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偽りの悪役令嬢は屈しない  作者: さけのきりみ
二章 社交界の蒼い月
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第五話

※ 作品情報に『ヤンデレ』タグを追加しました。苦手な方はご注意下さい。


 薄暗い長い廊下を、重い足取りで歩く。磨き上げられた大理石の床に、無力な影が映り込む。外の景色は光を失い、濃密な闇夜に沈んでいた。


(やっちゃった……)


 この感情を、言葉で表すのは難しかった。過去の亡霊を振り払う事なんて、きっと誰にも出来やしない。


 けれど、せめてもっと、時間を置くべきだったのだ。公爵が私を諭してくれた時に、気付かなければいけなかったのに。


(私…、公爵様のトラウマを…思い出させちゃった……)


 公爵の慟哭どうこくする姿が、脳裏に焼き付いてしまって離れない。


 酷い事を言ってしまった。私があの場で溢れさせてしまった言葉達は、公爵の好意を素手で握り潰す暴力でしか無かった。それを承知の上で私は、あの人を追い詰めてしまった。迂闊だった。


「………っ…」


 逃げるように瞼を伏せて、両腕で頭を抱え込む。公爵邸で共に生活をするからには、遅かれ早かれこういう事態は起きていただろうけれど。そう簡単に割り切れるものでは、やはり無かった。深い後悔が、胸の奥に募ってしまう。


(私、ジェームズに…なんて報告したら、良いんだろう……)


 今の私に必要なのは、その先の対応である事は間違い無くて。これからは特に、慎重に動かなければいけなくて。


 だからこそ私はあの完璧な執事に、どう報告したら良いのか分からなかったのである。





 自室の扉を、ゆっくりと開ける。すると部屋の中には、明かりも付けずに窓辺で佇む一つの人影があった。


(ジェームズ……)


 淡い月の光を浴びて銀色に輝くその姿に、自然と安堵のため息を吐く。すると彼は、物憂げな眼差しのままこちらを振り向いた。


「おかえりなさいませお嬢様。公爵様とのお話は、いかがでしたか?」

「………」


 彼の声には、隠し切れない程の緊張が滲んでいるようだった。きっと彼は、私が公爵と何を話していたのか、その全てを察している。そして私が無茶な計画を推し進めようとしている事実を、誰よりも心配しているのだと思う。


 だからこそ私は彼に、全てを打ち明ける事にした。


「…お父様に、止められてしまったの」


 作り笑いすら浮かべる事も出来ず、掠れた声で事実を告げる。悔しさに唇を噛み締めてみれば、口の中で鉄の味がした。


「私に関する悪質な噂も、辺境伯領の件も。今後はお父様が、解決して下さるんですって。だから私は…このお屋敷で、心穏やかに、過ごしていれば…良い、って…」


 身を襲う苦しみを吐き出すように、言葉を紡いでいく。するとジェームズの表情は、緊張の糸が解けたみたいに、目に見えて和らいだ。


「左様でございますか。公爵様は、賢明なご判断を成されましたね。貴女はこれ以上、危険な渦中へ身を投じる必要はございません。どうか、ご安心を」

「……安心、ですって? そんな事、出来るわけないじゃない!」


 彼の安堵が、私の焦燥心を逆撫でる。深淵に沈んでいた筈の激情が、沸々と煮え滾るのを感じる。


 信頼していたジェームズまで私の自由を奪おうとしているのが、心の底から許せなかったから。


「このままじゃ何も変わらないわ! 噂が消えた所で、根源を絶たなければ同じ事の繰り返しよ!

