第十話
空中庭園で開かれたお茶会は、一見華やかな印象を受けつつも空気は氷のように冷え切っていた。王妃は獲物を待ち構える蜘蛛に良く似た目を細め、扇の向こうで唇の端を吊り上げる。
「まぁ、見事なご挨拶。記憶はなくとも身体は公爵令嬢としての嗜みを覚えておりますのね。さあ、どうぞこちらへ。貴女の為に特別な席を用意させましたのよ」
王妃が指し示したのは、彼女の真向かいの席だった。全ての貴婦人達の視線が集中する、まさに『断頭台』と称するに相応しい場所。
指先から血の気が引いていくのを感じ、額に汗が滲みそうになる。しかしそれすらも査定の対象だと考えれば、決して隙は見せられなかった。
(やっぱり、何一つ油断が許されない状況なのね…)
私は内心で深呼吸をしてから、背筋を伸ばして席に着く。周囲に並び立つパステルカラーの衣装が、私の視界を淡く霞ませる。
席の向かいには王妃が。そしてその隣には、王妃派筆頭であるマルケス侯爵夫人が。上辺だけの優しい笑顔でこちらを見下ろしていた。
「まぁ、イザベラ様。記憶を失われたと伺いましたわ。大変でしたのねぇ~。何もかも忘れてしまわれたなんて、本当に、お可哀想に」
「そうですわね~、お母様。でも、もしかしたらその方がお幸せなのかもしれませんわよ? ご自分が『聖女様』へなさった恐ろしい悪事の数々を綺麗さっぱり忘れられるんですもの。もし私でしたら、恥ずかしくてとても正気ではいられませんわ」
侯爵夫人はわざとらしく目元をハンカチで押さえながら、甲高い声で口火を切る。すると娘のセシリアも応戦するように、侮蔑を隠そうともしない笑みを浮かべて発言した。
周囲からクスクスと嘲笑が漏れ始め、自分を正義だと信じた人間達が罪人の斬首を望み出す。この空気を私は知っている。この女の裏切りを、私は覚えている。
(…許さない。平気な顔をして人を裏切る。この女だけは、絶対に)
この女こそ、かつて悪役令嬢イザベラを断罪の場へと突き落とした張本人。人畜無害な顔を見せながらも、紡がれる言葉は憐れみを装った鋭い毒針。ここで私が狼狽え怒りを露わにすれば、世間は私を『記憶を失っていない偽物』だと断じるだろう。
私は表情を動かさず、優雅にティーカップを手に取る。指の先にまで公爵令嬢としての品位が宿るよう、細心の注意を払った。
「ご心配頂きありがとうございますわ、マルケス侯爵夫人。そしてセシリア様。ですが貴女のそのお言葉、一つだけ訂正させていただけますかしら?」
敢えて相手の名前を呼び、視線を逸らさずに見つめ返す。私は自らの瞳の奥に、悲痛な記憶に苛まれる者の『怯え』と『拒絶』の色を宿らせた。
「私にとって『聖女様』という言葉は、断罪された際の衝撃と深く結びついております。過去を思い出せない今でも、その言葉を耳にする度に頭が酷く痛むのです。記憶を辿る事すら…今は耐えられませんわ…」
被害者然と振る舞い、苦痛に耐えるようにそっと額を押さえてみせる。するとドレスの蒼が、私の顔に暗い影を落とす。ティーカップの水面に映るその顔は、自分でも驚くほど青白く見えた。
「過去の過ちを忘れてしまった事は、結果として幸運だったのかもしれません。ですがそれは、私が心から願って消したのではありませんわ。心が耐え切れず…結果として壊れてしまっただけ。私は貴女方が想像するような、幸福な人間ではございませんの…」
私の言葉には、記憶喪失の原因が『貴族たちの陰謀と断罪による精神的苦痛』であるという明確な非難が込められている。この件でこれ以上私を追求すれば、王妃派は『心に傷を負った病人をいたぶる非道な人間』という悪評を立てられる事になるだろう。
周囲の嘲笑が消え、皆が哀れむような目で私を見る。そして今度は、その間違った認識を利用する。
「ですがセシリア様のおっしゃる事も、あながち的外れというわけではありませんわ。忘れるという事は、時に『祝福』であると解釈する事が出来ますもの」
再び顔を上げ、今度は花の綻ぶような笑みを浮かべてみせる。予想外の肯定に、セシリアは一瞬だけ目を丸くする。その隙を逃さない。
「過去のしがらみが消えた今、私はまっさらな目で全てを見つめる事が出来ます。どなたが真に心優しく、どなたが美しい仮面の裏に醜い刃を隠しているのか。今の私にはそれがとても良く視えるのです。ええ、本当に、喜ばしい事ですわよね?」
私の返答に、今度こそセシリアの顔から血の気が引いた。ざわめいていた周囲の声もピタリと止まった。
