第五話
「良かったら……ヤングさん、一旦地獄で暮らすというのはどうでありますか?」
「は?」
「移民の受け入れについて非常に厳格な審査が求められる天国と違って、地獄は国籍、民族を問わず広く移民を受け入れています。移民なら最初の三か月間は国民住宅を無料で借りられますし、他の面でも優遇措置を受けられます。天国の行政機関の対応の遅さは有名ですし、かといって現世に残っているわけにもいかないでしょう?」
心の中で、損得を計る天秤が激しく揺れ動いた。。
長くデビルハンターを続けていたこともあり、地獄に対しては割と理解がある。
そういう俺だからこそわかることだが、幽霊や悪魔にとっても、地獄というのは行こうと思い立っていける場所じゃない。
徳の高い聖者や魔法使いなら直接地獄へと通じる「ルート」を作ることもできるけれど、それ以外の者が他の世界への転移を望むなら、リリスのような使者の「案内」が不可欠なのだ。
そして、使者はいつでもこちらの世界で悪魔や幽霊を資源回収よろしく集めているわけじゃない。いま地獄行きを決断しなければ、天国側の書類が揃うまで、ずっと現世に留まっていなければならないだろう。
天国の使者のあの態度からみて、十年二十年経っても必要な書類が揃わない、ということも充分考えられる。
天国で暮らす者にとっては、一分と一世紀の間にほとんど感覚的な差はないのだ。
簡単に言えば、彼らには時間の概念というものがないのである。
リリスの提案には筋が通っている。現世で逃げ回っているよりかは、とりあえず合法的な身分で一時的に地獄に滞在していた方がずっといい。
けれど、それで地獄から抜け出せなくなったらどうする?
このとき、俺はこれまでの人生で最も過酷な二者択一を迫られていたのだ。
小さい頃から、俺はずっと孤独だった。すべてを自分で決めて来た。それは、すべての責任を俺ひとりで背負うといことを意味していた。
悲しいけれど、これは逃れようのない事実なのだ。
「まず落ち着くのが先だろうな。悪いけど、世話になるよ」しばらく考えた後に、俺はリリスにそういった。
「そうですか。では一緒に地獄行きということですね」
「……もっと他に言いかたないのか?」
「転送用の魔法陣を開きます。それで地獄移民局に向かいましょう」
そのときだった。笑顔だった彼女の顔が、一気に真っ赤に染まった。
「あ、あなたを転送するときには、その、て、手を握らないといけないのですが」
「もちろん構わないさ。何か問題でもあるのか?」
キスをするとかでもあるまいし、手を繋ぐぐらい、どうってことあるか?
「わ、私があなたと、てててて、手を繋ぐんですよ?」
彼女の顔はトマトのように真っ赤になっていた。どうも異性と手を繋いだ経験もないらしい。
子供ってのはおかしなものだ。俺も彼女に合わせて、恥ずかしがってみせた方がいいのだろうか?
「お前が気にするのなら、ハンカチに包んで手を繋ぐか?」俺は考えつく限り最も妥当そうな提案をしてみた。
「いえ、肌と肌が接触していないと、転送が成功しないので……」
彼女の声はどんどん小さくなり、最後の方はほぼ聞き取ることすらできなかった。
「で、ではこうしましょう。向こうを向いてくれますか?」
「向こうを? こうか?」
俺は彼女に背中を向けた。すると、背中に何か柔らかいものが触れた。
少女の柔らかく弾力に富んだ体が、俺にぴったりくっ付いていた。服を通じて、彼女の胸の形と鼓動が伝わって来た。
脇腹を回って彼女の小さな手が俺の腕に触れた。背中から抱き締められている格好だ。
おいおいおい、こっちの方がよっぽど恥ずかしくないか?
「ふ、振り返らないでください!」
まさに俺が振り返ろうとしたとき、彼女が驚いたようにそう叫んだ。しっかり抱き着いて来るものだから、彼女の下腹部が俺の尻のあたりにぴったり押し付けられていた。
……十歳以上も年下の彼女と付き合ったことなんて、これまであっただろうか?
気の強い女性の方が好みではあるけれど、純情なタイプも悪くないのでは?
ただあんまり一途だと色々面倒かも知れないな……責任とか、いろいろ。
俺がそんな取り止めのない想像を巡らせていたときだった。突然足元で金色の光が迸った。地獄への転送が始まったのだ。
周囲で激しい風が巻き起こり、俺たちを包み込んだ。ほとんど目を開けることもできず、呼吸すらまともにできないほどだった。
目を閉じる寸前、ベッドの上に横たわっている「俺」の死体を一瞥した。
三十二年間付き合って来た肉体とも、これでお別れというわけだ。
耳元でパン、という短い音が聞こえた瞬間、意識が真っ暗な空間の中へと吸い込まれていく感覚がした。
俺はそのまま意識を失った。