序章
香ばしいパンの焼ける匂いがする。
閉じていた意識がゆっくりと浮上する感覚の中で、一番最初に届けられたのはそんな穏やかな香りだった。
背中に当たる硬いベッドの感触、少しごわつく麻のシーツ。そのどれもが、私の知っているものとは違っていた。
(私…、昨日は、確か……)
納期に追われ、深夜遅くまでパソコンと睨み合っていた筈である。エナジードリンクの缶が虚しく転がる手狭なワンルームで、ようやっと仕事を終えてベッドに倒れ込んだ。そこまでの記憶は鮮明なのに。
重い瞼を開いてみれば、目に飛び込んで来たのは見慣れた白いクロスの天井では無く、太く黒光りのする木の梁。窓から差し込む朝日は柔らかく、空気中に舞う埃が反射でキラキラと輝いている。まるで映画のセットのように、古風で生活感のある素朴な部屋。
「…なに、ここ」
掠れた声が口から漏れる。けれど、その響きは驚くほど若々しい。また一つ、違和感が胸に募った。
半信半疑のまま身を起こすと、視界の端に映った自分の手に心臓が跳ねる。滑らかで、けれど少し節くれだった小さな手。そして長い髪がふわりと肩に落ちた。私の髪は、肩につく程度のボブだったはずなのに。
「…っ、嘘…でしょ…?」
混乱のまま視線を彷徨わせた先。古びた姿見に映る自分の姿に、私は息を呑む。
そこにいたのは、年端も行かない少女だった。
金色に艶めく腰まで届きそうな長い髪、不安げに揺れる大きな翠色の瞳。そして雪のように白い肌は、寝不足と不摂生で荒れていた私のそれとは似ても似つかない。
だが私は、この顔を知っていた。
「イザベラ・フォン・リリエンタール…」
震える手で頬に触れると、鏡の中の少女も同じように頬に手を当てた。つまりこれは、紛れもなく今の『私』なのだ。
イザベラは、私が寝る間も惜しんで読み耽っていた恋愛小説『光の聖女と五人の騎士』に登場する悪役令嬢だ。物語のヒロインを執拗にいじめ抜き、王子の婚約者という立場を笠に着て悪行の限りを尽くした末に、破滅の結末を迎える。
(待って…。落ち着け、落ち着くのよ私…ッ)
深呼吸を一つ。異常事態だからこそ、状況を整理する必要がある。
まず、ここが本当にあの小説の世界なのか。そして、私は悪役令嬢イザベラ本人なのか。
どういった原理なのかは分からないけれど、私は今知らない世界の住人になっている。素朴なワンピースを着用している事からも伺えるように、この身体の持ち主が貴族である可能性は低い。手も、少し硬さがある働く者の手である。
つまり私は悪役令嬢イザベラ本人では無く、よく似た誰かに憑依しているらしい。そう結論づけると、少しだけ気分が軽くなった。
(そういう事なら…別にいいかな…?)
冷静になってもう一度自分の顔を見てみれば、右目の下に特徴的な泣きぼくろがある。悪役令嬢イザベラに、そんなものは無い。
(私一人いなくなった所で、どうせ社会は回っていく。それなら、折角もらった新しい人生、楽しまなきゃ損よね!)
元の世界に未練が全く無いわけではない。けれど社畜として身を粉にして働くだけだったあの毎日に心から戻りたいかと問われれば、即答なんて出来ない。それならば与えられたこの新しい人生を、精一杯楽しむべきではないだろうか。
幸い、ここは物語の核心から遠い場所にある。メインキャラクター達と関わらずひっそりと生きていけば、きっと何も問題は起きない筈だ。
「エリアーナ! いつまで寝てるんだい! もうパンを窯に入れるよ!!」
階下から快活な女性の声が響く。どうやらこの身体の持ち主は、『エリアーナ』という名前らしい。突然身体を奪う形になってしまった彼女には、本当に申し訳無い事をしたと思うけれど。
いつか、なんの前触れもなく元の世界へ戻る事があるかもしれない。だからこそ、彼女が戻ってきた時に「私の人生最高だった!」と思えるように、この身体を預かる私が彼女の人生を幸せにする必要がある。
(貴方が戻ってくるその日まで、私はこの世界の片隅でパン屋の娘として生きていく。絶対に、不幸になんてさせないからね!)
鏡の中の少女――エリアーナに、私は力強く誓う。不器用な笑みが、その頬に浮かんでいた。
「はーい! 今すぐ起きまーす!!」
小説の終盤。イザベラは断罪された後、修道院へ護送される途中で行方知れずとなる。それは物語がハッピーエンドを迎えた後の、ほんの小さな後日談として語られるだけで、その後の彼女の人生がどうなったのか、知る者はいない。
平穏を願う私の新たな日常が、荘厳な紋章を掲げた公爵家の馬車によって無慈悲に踏み潰されるまで、あと数時間──。