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偽りの悪役令嬢は屈しない  作者: さけのきりみ
二章 社交界の蒼い月
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第四話


 時刻は午後6時を過ぎた頃。今日も無事に社交を終えた私は、もはや日課と成りつつある父の書斎を訪れていた。


 傾いた陽射しは古い羊皮紙とインクの匂いで満ちた室内を濃い橙色へと染め上げており、私と父──オルリック公爵の背中に暗く長い影を落としていた。


「──以上が、ワルツ子爵から提供されたドゥルカン帝国南部の海路です。公式の海図には載っていない、彼の一族だけに伝わる秘密の経路ですわ」

「ほう…、これは見事なものだな」


 父は銀縁眼鏡の奥にある鋭利な瞳を細め、私が指し示した航路を凝視する。


 この情報は先日行われたワルツ子爵との会談で引き出した、秘匿性の高いものだった。どうやら子爵は私の事を、優れた相談相手として一目置いてくれているらしい。


 彼には年頃の息子がいて、これを期に公爵家と強固な縁を結びたいという魂胆が見え見えなのだが、そこは一応念を入れてキッパリとお断りしておいた。替え玉の私に、そういった事を期待されても困るのである。


「この航路を利用すれば、帝国の監視が手薄な港へ直接物資を運ぶ事が出来ます。文化交流協会への『寄贈品』という名目で羊毛を送る際、大いに役立てる筈です」

「ああ、違いない。帝国の織物組合からも好意的な返事が来ている。お前の発案のお陰で、膠着こうちゃく状態だった帝国との関係に風穴が開きそうだ。

 ……全く、まさか自分の娘にここまで助けられる日が来るとは、私もそろそろ家督の継承を考える頃合いかもしれんな」


 私が宰相の補佐として頭角を現すにつれ、公爵家の権威は目に見えて回復していった。社交界での私の評価も、『悲劇の令嬢』から『宰相閣下の若き参謀』へと変わりつつある。


 親子としてだけでは無い、己の仕事を信頼して任せられるパートナーとしての絆が、私と公爵の間に芽生えつつあった。


「お父様のお役に立てて私も嬉しいです。ですが、そのように悲しい事は…無闇におっしゃらないで下さい。私はまだまだお父様から、学びたい事がたくさん有りますわ」

「…これはお前自身の成果だ。もっと誇るが良い」


 父は感心するように頷きながら、傍らのティーカップへ手を伸ばす。その厳格な横顔には、国を動かす宰相としての揺るぎない信念が満ち溢れていた。


 私一人が出来る事なんて、そんなに多くは無いけれど。私を守ってくれる人達の力になっているのなら、これ以上なんて無い。手放しで功績を認めて貰えるのは、やはりとても嬉しかった。


「ありがとうございますお父様。…それに、それだけではありませんわ。この航路には、もう一つの懸念事項にも利用出来るんです」

「…ヴァルトシュタイン辺境伯領の事か?」

「ええ、そうです。こちらをご覧下さい」


 広げられた地図の一点。王国の東側に位置する辺境伯領を、私は指差した。


「聖女様が動かれぬ以上、風土病に苦しむ民を救うのは我々公爵家の責務です。ですが王都から陸路で大々的に支援部隊を送れば、必ず反公爵派の人間から妨害を受けます」

「…下手をすれば、反逆の意として見なされかねんな」

「ですが、この秘密の航路を使えば話は別です。ワルツ子爵の船で海を渡り、隣国経由で密かに支援物資を送り込む。

 そうすれば我々が動いている事を、悟られる心配はありませんわ」


 それはあまりにも大胆で、危険な計画だった。しかし父は私の言葉を一笑する事無く、真剣な面持ちで実現の可能性を吟味している。彼はもう、私をただの娘として見ていない。対等な共謀者として、策の是非を問うていた。