 辺境伯領で苦しんでいる民はどうするの!? それを黙って見過ごすなんて、私には──!」

「今後それらは全て公爵様が成されるのです。貴女自らが表舞台へ、立つ必要など無い」


 私の言葉を遮るその声は、氷のように冷たかった。声量に変化はないけれど、絶対的な排斥はいせきの意志が含まれていた。


 もしかしたら彼の瞳に映る私は、傷付きやすい子兎のような姿をしているのかもしれない。けれど私の心はそんな簡単に崩れる程、脆くも柔くも無い筈だ。


「ジェームズ! 貴方は──!」


 あの時の約束を忘れたのか、と。そう問おうとして、言葉を詰まらせた。


 思わず息を呑み、目を見開いてしまう。あんなにも穏やかな表情を浮かべていた彼の顔から、全ての感情が消え失せてしまっていたから。


「………っ…!?」


 底無しの闇を湛えた鋭い瞳が、私を真っ直ぐに射抜いていた。ただ獲物を定める獣のように、獰猛な光を宿して。


「…お嬢様。いいえ、イザベラ様。私の、ただ一人の主」

「……っ。……ジェー、ムズ?」


 彼は譫言うわごとのように何かを呟きながら、ゆっくりと此方へ歩み寄る。逃げ場の無い部屋の中で、私の身体を、黒い影が覆い尽くす。


 トン、と重たい音が聞こえて、心臓が恐怖に跳ね上がった。いわゆる壁ドンという状況だけれど、少女漫画のように甘い空気感なんて此処には皆無だった。


 見上げた彼の瞳の奥に、本来在るべき筈の色が、全然認識出来なかったから。


「貴女は、ご自分の価値を理解なさっていない。貴女が危険な場所へ身を置く事で、私がどれほど心を乱すか。お分かりでない」

「……っ…!」


 湿った吐息が肌に掛かる。彼は耳元で静かに囁き、壊れ物を扱うように私の頬をそっと撫でる。その感触は優しいものである筈なのに、冷たい鎖と寸分違わぬ程の重圧が、この身を苛んでいた。


「貴女がどれほど聡明で強くあろうとも、悪意という物は常に人の隙を突いて来ます。以前のお嬢様もそうでした。私がお傍にいながら、お守りする事が…出来なかった…」


 深淵を彷彿とさせる瞳から、一筋の雫が頬を伝う。それは本物のイザベラへ向けた贖罪であり、私に対する切実な祈りでもあった。


「私はもう二度と、主を失う恐怖を味わいたくは無い。貴女を失うくらいなら、私が用意する安全な場所で、ただ美しく、咲いていて欲しいんです。

 この部屋が、貴女の世界。私の存在が、貴女の全て。それが私の、ただ一つの望みです」

「……ッ!!?」


 いっそ清々しさすら覚えてしまいそうだった。こんなにもおぞましい愛の告白が存在するなど、信じたくなんか無かった。


 彼が抱えるその想いは、剥き出しの独占欲と狂気さえ孕む執着。私を薄暗い檻に閉じ込め管理しようとする、あまりにも身勝手で独善的な感情だった。


「ジェームズ…っ、私は…貴方の所有物じゃないわッ!」

「いいえ、貴女は私のものです」


 背中に冷たい壁の感触が伝わり、恐怖で足が竦み出す。温度を失った白い指先が顎を捕え、無理やりにでも視線を合わせられる。


 彼の奥底に棲む情念が。凍て付くような欲求が。私の魂を、侵そうとしていた。


「貴女の全ては私のものだ。その髪も、瞳も、心臓の音さえも。誰にも渡さない。それがたとえ公爵様であろうとも、自由にさせるつもりなど無い」

「……ぃ、………っ!」


 掴まれた頬が痛かった。こんなのはもう、忠実な執事の言葉なんかじゃなかった。たった一人に固執する、ただの獣の狂言だった。


 でも反論しようにも、今の彼の姿はあまりにも怖くて、身体が震えて、声だって全然、出て来てくれない。


 私はこのまま檻の中で、愛玩されるだけの存在に成り下がってしまうのだろうか。でも誰かに全てを委ねる生活は、存外居心地が良いのかもしれない。テラリウムに押し込められた観葉植物のように。何も考えず、静かに生きられたなら…どんなに……。


(違う)


 彼が望む人形になってしまえば、きっと大好きなこの人に、ずっとお世話して貰える。何不自由無く暮らせるし、心穏やかな毎日が約束されている。嗚呼、それはなんて楽で。


 ──いっそ虫唾が走る程に空虚で惨めな生き方なのだろうか。


(そんなのは『私』じゃないわ。だってそこに、私の意志は無いんだもの)


