第九話
そして、運命のお茶会当日。マドレーヌによって仕立てられたミッドナイトブルーのドレスを身に纏い、私は鏡の前に立っていた。
夜の湖面を連想させる落ち着いた色合いのこのドレスは、シルク生地が照明を吸い込み上質な光沢を放っている。計算されたラインは私の背筋をより一層伸ばし、夜空に浮かぶ孤高の月を演出しているかのようだった。
(すごい、完璧だわ。これこそ私の求めていた、『新しいイザベラ』の姿よ)
結い上げられた金髪は見る者の角度によって月の満ち欠けを表現し、控えめに施された銀刺繍は宵闇に浮かぶ星々のように静かに煌めいている。装飾過多だった以前のイザベラとは一線を画す。まさに洗練されたデザイン。
ここにいるのは、パン屋の娘エリアーナでも、悪役令嬢イザベラでもない。公爵令嬢としての誇りと、一人の女性としての確固たる信念を宿した、『新しいイザベラ』だった。
「…………美しい」
背後から聞こえて来たのは。吐息のような、あるいは心の底から漏れ出たような、とても掠れた声だった。
そっと振り返ってみると。ジェームズは瞠目したまま、まるで時が止まってしまったみたいに、私に釘付けになっていた。注がれる眼差しがこれまで一度も見た事が無い程に、暗い海の如く揺れ動いている。
(……う、つくしい?)
思考が停止する。彼の一言と眼差しが、私の魂を直接震わせる。だってそんな言葉。私は誰からも、かけて貰えた事なんて無かったから。
「…………」
彼は一歩。恐らく無意識に。私へと近付いた。伸ばされた指先が結い上げた髪へ、触れそうになる。その瞬間。
「……っ。マドレーヌは、実に良い仕事をしたようですね。貴女の魅力を、最大限に引き出している」
ジェームズの喉が微かに鳴る。それはあまりにも不自然過ぎる、乾いた咳払いであった。けれどその瞳の奥には、何かを必死に隠そうとする焦燥が、滲み出ているようにも感じられた。
(…なに…今の顔……? そんな目…、今まで一度も……)
彼の横顔は気のせいか、ほんのりと赤く染まっているように思えた。あの完璧で、常に冷静沈着なジェームズが照れるだなんて。そんなのは、有り得ない筈なのに。
「…とても美しいです。お嬢様。この世界の、何よりも」
低く押し殺すように吐き出された称賛の声が、耳に残って離れない。真意を見極めたくて、その顔を覗いてみるけれど。ジェームズの顔に浮かぶのは、やはりいつも通りの無表情だった。
「…ええ、本当に。マドレーヌには感謝しないとね」
込み上げてくる戸惑いを押し留めて、平静を装いながら返事をする。私が彼の気持ちを勘違いするだなんて。そんなのは、烏滸がましいにも程があるから。
「時間です、お嬢様」
「ええ、行きましょう」
公爵家の紋章が刻まれた馬車に乗り込み、王宮へと向かう。
ヴァルトシュタイン辺境伯の件も、水面下で進めて貰っている。お茶会は、この件を王家側へ悟らせない為の、カモフラージュでもあるのだ。今はまだ誰にも私達が動いている事を、知られてはならない。
やがて馬車が王宮の壮麗な門をくぐり抜け、静かに停止する。護衛騎士が扉を開けたその先には、敵意と好奇の視線渦巻く戦場が待っている。
ここからは本当に一人。王妃主催のお茶会で、執事の同伴は許されない。馬車を降りる直前、私は彼に向き直った。
「…ねぇ、ジェームズ。もし、私が失敗したら」
「そのような事はございません。貴女なら出来ます。我が主、イザベラお嬢様」
彼は私の言葉を最後まで聞かず、即座に否定してみせる。鋭利な双眸には、絶対の信頼が込められていた。
「ですが、一点だけ心に留め置いて頂きたい事がございます」
「…何?」
「貴女は今、公爵家の名誉回復と自由を得る為に、ご自分の意志でここに立っておられる。お嬢様の強さは、愛されない哀れさなどではございません。愛を必要としない誇りにこそあるのです」
「……!」
紡がれた言葉が、稲妻となって私の胸を貫いた。彼は私の指導者であり共犯者だが、同時に本物のイザベラの、最も近しい理解者でもある。
小説では『傲慢で我儘』と切り捨てられていた彼女の行動全てが。『愛されたい』と願いながらも、その愛に窒息しそうになっていた一人の少女の叫びだったのだと。私は、今、初めて理解した。
そうだ。私は誰かの同情を引く為に、此処へ来たわけでは無い。哀れな記憶喪失の令嬢を、演じるつもりも無い。私は、私の目的の為に、私の意志で戦うのだ。
たとえ足元が、誰にも頼れない砂地であるとしても。
「…ええ、勿論分かっているわ」
「いってらっしゃいませ。貴女の帰りを、ここでお待ちしております」
迷いは消えた。私は彼に一度だけ頷き返すと、大きく息を吸い込んでみせる。そして寸分の隙もない淑女の仮面を被り、光の中へと踏み出した。
※
お茶会の会場である空中庭園には、色とりどりの花が咲き乱れ、甘い香りが漂っている。けれど今の私にとってその場所は、硝煙の匂いが立ち込める戦場にしか思えなかった。
コツン、コツン…、コツン……。
ヒールの先で硬い石畳を打つ音が、静寂の中に響き渡る。その音に気付いた貴婦人達が、一斉に私へ視線を突き刺した。
「まぁ、あの方が例の…」
「なんでも、記憶を失くされたとか…」
「随分と装いが変わられましたのね…」
刺すような眼差しが、囁くようなその声が。私を品定めする値札のように感じられる。
コツン…。
そして、庭園の奥。上座に設えられた純白のテーブルで、一人の女性が優雅に紅茶を飲んでいた。
燃えるような赤いドレスに、豪華絢爛な宝飾品の数々。プラチナブロンドの髪を艶やかに揺らすこの人こそが、国の頂点に君臨する女性。カトリーヌ・グランヴェル王妃陛下。
「お待ちしておりましたわ、イザベラ嬢。大変な目に遭われたと聞き、わたくし、とても心配しておりましたのよ?」
彼女はゆっくりとカップをソーサーへ戻すと、蛇のように冷たい笑みを浮かべて私を見る。丁寧な物言いとは裏腹に、彼女の黄金色の瞳は、全く笑っていなかった。査定は、もう始まっている。
「お心遣い、痛み入ります、王妃陛下。本日はお招き頂き、誠に光栄に存じますわ」
私はスカートの裾を優雅につまみ、この一ヶ月間で身体に叩き込んだ、最も美しいカーテシーを捧げた──。