 ヴァルトシュタイン辺境伯領の件を父に相談したのは、ほんの数日前の事だった。父は私の話に、始めは目を丸くし驚いていたが、すぐに事の重要性を理解してくれたのだ。


 こんなにも傑出けっしゅつした人物が自分の父親である事に、私は深く感謝した。そして己の果たすべき役割を、改めて実感した。


「見事な策だ。この方法であれば、王妃だけでなく聖女も、恐らく手出しは出来まい」

「でしたら──!」

「……だが、今は動くべき時では無い」

「え……?」


 重々しく発せられた父の言葉を、私はすぐに理解する事が出来なかった。そんな私を、父はとても静かな、けれど有無を言わせぬ眼光で諭す。


 その鋭利な双眸は、幾多の政争を乗り越えてきた、一国の宰相としての揺るぎない権威を示していた。


「そんな…、どうしてですの!? 民は今この瞬間にも、病に苦しんでいるというのに!」


 思わず声を荒げてしまう。民を救う大義。聖女派に一矢報いたいという名声への渇望。その両方が、私の心を焦らせていたから。


「イザベラ、お前の民を思う気持ちは本物だ。だがお前のその気持ちを、利用しようと考えている連中がいる。

 ……近頃、聖女派が流している悪質な噂を、お前は知っているか?」

「噂……?」


 社交界の噂など、聞き流すようにしていた。たとえその内容が真実であったとしても、『今の私』には関係の無い事だと、そう考えていた。


 けれど父がわざわざ口にするからには、ただ事では無いのだろう。


「聖女様の慈悲深き御業みわざこそが真の国際貢献。金勘定に明け暮れる公爵家の行いは浅ましい。と」

「まあ、随分な言い様ですわね。ですが言葉だけで止められると思っているのなら、甘く見られたものですわ」


 大袈裟に肩を竦めてみせるが、父は憂いを帯びた瞳で私を見据えている。


 どうやら聖女エレンディラとその取り巻き達は、私の事を警戒し始めているらしい。恐らく私の存在が聖女にとって、脅威に成り得ると判断したのだろう。むしろ望む所だ。


「それだけでは無い。お前が記憶を失ったのを良い事に、老いた父親を誑かし、宰相の権力を我が物にしようとしている。とまで言われているのだ。

 奴らの狙いは、私では無い。イザベラ、…お前だ」


 それは私の存在そのものを否定する、あまりにも卑劣な中傷だった。父は私が傷付く事を案じ、悔しそうに拳を握り締めている。私はこの人の本当の娘では無いけれど、娘を持つ父親の切実な思いが、痛い程伝わって来るようだった。


 だが。


「面白いですわねお父様」

「…なんだと?」


 私の心を占めたのは、底知れぬ悲哀でも、ましてや、抑え難い激情でも無かった。冷えた氷のような闘志の炎が、静かに燃え上がるのを感じていた。


 だからこそ、私は気付けなかった。公爵が今、どんな瞳で私を見ていたのかを。


「そうまでして彼らは、私を公の場から引き摺り降ろしたいのですわね。だとしたらその噂の裏側には、彼らが知られたくない『何か』が隠されているに違い有りません」

「…………っ」


 そう。云わばこれは好機なのだ。敵は私を恐れるあまり、自らその正体を明かそうとしている。この千載一遇のチャンスを、絶対に逃してはならないのだ。


「敵の懐にこそ勝機はあります。その為にも私は今後、社交の場を活動の拠点とし、主体的に動いてまいります。そして噂を流している張本人を、必ずや探し出して──」

「ならん!!」

「──!?」

「それだけは、断じて許さん!!!」


 机を叩かんばかりの強声に、思わず息を呑む。私が熱意を込めて語った反撃の策に対し、父はこれまでに一度も見せた事が無い程の険しい表情で、それを否定する。


 彼のその瞳には、宰相としての冷静さを超えた、深い苦悩と恐怖の色が浮かんでいた。


 けれどここで尻込みしていては、前に進む事など出来やしない。私は決死の思いでもう一度、父の瞳を直視した。


「ですがお父様! これ以上の好機などありません! 敵陣の真ん中へ挑んでこそ勝機が──」

「その結果イザベラがどうなったか忘れたのか!!」

「………ッ!」


 私の断固たる言葉は、公爵の悲痛な叫びによって遮られてしまった。


 彼の脳裏に蘇っているのは、『今の私』では無い。かつて同じように敵の渦中へ飛び込み破滅した、『本物の娘』の姿だった。


「あの子も今のお前と同じように、己の力を過信し、敵の策に嵌められたのだ…! 私がもっと、あの子を強く止めていれば…あんな事には…ッ。

 私はもう二度と娘を…、イザベラを失いたくは無い!!」

「…おとう…さ、ま……」


 強く握り締めていた拳は力を失い、重力に従って膝へと落ちる。次の言葉を紡ぐ思考さえ、凍えた鎖に縛られる。


 こんなのはもう、為政者の言葉では無かった。愛する娘を失った父親の、魂の慟哭どうこくだった。


「…頼む、せめてお前だけは…危ない真似をしないでくれっ。悪質な噂など、私が必ず鎮火させてみせる。辺境伯領の件も、私が取り仕切る。

 だからそれまでお前は…この屋敷に、安全な場所で…心穏やかに、過ごしてくれ…! 頼む…イザベラ──ッ!」


 それはこの国の頂点に立つ男が見せる、初めての涙だった。縋るように弱々しい声を吐き出しながらも、公爵は震える両手で私の肩を掴み引き寄せ、己の腕に掻き抱く。


 こんな姿を見せられてしまったら、もう何も言えなくなってしまう。彼自身が抱えるトラウマをこれ以上抉り、苦しめるなんて事、私には、出来ない。


「……………」


 不可視の障壁が、私と公爵の間にそびえ立つ。その壁は如何なる刃も通さぬ、鉄壁の守りにも似た威圧感を放っていた。


「…申し訳ありませんでした、お父様。もう…危険な事は、いたしません」


 私の言葉に、公爵は心の底から安堵するように力を抜き、威厳を欠いた溜息を吐き出した。


 しかし私の心は重い鉛を抱えるように、底知れぬ虚無の淵へと沈殿する。


 公爵の愛は、私を守る強固な盾でありながらも、戦う為の鋭利な矛をも封じてしまう、優しい檻でもあったから──。



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