 そんな生活、死んでもお断りだった。だって私は、この身体を借りているだけの、魂を定着させているだけの、ただの異世界人なのだ。


 そんなのは嫌だ。私が私である唯一を、他でも無い彼に否定されるなんて。そんなのは絶対に嫌だった。


 ジェームズは壊れ物を包むように、私の身体をそっと引き寄せる。彼の胸に耳が当たり、規則正しい心臓の音が聞こえてくる。


 それは私が生きている事を精一杯確かめようとする、力強い、魂の悲鳴だった。


「お嬢様、お慕いしております…」

「…っ……!」


 身を蕩かすような声が聞こえた。白手袋で覆われた大きな手のひらが、私の髪を優しく梳いていた。本来温かい筈のそれは、凍えるくらい、冷えていた。


 嫌な事に気付いてしまった。出来る事なら、死ぬまで気付きたくなんか無かった。でも一度気付いてしまったからには、知らなかった頃になんて、戻れない。


(ジェームズが愛していたのは……、心から…想っていたのは…)


 本物の悪役令嬢──イザベラ・フォン・リリエンタール。

 ただ一人だけだったんだ。


「……っ…、っっ……」


 こんなにも自分が惨めに思えたのは生まれて初めてだった。きつく閉じた瞼の裏からは、どんどん涙が溢れていた。愛される資格が無い事くらい、最初から分かっていた。でも、それでも。


 貴方がくれたあの言葉だけは、最後まで信じていたかったから。


(ジェームズのバカ…。バカバカ、バカ執事! 独りで抱え込むなって言ってくれたのは、貴方の方なのに!!)


 人の気持ちなんて、そんなすぐには動かない。私がジェームズと出会ってから、まだ一年も経っていない。だからそんな彼が私へ向けて、こんなにも重い恋情を抱くなんて、普通に考えたら有り得ない事なのだ。


 私は、悪役令嬢では無い。

 でも私は、悪役令嬢の替え玉として、この公爵邸へやってきた。


 それなら私は私の意志で、貴方の気持ちを、振り向かせてみせる!


「その手を退けなさい、ジェームズ!」


 恐怖を押し殺し、酷く傲慢な声でその名を叫ぶ。囲う腕を振り払うように、その胸を強く叩く。すると彼は驚き目を見開いて、私の瞳を覗き込む。闇色の瞳の奥に、怯え震えながらも、決して屈しない私の姿が映っていた。


「貴方がイザベラ様を失って、深い傷を負った事は理解しているわ! けど私は、イザベラ様じゃない! 貴方に守られるだけの、弱い人形でも無い!!」


 震える両手を必死に伸ばし、彼の両頬を鷲掴む。今私の目の前には、最愛の推しがいる。深い悲しみと咎を背負った、可愛い迷子がいる。


 躊躇している時間は無かった。これが私の初めてである事なんて、関係無かった。だって理性を失った獣を従えるには、荒療法が一番効果的なんだから!


「覚悟してジェームズ! これが私の気持ちよ!!」


 そして私は彼の唇に、噛み付くような、キスをした。


「…ッ!?」


 歯が当たって凄く痛かった。こんなのが私のファーストキスなんて、信じたくなかった。色気なんて皆無なのに、一生の思い出として今後ずっと私の中に残ってしまうのだ。本当に酷い人。


 でも大丈夫。私はそんな貴方も大好きだから!


 睨む様に直視すると、狼狽えるその身体が大きく揺れ動く。逃げを打とうとする背中へ、あの日のようにしがみついた。


 絶対に逃がしてなんかやらない。私をここまで追い詰めておいて、逃げるだなんて許さない。このどうしようも無い程の心の距離を、今この場で、完全に、詰めてやるんだから!


