第十四話 終
公爵邸へ到着すると、まるで自分の家のような安心感を覚えた。もうすっかりこのお屋敷が私の帰るべき場所になっていたらしい。
とうに限界を迎えた身体が悲鳴を上げていたので、不本意ながらも私はジェームズに支えられながら馬車を降りる。腰を抱く腕の力強さに感動しながら自室へ向かおうとした、その時だった。
「お嬢様。お疲れのところ大変恐縮ですが、以前お約束した件を覚えていらっしゃいますか?」
「やくそく…?」
気の抜けた声で返事をすると、ジェームズが何故か悪戯っぽい笑みを浮かべて私を見下ろしていた。しかも互いの吐息が触れ合いそうな程の至近距離で。近い。ものすごく近い!
「ええ。貴女が立派な公爵令嬢になられた暁には、この庭を散歩するのも良い。と」
「……ッ!」
彼の言葉に、私はハッと息を呑む。そうだ、確かに私はそんな約束をした。推しとの二人きりの散歩という最大級のご褒美。
決して忘れていたわけでは無い。推しに関する事を忘れるなんて、そんなのはヲタクとして許されない。ただその約束が果たされるのは、もっと先になると思っていたから。
「じきに見頃を迎える。と申し上げた白薔薇が…今、満開でございます」
ヤバい、無理、ツラい、カッコ良過ぎる。好きな人にこんなにも優雅に誘われて断るなんて有り得ないのに、思い通りにならない身体をこれほど恨めしく感じたのは生まれて初めてだ。
「い、行きたい! 行きたいです!! 絶対行きたいので這ってでも着いていきます!!!」
「主の尊厳を地に落とすわけにはまいりません。…ではお嬢様、少々足元を失礼」
「ひぇっ!?」
ジェームズの逞しい腕の中で、私の視界がふわりと揺れる。目に飛び込んでくる映像がスローモーションのようにゆっくり動いているかと思えば、彼は私の膝裏と背中に手を回して軽々と抱き上げてしまった。
「〜〜〜……ッ!!?」
言葉が出なかった。密着したコートの襟元からは微かな石鹸と革の匂いがした。ドレス越しにも彼の体温と鍛えられた筋肉の硬さが否応無しに伝わってきた。耳にかかる彼の熱い吐息で、心臓が今にも張り裂けてしまいそうだった。
「あ、あの…、ジェ、ジェームズ……っ、わ、わた、わたし……!」
「目を閉じていても構いませんよ。このまま庭園までお連れしますので」
聞き間違いか? 今ジェームズが、私を天界へ連れて行くって言ってくれた気がする。私の推しはいつの間に執事から天界の住人にジョブチェンジしたのだ? 確かに今ここで私が天に召されたとしても、推しが連れてってくれるのなら憂いなんて何も無い。むしろ感謝の気持ちしか出て来ないくらいだ。ありがとう天使様。ありがとう世界。
「…………」
いや、ふざけるのはやめよう。
胴を支える逞しい腕から惜しみなく注がれる深い慈しみを感じて、それに甘えるように彼の肩へと手を伸ばす。首筋へそっと顔を埋めてみれば、まるで上質なブランケットに包まれているような安心感を覚えた。
本音を言えばちゃんと自分の足で歩いて、彼にエスコートして貰いたかったけど。確かめるように開いた瞼の先で、彼があまりにも満足そうな顔をしているから。私たちはこれで良いのだと無理やりにでも納得させる。エスコートは次のお楽しみとして、大切に取っておく事にした。
※
昼間の賑わいとは打って変わって、夜の庭園は幻想的な情景に包まれていた。庭園の一角に設けられた白薔薇のアーチ。その純白の花びらが、月灯を受け取り淡く光り輝いていた。
「…素敵。こんなにも綺麗な薔薇を見たのは初めてだわ」
私は庭園中央へ設置されているパビリオンのベンチに降ろしてもらうと、夜風に乗って届けられた甘い香りを胸いっぱいに吸い込んでみせる。すると全身の重みと一日の疲労が霧のように晴れ渡るのを感じた。
柱には白薔薇の蔦が優雅に絡み付いていて、それにそっと指を伸ばす。庭師が優秀なのか、不思議とトゲは一本も見当たらなかった。
「以前のお嬢様は赤や金といった華やかな色を好まれましたが、この白薔薇だけは幼少の頃より大変お気に召しておられました」
彼の伏せられた蒼い瞳が、遠い過去を映し出すかのように微かに揺らぐ。そこには悪役令嬢イザベラへの、静かで深い敬意が込められているようだった。
(やっぱりジェームズにとっての一番は、本物のイザベラなのかなぁ…)
別に悔しいとは思わない。でも、少しだけ妬いてしまうのもまた事実。だってジェームズは私にとっての『推し』であり、それと同時に秘密を共有する協力者でもあるから。
この息を呑むような景色を、きっと彼女も見ていたのだろう。一人で? それとも、ジェームズと?
