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第一話

「はーい! 今すぐ起きまーす!!」


 私は精一杯の明るい声で叫ぶと、急いで寝間着のワンピースから動きやすい仕事着へと着替える。鏡の中の少女――エリアーナは、やはりまだ少しぎこちないながらも希望に満ちた笑みを浮かべていた。


(う~ん、それにしても全然上手く笑え無いなぁ…。いくらイザベラのそっくりさんとはいえ、もうちょっとこう、村娘っぽい(?)無邪気な感じが出せないものかしらねぇ~)


 憑依する前はそれこそ一社会人として、初対面の相手にも好印象を与えるべく常に笑顔でいる生活を心掛けていた。それが要因でよく仕事を押し付けられてはいたが、特に後悔はしていない。大好きな小説を毎日読める幸せさえあれば、どんな過酷な状況にだって耐えられたから。


(そうだ! 折角この世界に来れたんだから、せめて光の聖女――エレンディラちゃんの姿は拝見してみたいわよね~。えっと、確か物語が終わりを迎えたら王子と~……)


 思考を巡らせながら階下まで降りると、ふくよかで人の良さそうな女性が額に汗を浮かべながら生地をこねていた。恐らく彼女が、この身体の持ち主の母親だろう。


「おはようお母さん。あの、寝坊しちゃってごめんなさい…」

「おはよう寝坊助のエリアーナ。なぁにしょぼくれてんだい? らしくないねぇ~。

 さ、窯の準備はもう出来てるから、アンタは焼き上がったパンを順番に運んでおくれ! 開店まで時間は待ってくれないよ!」

「はい!!」


 威勢のいい声に背中を押されるように動き出すと、バターの甘い香りが鼻腔をくすぐった。視界いっぱいに広がる、こんがりと狐色に焼けたパンの山。こんなの見ているだけで幸せな気分になってしまう。


 ぐぅぅぅ~~~。


「あ…」

「ははっ、随分とイイ音が鳴ったねぇ。どれ、たまには焼き立てを一つ、食べてみるかい?」

「わ~い! ありがとうお母さん! いっただっきま~す!!」


 気取らない会話と温かなやり取り。そして口の中いっぱいに広がる小麦の芳ばしさ。その一つ一つが、私の心を満たしていく。社会の歯車としてではなく、一人の人間として生きる実感。なんて優しい世界なんだろう。ストレスフルな現代社会とは何もかもが違う。


 もぐもぐと幸せを噛み締めながら、焼き上がったパンを運んでいく。膨らんだパンが底の浅いカゴに並んでいるのを見ているだけで、またもお腹が鳴ってしまいそうだった。


(美味しい…。こんな毎日が、ずっと続けば良いなぁ~)


 気付けば戸惑いの感情はすっかり消えていた。店を開ければ常連客が笑顔でパンを求めていく。ただのお金と商品のやり取りで、こんなにも温かな気持ちになるのは久しぶりだった。この平穏がずっと続けば良い。心からそう願っていた。


 けれど、この穏やかな世界が壊されるのは一瞬だった。


「ん…? なんか、ちょっと外が賑やか?」


 昼を少し過ぎた頃、店の外が急に騒がしくなる。何事かと顔を上げると、村の子供達が店の窓に張り付き街道を指差しはしゃいでいた。


「…まさ、か」


 心臓が警鐘のように鳴り響く。ガタガタという車輪の音が耳に届く。それは村を行き交う荷馬車とは明らかに違う、重々しく、そして格調高い響きで。

 やがて店の前に現れたのは、磨き上げられた漆黒の車体に、豪華な金色の装飾が施された一台の馬車。その扉には、剣と盾を交差させた荘厳な紋章が刻まれている。


(この紋章…って、確かリリエンタール公爵家の…!)