「『私』は貴方を独りになんて絶対にさせない。だから貴方も『私』の事を、独りぼっちにさせようとしないで!」

「……お嬢…様…っ?」

「違う! 私は貴方のお嬢様なんかじゃない! いい加減目を覚ましなさいよこのバカ執事!!」

「………っ…」

「良い? よく聞いて。表立って動く事が出来ないのなら、水面下で動けば良いの。公爵様から隠れて動く事にはなるけど、それでも今の私には貴方の力が…。

 いいえ、他でもない『貴方』が! 私には必要なの! だから貴方が私の剣になって! 貴方が私の盾になって! お願いよ! ジェームズ!!」


 私が決死の思いで捻り出した告白は、彼の心の最も柔らかな部分に、無事届いてくれたようだった。


「………………」


 仄暗い瞳からは狂気の炎が消え去って、代わりに濃い苦悩と痛切な悔恨が浮上する。


 彼は深く、そして長い息を吐いてから。私を閉じ込めていた腕を、ゆっくりと下ろしてくれた。


「……貴女には、敵いませんね」


 力無く呟かれたその声に、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。気持ちが届いて良かった。頑張って良かった。そんな充足感が、私の意識を占めていた。


 しかし。


「……?」


 身体が半回転し、今度は背後から抱き締められてしまった。どうやら彼はまだ私の事を、解放してはくれないらしい。


「…いや、あの…、ジェームズさん? 私の話…ちゃんと聞いてた?」

「ええ、勿論です。一言一句記憶しておりますよ。貴女からの熱烈な口付けも頂けまして、大変光栄に思います」


 ジェームズは私の後ろ髪を優雅な手付きで掬い取り、聖遺物にでも触れるかのように先端へ唇を寄せる。その姿は紛う事無く、私が愛する完璧な執事だった。


「…………」


 でも、なんだろうか。この気持ちは。私の方がスゴい事をした筈なのに、所作があまりにも美し過ぎて、どうにも負けた気分になってしまった。すごく悔しい。


「貴女が以前のお嬢様では無い事など、お連れした私が一番理解しております。だからこそ貴女の望み通り、私は今後貴女の剣となり、盾にもなりましょう。…ただし、これだけはお約束頂きたい」


 再び私を見下ろすその瞳は、もう狂気には染まっていなかった。代わりに全てを凍て付かせるような、絶対零度の決意が込められていた。


「貴女の身に、髪の毛一本でも傷が付くような事があれば。あるいは私の知らない場所で、危険に遭ったと知れば」


 彼の声は愛を囁くように甘く、それでいて刃の如く鋭かった。


「その時は私が、誰にも見つけられない鳥籠をご用意致します。私が鍵をかけ、貴女の美しい翼をもぎ取り、二度と飛べないようにして差し上げます。……よろしいですよね?」


 それは究極の選択を装った、悪辣あくらつな脅迫だった。


 私は背筋を駆け上る畏怖に震えながらも、蒼い瞳を真っ直ぐに見据え、深く頷く事で己の覚悟を示す。今は彼の抱える恐ろしい思惑が保留になった事だけでも、僥倖ぎょうこうであると云えるから。


「ええ、約束するわ。……でもそれは、貴方の気持ち次第よ」

「…と、申されますと?」

「私は貴方の愛するお嬢様なんかじゃない、って事。鳥籠に入れた所で、所詮ただの紛い物。

 頭の良い貴方なら、そのくらい分かるでしょ?」


 だからさっさと自分の気持ちを整理して、今の私をちゃんと見て欲しい。そんな打算的な事を考えながら、その顔を見上げてみる。けれど彼は訝しげに、瞳を細めるだけだった。


「…私がお慕いしているのは貴女です。以前のお嬢様ではありません」


 その言葉がそのままの意味なら、とても嬉しいと思う。けど今はまだ彼の言葉を、そのまま受け取るわけにはいかなかった。だって私達はお互いの事を、何も知らないままだから。


「ねぇ、ジェームズ」


 私は彼の腕の中から抜け出して、一歩下がって蒼い瞳を覗き込む。交わった筈のその視線は、此処では無い別の場所を見つめているみたいに、不思議と合わなかった。


「この後、もう少しだけ…良い? 大事な話があるの」


 ジェームズの気持ちが分からない。感情が読めない。でもそれはきっと、彼だって同じ筈だから──。




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