第十三話
空中庭園を後にし、王宮の長い廊下を歩く。先程までの喧騒が嘘のように静まり返ったこの空間で、私の耳に届いているのはヒールの先で硬い石畳を打つ音だけだった。浮き足立っていた感情の波が、雲の間から差し込む穏やかな夕日によって凪いでいくのが分かる。一歩、また一歩と進むごとに張り詰めていた緊張の糸が切れていくのを感じた。
(終わった…。本当に…、終わったんだ……)
やがて見えてきた正面玄関の向こう。そこに停められた漆黒の馬車の傍らには、見慣れた銀髪の執事が彫像のように音もなく佇んでいる。私の姿を認めた彼は、寸分の狂いもない洗練された所作で一礼し馬車の扉を開けてくれる。その流れるような動き一つ一つが、疲弊しきった私の心を癒してくれた。
「……ただいま、ジェームズ」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
ずっと声が聞きたかった。叶うなら、ヒールを脱ぎ捨てて彼の待つ馬車まで駆け出してしまいたかった。その衝動を必死に抑え込んで、私は敵陣の真ん中で単身戦ってきたのだ。私を信じて待つ、この人の為に。
馬車へ乗り込み深く腰掛けた途端、全身の力が溶けるように抜け落ちていくのが分かる。ふかふかのビロードのシートが、こんなにも心地良いと感じたのは初めてだった。扉が閉められ外界から完全に遮断されると、私はようやく心の底からの大きなため息を吐くことが出来た。
「はぁ~~~~~疲れた…、疲れたよぉ~…。もう…、もうなんにも、出てこない……」
「お疲れ様でした。貴女のそのお顔を拝見する限り、結果は上々だったようですね」
向かいの席に座ったジェームズが、安堵を滲ませた声で穏やかに告げる。その甘い声音が、幼児を預かる保育士のように思えて。私は背もたれに預けていた身体を弾かれたように起こすと、テストで満点を取った無邪気な子供のように感情のまま両手を広げて見せた。
「そう、そうなの! 聞いてジェームズ!! 王妃陛下は私の事をね、ちゃんと公爵令嬢として認めて下さったの! 反公爵派の旗は、やっぱりすぐには降ろしてくれないと思うけど…。それでも公爵家の威厳は、これで少しくらいは回復した筈だから!」
「…素晴らしい。私が信じておりました通りです。いえ、私の予想を遥かに上回る、見事な成果です」
彼の蒼い瞳が、誇らしげに細められる。温かな眼差しと偽りの無い賛辞の言葉が、私の心の最も柔らかな部分にじんわりと染み渡っていく。やっぱりジェームズの存在は私にとって、この世界で生きる意味そのものだ。
(うぅぅぅ~~…、推しが、推しが~~私を褒めてくれてる~~~ッ! しかも『信じてた』って! それに『予想以上』だって!! くぅ~~~生きてて良かったあああぁぁぁぁっ!!!)
あまりにも嬉し過ぎて、表情筋が緩みっぱなしになるのを止められない。社会人になってからはどんなに大きな契約を取ってきても、上司から貰えるのは「ご苦労」の一言だけだった。期待してた昇給や臨時ボーナスなんて、一度も無かった。こんなにも真正面から自分の努力と成果を評価して貰えたのは、生まれて初めてだった。
頑張って良かった。逃げなくて良かった。彼が待っていてくれるのなら、きっと滝壺の中へ飛び込んだって無傷で帰れる自信がある。
「あとね、あとね! それだけじゃないの! マルケス侯爵家の親子から嫌味を言われたんだけど、ばっちり優雅に返り討ちにしてやったの! それと気難しいベアトリス夫人からもね! 一本取れたのよ! それからそれから、フルール伯爵家のレーニエ様っていうすっごく可愛いご令嬢とお話もして──」
抑圧から解放された衝動のままに、私はお茶会での出来事を捲し立てていく。ジェームズは驚いた顔一つせず、相槌を打ちながら落ち着いた様子で私の言葉へ耳を傾けてくれていた。彼が私の話を聞いてくれる。ただそれだけで、戦いの興奮と疲労でごちゃ混ぜになっていた頭の中が少しずつ整理されていくようだった。
「…よく、やり遂げられました。貴女はたった一人で公爵家の未来を懸けた戦いに勝利されたのです。このジェームズ、我が主を真に誇りに思います」
彼はそう言うと、白手袋に包まれた手をそっと自分の胸に当てる。その姿は忠誠を誓う騎士そのもので、彼が私の為にどれほど心を砕き、この日を案じてくれていたのかが痛いほど伝わってきた。
待つ事しか出来ない歯痒さを、きっとジェームズは今日一日でうんざりするほど感じていた筈で。そんな彼に私が出来る事なんて、一つしか無い。
「…ありがとう、ジェームズ。貴方がいなければ、今日の私は無かったわ」
大好きな貴方へ、偽りの無い感謝の言葉を私は送る。本音を言えば馬車の窓を開けて大声で叫んでも良いくらいだけど。それは公爵家の令嬢としてあまりにも相応しくないから、心の中でだけやっておいた──。