そんな事を考えていると、ふと彼が私の顔を、じっと見つめている事に気が付いた。
「どうしたの?」
「いえ…。そのドレスの色は、やはり貴女によくお似合いです。夜の庭園に咲く月下美人のように」
私が選んだ静かな蒼。彼の瞳と同じ色。その色を、他ならぬ彼本人が称えてくれる。あまりにも不意打ち過ぎて、やっと落ち着いてくれた筈の心臓がまた暴れ始める。
だってその言葉は、その意味は、『本物のイザベラ』には、似合わないから。
「そ、そう…? ありが、とう…っ…」
紡がれた言葉がまるで『私』自身へ向けられた告白のように感じられて、赤くなった頬を隠したくてそっと薔薇の花へ顔を寄せる。
もう本当に限界だった。だって彼の言葉一つで、私の世界はこんなにも光り輝いて見えるのに。月明かりを背にした蒼い瞳が、確かな熱を帯びて私を捉えている。こんなのもう単なる執事の忠誠心だけじゃない。もっと深く、もっと個人的な感情の。
「どこまでもお供いたします。私の新しい、ただ一人の主…『イザベラ』様」
彼は私の手の甲を優しく包み込み、誓いを立てるように唇を寄せる。いつかの誓いとは比べ物にならない、一途で焼けるような愛を感じた。
こんなにも真っ直ぐな気持ちを向けられて気付けない程、私は鈍くない。白薔薇の甘い香りに包まれながら、私は彼の忠誠を、その奥に隠された熱い想いを。全力で受け止めた。
「ありがとうジェームズ…、大好き……っ!」
離したくないその温もりを、私は両手を伸ばして引き寄せる。彼は驚きすぐに私から距離を取ろうとしたけれど、絶対に逃がしてなんかやるもんか。
「…っ、お嬢様…?」
大きな背中へ腕を回して、駄々をこねる子供のように必死に彼にしがみつく。だってこうでもしないと、泣いているのがバレてしまうから。
ずっと怖かった。たった一人で、この世界に落とされて。
ずっと不安だった。少しでも弱音を吐いてしまったら、独りぼっちになりそうで。
閉じた瞼の裏側から溢れる透明な雫が、一つ、また一つと頬を伝い零れ落ちていく。私はこの世界の人間では無い。他人の身体を無意識に奪う略奪者であり、その器に魂を定着させている人の道を外れた存在。
この世界がどこまで続いているのかは分からない。明日滅んでしまうような世界かもしれない。それはまるで、先の見えない巨大な迷路のよう。
「これからは貴女が抱える不安も、私に共有してください。弱音の一つくらい言うべきです。貴女は、独りでは無いんですから」
「…私、子供じゃないわ。本当は…貴方よりも、もっとずっと年上なのに…」
心臓の音は相変わらずうるさかった。でもこの音を鳴らしているのは、きっと私だけじゃない。彼の真剣な眼差しに気付かない振りをして、開きかけた瞼を再び閉じる。
「子供でなくて構いません。むしろそちらの方が私にとって好都合です」
「……冗談にしては性質が悪過ぎよ」
「…私は本気ですが?」
「そんなのもっとダメじゃない!」
ジェームズは私の身体をガラス細工のように丁寧に抱き締め返し、指先で髪をそっと撫でてくれる。その優しさに救われる。
もう独りで強がるのは止めよう。もうこれ以上、自分一人で抱え込むのは止めによう。だってここには、私の全部を理解してくれる『理想の紳士』がいてくれる。私がこの世界に留まりたいと願う理由なんて、それだけで充分だ──。
第一章 偽りの悪役令嬢は、これでおしまいです。
ここまで読んで下さりありがとうございました!
第二章もよろしくお願いします!!




