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第十話

 私の完璧なカーテシーを前に、王妃は僅かに目を細め、扇の向こうで唇の端を吊り上げた。


「まぁ、見事なご挨拶。記憶はなくとも、身体は公爵令嬢としての嗜みを覚えておりますのね。さあ、こちらへどうぞ。貴女の為に、特別な席を用意させましたのよ」


 王妃が示したのは、彼女の真向かいの席。全ての貴婦人達の視線が集中する、まさに断頭台のような場所だった。


(第一関門は無事にクリア。でも…やっぱり何一つ油断が許されない状況ね…)


 指先から血の気が引いていくのを感じ、額に汗が滲みそうになる。しかしそれすらも査定の対象だと考えれば、決して隙は見せられない。私は内心で一つ深呼吸をし、音もなく席に着く。王家の侍女が恭しくお茶の準備を始めた、その時だった。


「まぁ、イザベラ様。記憶を失われたと伺いましたわ。大変でしたのね。何もかも忘れてしまわれたなんて、本当に、お可哀想に」


 甲高い声でわざとらしくハンカチで目元を押さえているのは、王妃の腹心であるマルケス侯爵夫人。その隣では娘のセシリアが、侮蔑を隠そうともしない笑みを浮かべていた。


「そうですわね、お母様。でも、もしかしたらその方がお幸せなのかもしれませんわよ? ご自分が『聖女様』へなさった恐ろしい悪事の数々を、綺麗さっぱり忘れられるんですもの。もし私でしたら、恥ずかしくてとても正気ではいられませんわ」


 セシリアの発言に、周囲からクスクスと嘲笑が漏れる。この女こそ、かつて悪役令嬢イザベラを断罪の場へと突き落とした張本人。紡がれる言葉は憐れみを装った鋭い毒針。ここで私が狼狽え怒りを露わにすれば、世間は私を『記憶を失っていない偽物』だと断じるだろう。


 私は表情を動かさず、優雅にティーカップを手に取る。その指の先にまで、公爵令嬢としての品位が宿るよう、細心の注意を払った。


「ご心配いただき、ありがとうございますわ、侯爵夫人。そして、セシリア様。

 ですが、貴女のそのお言葉、一つだけ訂正させていただけますかしら?」


 敢えて相手の名前を呼び、目を逸らさずに見つめ返す。私は自らの瞳の奥に、師であるジェームズから教わった、悲痛な記憶に苛まれる者の『怯え』と『拒絶』の色を宿らせた。


「私にとって『聖女様』という言葉は、断罪された際の衝撃と深く結びついております。過去の出来事を思い出せない今でも、その言葉を耳にする度に、頭を何かで強く殴られたような痛みに襲われ、息苦しくなるのです」


 苦痛に耐えるように、そっと額を押さえてみせる。ドレスの蒼が、私の顔に暗い影を落とす。ティーカップの水面に映るその顔は、自分でも驚くほど青白く見えた。


「過去の過ちを忘れてしまった事は、結果として幸運だったのかもしれません。ですがそれは、私が心から願って消したのではありませんわ。心が耐えきれず、その結果として、壊れてしまっただけ。…私は、貴女方が想像するような、幸福な人間ではございませんの」


 私の言葉には、記憶喪失の原因が『貴族たちの陰謀と断罪による精神的苦痛』であるという明確な非難が込められている。この件でこれ以上私を追求すれば、王妃派は『心に傷を負った病人をいたぶる非道な人間』という悪評を立てられる事になるだろう。

 

(スタートダッシュは上々。でもこの女には、これだけではまだ不十分よ)


 再び顔を上げた私は、ふわりと花の綻ぶような笑みを浮かべてみせた。


「ですが、セシリア様のおっしゃる事も、あながち的外れというわけではありませんわ。忘れるという事は、時に祝福であると、解釈する事が出来ますもの」


 予想外の肯定に、セシリアは一瞬だけ目を丸くする。その隙を、逃さない。


「過去のしがらみが消えた今、私はまっさらな目で全てを見つめる事が出来ます。どなたが真に心優しく、どなたが美しい仮面の裏に醜い刃を隠しているのか。今の私には、それがとても良く視えるのです。ええ、本当に、喜ばしい事ですわよね?」


 私の返答に、今度こそセシリアの顔から血の気が引いた。ざわめいていた周囲の声も、ピタリと止む。『記憶が無い』からこそ今の貴女の本質を見抜けるのだと、そう暗に私は告げている。セシリアは何か言い返そうと口を開きかけたが、結局何も言えず、悔しそうに唇を噛み締めるだけだった。


