壁の影のように
下駄箱は郵便受けではないことを、恋する乙女とやらは知らないのだろうか?
いや、分からなくなるほど、盲目になっているのだろうか?
ならば、違いくらいは教えてやった方がいいだろう。
「放課後、屋上で待っています」――そう書かれた便箋を手に、少年は慣れた足取りで階段を上っていった。
梅雨の明けた初夏。それも夏休み前の試験期間を抜けた終業式、さらにそれさえも終わった午後だというのに、開放感は皆無だった。
進学校とまではいかないにしろ、大学進学の為にがりがり勉強する予定が組まれているから、という高校三年生としての悩みではなく、下駄箱で見つけてしまった便箋が事の発端だ。
携帯電話が普及した現代において、古風な便箋……とまあ、メールは相手のアドレスが分かっていることで有意となる伝達ツールだが、便箋だって送り主を明確にしなくてよい伝達手段ではないはずだ。
そして、差出人不明の呼び出しは、差出人の存在が気になるから正直勘弁願いたい。しかも、内容が時間と場所指定のみというのも勘弁願いたい。
そんなことを頭の中でくるくる巡らせながら指定先の屋上に赴くと、差出人と思われる女子が待っていた。誰を? たぶん、この僕を。違えばいいのに。
胸に手を当てて、過呼吸気味な一年生らしい女の子だ。
「す、好きです。付き合ってください」
僕が来たことが本当に嬉しいのだろう。相手の、この僕の顔など見ていないだろう。面食らう勢いで告白された。
そんな幸せ者の僕はと言えば。一拍置いて、返事をした。あとは、彼女が居なくなるのを待てばいい。僕は遠くの山に乗っかる巨大な入道雲を視界の端に捉えながら、いつかに見た誰のものとも伺えない影のことに思いを馳せた。
想像を絶する圧倒的な閃光が一瞬のうちに壁に影を写し込むことで生み出された、持ち主のいない影の標本。果たして、持ち主の親子はどんな気持ちの中で、亡くなったのだろうか。――なんて、どうでもいいもの思いを。
だが、それも直ぐにやめる。やめるが、だからといって何かを始めるわけではない。とりあえず伺うだけ。
目の前でぼろぼろと涙を零す女の子に、僕はかける言葉を持ち合わせていない。
「振られちゃいました」
だって、まだ五分と経っていない。
「振られちゃいました」
そんな非道い僕に、どんな言葉が喉から出るというのだろう。
「振られちゃいました、ね」
まだ涙は頬を転がっている。それでも、彼女はようやく壊れたテープでなくなってくれた。このまま、ずっと続いていたら、僕の頭も同じようになっていただろう。
僕の前に立つ彼女は、可愛い女子だとは思う。白いブラウスに、襟の赤いリボン。チェックのスカートは膝小僧を覗かせるくらい。ターメリック色のブレザーはスカートの下地と同じ色をしていた。
学校指定の制服を指定通りに着こなして、地味過ぎないのだから容姿容貌に減点はない。髪だって脱色も、染めてもいない。襟に掛かるか掛からないぐらいの長さは正直好みだ。そして、ぽっちゃりでなければ、痩けてもいない顔。それだって、十分に魅力的だ。
ただ、そんな子が自分に思いを伝えても、僕には定型的な件の言葉しか用意されていなかった。
もちろん『悲しそうな面持ちで謝』って、有らん限りの勇気をもってぶつけられた告白を、『否定』したのだ。
認めておくが、僕自身もまだ片思いだ。誰とも付き合ったことはない。
だけど、失敗した時の備えに、下にネットを用意するようなことは出来ない――それは僕自身に巻き付けた千切れることのない絶対的な鎖なのだ。
と、気が付けば僕は俯いていたらしい。少女の上履きが大きくなっていた。どうやら、こちらに向かって歩いているようだ。ひどくゆっくりとだが、危なっかしくはない。
これまでに二度ほど同じ場面を体験したが、今回のケースは初めてだ。振った後も執拗に粘られた一度目に、振った直後に友人らしい女子が殴りつけてきた二度目。三度目には何が待っているのだろうか。正直なところ、同じ展開は御免だ。あと、断っておくが、僕は女殺しでもない。何せ、僕は好きな子に思いを未だに伝えられない小心者なのだから。
