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第十一話

 貴婦人達の称賛の声が、心地良いざわめきとなって空中庭園に満ちていく。私がベアトリス夫人を見事に切り返し、更には会場の支持まで得てしまった事で、王妃派の貴婦人達はもはや何も言えず俯いてしまっている。完全に、場の流れは私にあった。


 前哨戦ぜんしょうせんはここまで。本当の戦いは、ここからよ。


 それまで黙って成り行きを見守っていた王妃陛下が、パタン、と音もなく扇を閉じる。その微かな動きで、会場のざわめきが水を打ったかのように静まり返る。庭園の噴水が奏でる水音だけがやけに大きく聞こえていた。


「素晴らしいですわ、イザベラ嬢。記憶を失くされた代わりに、随分と能弁のうべんな口と揺るぎない哲学をお持ちになったのね」


 爬虫類を思わせる冷たい瞳が、私を正面から射抜く。先程までの余裕のある笑みは消え、そこには王妃としての剥き出しの敵意が浮かんでいた。

 

「ではそんな貴女に、一つだけお聞きしてもよろしいかしら?」


 ゴクリ、と誰かが息を呑む音が聞こえる。彼女はゆっくりと、一言一句を確かめるように私へ最後の問いを投げかけた。


「貴女は今でも、わたくしの息子──元婚約者であったフィリップの事を慕っておりますの?」

「…………」


 それはこの場で最も残酷で、最も悪意に満ちた問い。知識やマナーの欠落を問うのではなく、感情の深奥を抉り出す一撃。王家が最も知りたいであろう、公爵家の真意を問うものだった。


 ここで『はい』と答えれば、往生際の悪い、捨てられた惨めな女に成り下がる。

 『いいえ』と答えれば、王族への不敬と取られかねない。

 『記憶に無い』と逃げを打てば、臆病者と罵られ、更なる追撃を受けるだろう。


 まさに詰み。王妃が用意した、完全無欠のチェックメイト。


(……この人には、生半可な覚悟では勝てない)


 私は一度だけ、そっと瞼を伏せる。思い返すのは、ジェームズがくれた最後の助言。


 ──お嬢様の強さは、愛されない哀れさなどではございません。愛を必要としない誇りにこそあるのです。


(顔を上げ、胸を張りなさい。私は、イザベラ・フォン・リリエンタール。王家に次ぐ権力を与えられた、この国唯一の公爵令嬢よ!)


 私が選んだ表情は、悲しみでも、怒りでも、怯えでも無い。ただどこまでも穏やかで、慈愛に満ちた微笑みだ。


「王妃陛下。そのようなお優しいお言葉、痛み入ります。おっしゃる通り、今の私に殿下と過ごした日々の記憶はございません。それはまるで、朝目覚めれば忘れてしまっている儚い夢そのものです」


 一度言葉を切り、大切なものを確かめるように自分の胸へそっと手を当てる。


 私は、原作のイザベラが、王子とどのように過ごしていたのか。その詳細を知らない。恋愛小説『光の聖女と五人の騎士』は、ヒロインである聖女の視点で物語が進んでいく。イザベラが何を考え、何を思って聖女を貶めていたのか。その理由は一度も明かされなかった。なぜなら聖女がイザベラの事を、理解しようとしなかったから。

 でも、私は理解したい。悪役令嬢であるイザベラを。


「ですが、これだけは確信できますわ。以前の私は、きっと偽りなく殿下をお慕いしておりましたでしょう。一人の人間を、それ程までに強く想う事が出来たという事実を、私は誇りに思います。貴重な経験を与えて下さった殿下には感謝しかございません」


 誰もが王子への恨み言や未練を期待していた事だろう。しかし私の口から出たのは、純粋な『感謝』の言葉のみ。


「その恋が過去のものであったとしても、私にとってかけがえの無い宝物である事に変わりはありません。そして過去の私が捧げた愛の分まで、殿下とエレンディラ様の末永いお幸せを心よりお祈りしております。

 お二人の幸せこそが、この国の未来を明るく照らす光となりますから」


 完璧だった。

 王子への想いを過去のものとして肯定し感謝を述べ、聖女との未来を祝福する。そしてこの国の安寧を願うという、誰にも反論出来ない大義名分で締めくくる。これ以上の答えは無い。


 会場の誰もが息をする事も忘れ、王妃の反応を待っている。

 彼女の美しい顔からは、蛇のような冷たさは消えていた。扇で口元を隠す事無く、真っ直ぐに私を見据えていた。


「………ッ」


 その瞳にゾッとする。王妃が浮かべていたのは、単純な悔しさや怒りでは無かった。そこに有ったのは、ようやく対等な敵手を見出した為政者いせいしゃの静かな高揚だった。


「…見事な答えですわ、イザベラ嬢」


 王妃の口元に、どこまでも深い笑みが浮かぶ。それは全ての貴婦人達を魅了する、女王の笑みだった。


「貴女が辛い過去を乗り越え、王家とこの国への揺るぎない忠誠を改めて示してくれた事。フィリップの母として、そしてグランヴェル王国の王妃として、真に嬉しく思いますわ」

 

 なんて事。王妃は私の勝利宣言を王家への『忠誠の誓い』として、この会場にいる全ての者の前で再定義をし、自らの勝利の冠へと編み込んでしまった。

 やられた。完全に、不覚を取ってしまった。これでは私が決死の思いで捻り出した答えなんて、最初から無かったも同然になってしまう。


「…ありがとうございます。今後は公爵家の名誉回復の為、自らの覚悟をもって尽力して参りますわ」


 私は再び毅然きぜんとした表情に戻り、王妃へ宣戦布告にも似た決意を告げる。王妃は私のこの言葉を待っていたかのように、満足げに頷いた。


「ええ、期待しております。貴女のように聡明で、強い信念を持った令嬢こそ、これからの王国のいしずえとなるべきですわ。わたくしも、貴女の働きを全力で支援いたしましょう」


 もはや敵意の応酬ではなかった。これは国の未来を担う二人の為政者による、政治的対話。王妃は私の事を、ひいては公爵家を、『王権に仇なす敵』ではなく『王国の礎を共に支える協力者』として認めたのである。


 このやり取りを最後に、王妃は再び優雅に紅茶を一口含む。彼女はこの舌戦において、私に一本取られたのかもしれない。しかし国を治める人間としての格の違いを見せつける事で、最終的な勝者としての威厳を保ったのだ。


 結果として、私は負けずに社交界への復帰を果たす事に成功した。だが今後はこの国最強の女傑を相手に、渡り合っていかねばならなくなった。喉の渇きにも似た、危険な高揚感が私を支配していた。


(こんな人が姑になるなんて! 絶対に無理!! 婚約破棄されてて、本当に良かった…ッ!!!)


 戦いは終わり、張り詰めていた緊張の糸が解けていくのを感じる。カップの紅茶は、もうすっかり冷め切ってしまっていた──。

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