記憶が無いからこそ人の本質を見抜けるのだと、そう暗に私は彼女へ告げている。セシリアは何か言い返そうと口を開きかけたが、結局何も言えず、悔しそうに唇を噛み締めるだけだった。
(貴女はイザベラを踏み台にして、聖女へ取り入る事に成功した。その手際の良さには感服するわ。でもそんな借り物の地位が、いつまでも続くと思わないことね)
マルケス侯爵家の親子が最初の犠牲者となった事で、他の貴婦人達も迂闊に口を開けなくなった。会場には張り詰めた奇妙な沈黙が流れ始める。
扇の影で面白そうにこちらを見つめる王妃の視線を感じながら、私はゆっくりと紅茶を一口含む。次に誰が切り込んでくるのかを、探るように。
※
「イザベラ様」
不自然なその沈黙を破ったのは、王都の服飾界を牛耳るブティック協会の会長。ベアトリス夫人だった。
流行のパステルカラーのドレスを誰よりも華やかに着こなす彼女の胸元には、会長の証である豪奢なブローチが輝いている。
厳密に云えば、彼女は王妃派では無いのだが。流行の決定権を握る実力者だ。油断は出来ない。
「大変失礼を承知で申し上げます。マドレーヌが手掛けたそのドレス、流石の仕立てですわね。…ですが少々、地味ではありませんこと?」
紡がれる声は蜜のように甘やかだが、そこに含まれている毒はマルケス侯爵夫人のものよりも、ずっと質が悪かった。
「今の王都のトレンドは、エレンディラ嬢を連想させる柔らかなパステルカラー。もしくは王妃様お好みの、燃えるような赤。貴女のような方が、今の時流とは真逆の『自己主張のない蒼』を選ばれたのには、何か深い意味があるのかしら?」
夫人はダークブラウンの豪奢な巻き髪を優雅に揺らし、濃い紅を引いた唇で弧を描く。その立ち姿はまるで、妖艶な女狐のようだった。
「わたくしでしたらもっと華やかで、皆の目を惹きつけるようなお衣装を選びましたわ。そう例えば…、以前の快活なイザベラ様のような」
彼女は私のドレスを。襟元から裾の先まで、値踏みするように視線を走らせる。何人かの貴婦人が彼女の言葉へ同意し頷くが、これも巧妙な罠だ。
記憶喪失による個性と意志の欠如を疑う、最も核心的な質問。『地味』という言葉で私の選択を貶め、偽物である可能性を暗に示唆している。
ここで『流行を知らない』と答えれば。世間知らずの凡庸な女と見なされ、公爵令嬢としての威厳は地に落ちるだろう。けれどお生憎様。私はこの程度の罠に掛かるような、浅い人間では無い。
「お褒めにあずかり光栄ですわ、ベアトリス夫人。貴女のおっしゃる通り、このドレスは以前の私が好んでいた物ではありません。
ですが逆に、こうは考えられませんか? 私にはもう他人の視線を惹き付ける為の装飾なんて、必要無いのだと」
口元へ薄い笑みを浮かべながら。ドレスの肩へ施された繊細な銀刺繍を、指先で静かになぞる。空中庭園へ差し込む穏やかな光が、私の決意を映す湖面に煌めいていた。
「流行とは美しいものです。ですが誰かの模倣に流される事は、公爵家の娘としてあるべき姿でしょうか? パステルカラーはエレンディラ様、赤は王妃陛下にお任せすれば良いのです。私は誰かの色に染まる事で、公爵家の歴史を曖昧にしたくありません」
胸を張り、断言し、会場の全員を見渡す。私の選んだこの色が。私の最も信頼する色である事を。この場で証明する為に。
「この蒼は、誰かの基準に合わせる事を拒み、誰にも頼らない。リリエンタール家の静かな威厳を体現する色です。誰かの賛辞を必要としない。自立した美しさ。今の私にとって、これ以上心地良い色はございませんのよ」
決意に満ちた言葉と圧倒的な気品が、会場の空気を完全に支配する。この色は私にとって。誰にも知られる事の無い、秘密の領域でもあるのだから。
「まぁ、お見事ですわ!」
「なんて毅然とした態度なの!」
「記憶を失っても、公爵家の誇りは健在なのね!」
貴婦人達の間から、一斉に賞賛の拍手が巻き起こる。彼女たちは私の装いを『記憶喪失による無個性』と見なすのでは無く、『誰にも染まらぬ強い意志』と受け取ってくれたようだ。
「流石はリリエンタール公爵令嬢。私が貴女のドレスを『自己主張の無い蒼』と評したのは間違いでしたわね。それは『自己を確立した、揺るぎない蒼』ですわ」
ベアトリス夫人も満足そうに頷いて、和やかな空気が会場全体に流れ始める。彼女達が予想していたであろう。泣き崩れるか逆上するだけの『哀れな悪役令嬢』の姿は、この会場のどこにも存在していなかった。
私は貴婦人達の間で。記憶を失いながらもより高貴で気品ある女性として、認められたのだ──。