 小説の挿絵で見た記憶が蘇り、全身の血の気が引いていく。なぜ、こんな辺鄙な村のパン屋に。公爵家の馬車が。


「……おお!」


 馬車の扉が開き、一人の青年が降り立つ。上質な執事服は鍛え抜かれたであろう彼の身体の線を拾い、白銀の髪と鋭い蒼の瞳が厳しいだけではない知性を感じさせる。彼は周囲の喧騒など意に介さず、まっすぐ私を見下ろすと、その場で深々と跪いた。


「イザベラお嬢様。ようやくお会い出来ました。さあ、お屋敷へお戻りください。公爵様が心からお待ちかねでございます」


 丁寧な言葉遣いとは裏腹に、有無を言わせぬ強い意志を感じさせる声。そして私は彼の事を、とても良く知っていた。なぜなら彼は、悪役令嬢イザベラに生涯を捧げた、忠実なる専属執事だから。


(ジェームズ……!)


 彼は小説の中でも、特に好きだったキャラクターの一人である。わがままなイザベラに振り回されながらも、常に彼女の味方であり続けた彼の姿は、まさしく理想の紳士。その推しが、今、私の、目の前にいる。

 その事実に感動するべき場面なのだろうが、生憎今の私にとって彼は、恐怖の対象でしかなかった。


(なんでジェームズがこんな所にいるの!? 確か今は、行方不明のお嬢様を探してる真っ最中よね!!?)


 何も疚しい事なんてしていないのに、身体が勝手に震え上がってしまう。足は鉛のように重く、一歩動く事さえ出来そうに無い。そんな私の姿を見かねたお母さんは、庇うように前へ出てくれた。


「この娘はエリアーナだよ。私が産んだ、たった一人の娘。公爵家とは何の関係も無い」

「戯言を。そのような些事、お屋敷に戻ればすぐにでも消せます。重要なのは、お嬢様がご無事であったという事実のみ」

「…そんな!?」


 話が通じない。この人は『イザベラ様を見つける』という目的を達成する為なら、きっと手段を選ばない。もしここで私が抵抗してしまったら、お母さんは…。そんな恐怖が、私の心を支配していた。


「…わかりました」

「エリアーナ!?」


 お母さんの悲痛な叫びを背に、私は覚悟を決める。差し出された執事の手を拒む事なんて出来ない。だって私が拒めばきっと、後ろに控える屈強な騎士達が、お母さんを物理的に『説得』してしまうから。


(…ごめんねエリアーナ、貴方の幸せな日常を壊しちゃって。でも、これで貴方のお母さんは無事だから)


 幸せになると決意したばかりの、手にしたばかりの平穏な日常が、音を立て崩れ落ちていく。悔しさと理不尽さに涙が滲みそうになるけれど、唇をグッと噛み締め堪えた。泣いた所で状況は変わらない。社会人として培ってきた経験と知識が、そう私に告げていたから。


「その代わり条件があるの。もちろん聞き入れてくれるわよね?」

「なんなりと、お嬢様のお望みのままに」


 連れて行くというのなら、どこへでも連れていけば良い。

 でも私だって、このままエリアーナの人生を腐らせる気なんて更々無い。


 私は毅然として顔を上げ、目の前の執事を見据えた。


「"私"の人生はもう誰にも決めさせないと、そうお父様にお伝え下さい。王家との関係も、私自身の処遇も、全て"私"が決めます。……この意味、わかりますよね?」

「……なるほど。承知いたしました。その件も含め、お屋敷でじっくりとお話を」

「それなら、良いの。早く連れてって」

「かしこまりました」


 荘厳な馬車は、まるで私を待ちわびていたかのように静かにドアを開ける。その先に待っているのはきっと、悪役令嬢イザベラ・フォン・リリエンタールとしての日常。偽りの令嬢としての過酷な世界だ。


「親孝行、全然出来なくてごめんなさい。どうか、お母さんも元気で…ね?」

「エリアーナ……」


 涙を引っ込めて、私は別れの挨拶代わりに"お母さん"の身体を抱きしめる。こうして平穏なパン屋の娘としての日常は、半日足らずで終わりを迎えたのだった──。

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