歩み寄って来る彼女に、僕は顔を上げなかった。そうしたら気が付いた。彼女の上履きには逆さに学年、クラス、名字が書かれていることに。
少し見入っていたところに、彼女は恥ずかしそうに言った。
「名案だと思ったんですけど、間抜けですよね」
僕は振った子の名前を覚えない主義だ。振った数なんて、男の勲章にはなり得ないのだから。ならば、何某の勲章という何某も必要ない。僕はぼうっと目に飛び込んできていた彼女の名字から逃れるように背を伸ばした。
「先輩」
そこには、ちょうど彼女の横顔があり、
「あたしも知ってました、先輩には好きな子がいるってこと。だけど、」
彼女は一つだけお願いをしてきた。
「あたしの名前を呼んで欲しかったんです」
無理なお願いだ。だって呼んだら覚えてしまうじゃないか。
「屋上を離れたら忘れちゃってかまいません。あたしは二年三組の――」
僕は彼女の言葉を遮ろうと、耳を塞ぐ。目も勢いで瞑ってしまった。果たして、彼女は名前を言ったのだろうか。
目と耳に感覚がじんわり戻ってくる。ギシ、ギシと何かが軋む音に次いで、ブレザーがふわりと舞うのを見た。
「――ッ」
声は出なかった。掛ける名前を知らなかった。違う。知っている、名前は覚えている。だけど、それは本名だろうか。少なくとも、初めに聞いた名前と上履きの名前は違っていた。
君は誰だ。君は誰だ。君は誰だ。君は。君は。君は――
「先輩。あたし、 って言います。でも、忘れちゃってかまいませんよ」
君は誰なんだ。
「むしろ忘れてください。だって、思いが通じなかった時の、防護ネットにしたくないって先輩の考え方に共感できるんです」
そこで、ふと思う。総毛立つような焦りが雲散霧消した。彼女はまるで自分のようではないか、そう思った。だが、その次の瞬間、また別の悪寒が全身を襲った。
「この、女殺し」
僕に思いの丈をぶつけた少女は、そこが高校の屋上、それも転落防止の柵を越えた先にいるとは思えない軽やかな動きで、僕を笑った。
そうだ、これは彼女の自殺じゃない。僕の殺人になる。
そう思った矢先に、心を読んだかのように彼女は言った。
「先輩。先輩はあたしを殺してなんかいないですよ。あたしが証明します。遺書にも先輩の名前はありませんから」
でも、状況がそれを許さないではないか。屋上には、自分と転落する彼女。僕は視覚、聴覚を塞いで、彼女が屋上のへりに移動するのを全く拒んでいないのだから。
「あたし、不安定なんですよね。時おり、解放されたくなるんです。もちろん、この身体からですよ。でも、いつもは名前を呼んでくれる人がいるんです。それで安定するんです」
暗に、僕に名前を呼ばれたいと言っているのだろうか。しかし、この話しが事実ならば、違う名前を呼んだが為に、飛び降りられかねない。
「先輩。たとえ話ですけど。もしかしたら、あたしは先輩の思い人と同姓同名かもしれません。先輩は名前を呼んでくれますか?」
不安定というのは本当のことなのだろう。話しがぽんぽん変わる。これでは、名前を知らないことがもどかしいくらいだ。
「呼んでくれますか、名前?」
「呼ぶよ、呼ぶ。だから、名前を――」
「ちゃんと呼んでください。そして、忘れちゃってくださいね」
何の変化もなかった。風が攫ったわけでも、バランスを崩したわけでもない。ただ、僕の言葉を心底喜び、彼女は後ろに倒れ込んだ。
「あ――」
ずっと柵を介して話していた僕と彼女。つまり、彼女の背中には支えがなくて。止める時間なんてなくて。
「あやめです! さようなら、先輩」
ドサッという音が鈍く届いた時、僕は震えてカチカチと鳴る歯にも気が回らず、その場に立ち尽くしていた。
あれから、三年が経過した。僕は精神的なショックから一年留年して、今は大学に籍を置く。どうにか通い始めたところだ。
結局、僕は片思いの女子に告白は出来なかった。
その子を呼ぼうとすると、別れを告げて自殺した彼女を思い出すからだ。名乗った名字は全て偽名、全く違うものだったが、名前だけは正しかった。そして、それが一番の問題なのだ。
恐らく、僕に彼女の名前を忘れられる日は訪れないのだろう。




