームズが愛していたのは……、心から…想っていたのは…)
本物の悪役令嬢──イザベラ・フォン・リリエンタール。
ただ一人だけだったんだ。
「……っ…、っっ……」
こんなにも自分が惨めに思えたのは生まれて初めてだった。きつく閉じた瞼の裏からは、どんどん涙が溢れていた。愛される資格が無い事くらい、最初から分かっていた。でも、それでも。
貴方がくれたあの言葉だけは、最後まで信じていたかったから。
(ジェームズのバカ…。バカバカ、バカ執事! 独りで抱え込むなって言ってくれたのは、貴方の方なのに!!)
人の気持ちなんて、そんなすぐには動かない。私がジェームズと出会ってから、まだ一年も経っていない。だからそんな彼が私へ向けて、こんなにも重い恋情を抱くなんて、普通に考えたら有り得ない事なのだ。
私は、悪役令嬢では無い。
でも私は、悪役令嬢の替え玉として、この公爵邸へやってきた。
それなら私は私の意志で、貴方の気持ちを、振り向かせてみせる!
「その手を退けなさい、ジェームズ!」
恐怖を押し殺し、酷く傲慢な声でその名を叫ぶ。囲う腕を振り払うように、その胸を強く叩く。すると彼は驚き目を見開いて、私の瞳を覗き込む。闇色の瞳の奥に、怯え震えながらも、決して屈しない私の姿が映っていた。
「貴方がイザベラ様を失って、深い傷を負った事は理解しているわ! けど私は、イザベラ様じゃない! 貴方に守られるだけの、弱い人形でも無い!!」
震える両手を必死に伸ばし、彼の両頬を鷲掴む。今私の目の前には、最愛の推しがいる。深い悲しみと咎を背負った、可愛い迷子がいる。
躊躇している時間は無かった。これが私の初めてである事なんて、関係無かった。だって理性を失った獣を従えるには、荒療法が一番効果的なんだから!
「覚悟してジェームズ! これが私の気持ちよ!!」
そして私は彼の唇に、噛み付くような、キスをした。
「…ッ!?」
歯が当たって凄く痛かった。こんなのが私のファーストキスなんて、信じたくなかった。色気なんて皆無なのに、一生の思い出として今後ずっと私の中に残ってしまうのだ。本当に酷い人。
でも大丈夫。私はそんな貴方も大好きだから!
睨む様に直視すると、狼狽えるその身体が大きく揺れ動く。逃げを打とうとする背中へ、あの日のようにしがみついた。
絶対に逃がしてなんかやらない。私をここまで追い詰めておいて、逃げるだなんて許さない。このどうしようも無い程の心の距離を、今この場で、完全に、詰めてやるんだから!
「『私』は貴方を独りになんて絶対にさせない。だから貴方も『私』の事を、独りぼっちにさせようとしないで!」
「……お嬢…様…っ?」
「違う! 私は貴方のお嬢様なんかじゃない! いい加減目を覚ましなさいよこのバカ執事!!」
「………っ…」
「良い? よく聞いて。表立って動く事が出来ないのなら、水面下で動けば良いの。公爵様から隠れて動く事にはなるけど、それでも今の私には貴方の力が…。
いいえ、他でもない『貴方』が! 私には必要なの! だから貴方が私の剣になって! 貴方が私の盾になって! お願いよ! ジェームズ!!」
私が決死の思いで捻り出した告白は、彼の心の最も柔らかな部分に、無事届いてくれたようだった。
「………………」
仄暗い瞳からは狂気の炎が消え去って、代わりに濃い苦悩と痛切な悔恨が浮上する。
彼は深く、そして長い息を吐いてから。私を閉じ込めていた腕を、ゆっくりと下ろしてくれた。
「……貴女には、敵いませんね」
力無く呟かれたその声に、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。気持ちが届いて良かった。頑張って良かった。そんな充足感が、私の意識を占めていた。
しかし。
「……?」
身体が半回転し、今度は背後から抱き締められてしまった。どうやら彼はまだ私の事を、解放してはくれないらしい。
「…いや、あの…、ジェームズさん? 私の話…ちゃんと聞いてた?」
「ええ、勿論です。一言一句記憶しておりますよ。貴女からの熱烈な口付けも頂けまして、大変光栄に思います」
ジェームズは私の後ろ髪を優雅な手付きで掬い取り、聖遺物にでも触れるかのように先端へ唇を寄せる。その姿は紛う事無く、私が愛する完璧な執事だった。
「…………」
でも、なんだろうか。この気持ちは。私の方がスゴい事をした筈なのに、所作があまりにも美し過ぎて、どうにも負けた気分になってしまった。すごく悔しい。
「貴女が以前のお嬢様では無い事など、お連れした私が一番理解しております。だからこそ貴女の望み通り、私は今後貴女の剣となり、盾にもなりましょう。…ただし、これだけはお約束頂きたい」
再び私を見下ろすその瞳は、もう狂気には染まっていなかった。代わりに全てを凍て付かせるような、絶対零度の決意が込められていた。
「貴女の身に、髪の毛一本でも傷が付くような事があれば。あるいは私の知らない場所で、危険に遭ったと知れば」
彼の声は愛を囁くように甘く、それでいて刃の如く鋭かった。
「その時は私が、誰にも見つけられない鳥籠をご用意致します。私が鍵をかけ、貴女の美しい翼をもぎ取り、二度と飛べないようにして差し上げます。……よろしいですよね?」
それは究極の選択を装った、悪辣な脅迫だった。
私は背筋を駆け上る畏怖に震えながらも、蒼い瞳を真っ直ぐに見据え、深く頷く事で己の覚悟を示す。今は彼の抱える恐ろしい思惑が保留になった事だけでも、僥倖であると云えるから。
「ええ、約束するわ。……でもそれは、貴方の気持ち次第よ」
「…と、申されますと?」
「私は貴方の愛するお嬢様なんかじゃない、って事。鳥籠に入れた所で、所詮ただの紛い物。
頭の良い貴方なら、そのくらい分かるでしょ?」
だからさっさと自分の気持ちを整理して、今の私をちゃんと見て欲しい。そんな打算的な事を考えながら、その顔を見上げてみる。けれど彼は訝しげに、瞳を細めるだけだった。
「…私がお慕いしているのは貴女です。以前のお嬢様ではありません」
その言葉がそのままの意味なら、とても嬉しいと思う。けど今はまだ彼の言葉を、そのまま受け取るわけにはいかなかった。だって私達はお互いの事を、何も知らないままだから。
「ねぇ、ジェームズ」
私は彼の腕の中から抜け出して、一歩下がって蒼い瞳を覗き込む。交わった筈のその視線は、此処では無い別の場所を見つめているみたいに、不思議と合わなかった。
「この後、もう少しだけ…良い? 大事な話があるの」
ジェームズの気持ちが分からない。感情が読めない。でもそれはきっと、彼だって同じ筈だから──。