(貴女はイザベラを踏み台にして、聖女へ取り入る事に成功した。その手際の良さには感服するわ。でもそんな借り物の地位が、いつまでも続くと思わないことね)


 マルケス侯爵家の親子が最初の犠牲者となった事で、他の貴婦人達も迂闊に口を開けなくなった。会場には、張り詰めた奇妙な沈黙が流れる。

 扇の影で面白そうにこちらを見つめる王妃の視線を感じながら、私はゆっくりと紅茶を一口含む。次に誰が切り込んでくるのかを、探るように。





「イザベラ様」


 沈黙を破ったのは、王都の服飾界を牛耳るブティック協会の会長──ベアトリス夫人だった。

 彼女は王妃派ではないが、流行の決定権を握る実力者。流行のドレスを誰よりも華やかに着こなす彼女の胸元には、会長の証である豪奢なブローチが輝いている。


「大変失礼を承知で申し上げます。マドレーヌが手掛けたそのドレス、流石の仕立てですわね。…ですが少々、地味ではありませんこと?」


 その声は蜜のように甘いが、含まれた毒はマルケス侯爵夫人のものよりずっと質が悪かった。


「今の王都のトレンドは、エレンディラ嬢を連想させる柔らかなパステルカラー、もしくは王妃様お好みの燃えるような赤。貴女様のような方が、今の時流とは真逆の『自己主張のない蒼』を選ばれたのには、何か深い意味があるのかしら?

 わたくしでしたら、もっと華やかで、皆の目を惹きつけるようなお衣装を選びましたわ。そう例えば…、以前の快活なイザベラ様のような」


 彼女は私のドレスを、襟元から裾の先まで値踏みするように視線を走らせる。何人かの貴婦人が彼女の言葉へ同意するように頷くが、これも巧妙な罠だ。記憶喪失による個性と意志の欠如を疑う、最も核心的な質問。『地味』という言葉で私の選択を貶め、偽物である可能性を暗に示唆している。

 ここで『流行を知らない』と答えれば、世間知らずの凡庸な女と見なされ、公爵令嬢としての威厳は地に落ちるだろう。けれど、お生憎様。私はこの程度の罠に掛かるような、甘い人間では無い。


「お褒めにあずかり光栄ですわ、ベアトリス夫人。

 貴女様のおっしゃる通り、このドレスは以前の私が好んでいた物ではありません。…ですが逆に、こうは考えられませんか? 私にはもう、他人の視線を惹き付ける為の装飾なんて、必要無いのだと」


 私は穏やかに微笑みながら、ドレスの肩に施された繊細な銀刺繍を指でなぞる。空中庭園へ差し込む穏やかな光が、私の決意を映す湖面に煌めいた。


「流行とは美しいものです。ですが誰かの模倣に流される事は、公爵家の娘としてあるべき姿でしょうか? パステルカラーはエレンディラ様、赤は王妃陛下にお任せすれば良いのです。私は誰かの色に染まる事で、公爵家の歴史を曖昧にしたくありません」


 胸を張り、断言する。会場にいる全員を見渡す。


「この蒼は、私が選びました。誰かの基準に合わせる事を拒み、誰にも頼らない、リリエンタール家の静かな威厳を体現する色です。誰かの賛辞を必要としない、自立した美しさの色。今の私にとって、これ以上心地良い色はございませんのよ」


 決意に満ちた言葉と圧倒的な気品が、会場の空気を完全に支配した。


「まぁ、お見事ですわ!」

「なんて毅然とした態度なの!」

「記憶を失っても、公爵家の誇りは健在なのね!」


 貴婦人達の間から、一斉に賞賛のざわめきが起こる。彼女たちは私の装いを『記憶喪失による無個性』と見なすのでは無く、『誰にも染まらぬ強い意志』と受け取ったようだ。


「流石はリリエンタール公爵令嬢。私が貴女様のドレスを『自己主張の無い蒼』と評したのは間違いでしたわね。それは『自己を確立した、揺るぎない蒼』ですわ」


 ベアトリス夫人も、私の答えに満足そうに頷く。和やかな空気が会場全体に流れる。彼女達が予想していたであろう、泣き崩れるか逆上するだけの『哀れな悪役令嬢』は、この会場のどこにもいない。

 私は貴婦人達の間で、記憶を失いながらも、より高貴で気品ある女性として認められたのだ──。

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