第二話
「や……ヤングさん、まさかこんなところでお会いできるとは思いませんでした。こ、こ、光栄であります!」
リリスは泣き出しそうな表情でそういった。
つづけて、彼女は幼い女の子みたいにモジモジしながら、こう訊いて来た。
「あの……わ、私のことは覚えておられますか?」
「お前のこと?」
俺はリリスの顔をまじまじと観察してみた。彼女は丸顔で、髪はボサボサ、どこかぼんやりとした表情をしていて、大きな瞳をしていた。
見たところ十八か、十九ぐらいだろうか? けれど彼女の肩越しにみえる紫色の羽からするに、彼女の種族はおそらく堕天使。天使の老化速度は人間よりもずっと遅いから、外見から年齢を判断することはできない。
彼女とどこかで会ったか? いや、まったく心当たりがない。
「すまない、覚えてないな」
俺の返事を聞くと、がっかりしたようにリリスの羽が垂れ下がった。
「覚えておられないですか? 四年前、このぐらいの距離から、私の鼻っ柱に拳を叩き込んだときのことを」
「は……?」
「たちまち鼻血が噴き出して、ノドに逆流した血が気管に詰まって息ができなくなり、私は激しく咳き込み始めたんです。間髪おかずに左頬にまた拳が叩きこまれ、頭骨が割れる音と共に、私は壁に叩きつけられました。あなたは倒れた私の元まで歩いて来ると、私のお腹に蹴りを入れたんですよ。あまりの激痛に呼吸すらできず、目玉は飛び出すし、そりゃあ大惨事です。さらに次の蹴りで私のアバラが折れ、また次の一発で脾臓が破裂し、折れた肋骨が内蔵に食い込むメリメリという音がして、私は大量に血を吐き出しました。次にあなたは私の翼を掴むと、そのまま引き裂いたんです。じん帯と白い筋がむき出しになって、痛いのなんのって! 私は悲鳴を上げたんですけど、あなたはそんな私の頭を掴んで、ガンガンと壁に叩きつけたんです。あの頭蓋骨の中で脳が揺れ、骨が砕かれていく音は、いまでも鮮明に思い出すことができますよ」
「……」
思い出した。彼女は四年前に地獄へ送り返した悪魔のひとりだ。
あの年は冬の間だけでも二百匹からの悪魔を地獄に叩き返していたから、いちいち誰が誰かなんて覚えていなかったのだ。
いやそれよりも、これだけ当時のことを鮮明に覚えているということは、俺に対して相当な恨みを抱いているのでは?
彼女が悪魔の本性をむき出しにして襲い掛かって来る瞬間に備えて、俺は生唾を呑み込むと、拳を握りしめた。
「……どうでしょうか。私のこと、思い出して貰えましたか?」
けれどリリスは、無邪気そうな瞳で見つめて来るだけだった。
「ああ、思い出したよ」
「よ、良かった!」
彼女は頬を上気させ、ぱっと笑みをつくった。
「まさかあなたに覚えて貰えていたなんて! なんという幸運! あなたから凌辱を受けたその日から、あなたのことを考えない日はありませんでした! まさかそんなあなたのために仕事ができる日が来るだなんて、夢のようですよ。サタンさまありがとう! ルシファーに感謝!」
彼女が「凌辱」という単語を口にした瞬間、ことさら興奮しているように見えたけれど、まあ俺の見間違いだろう。
「あの、ちょっといいかな……」
幸福感に包まれているリリスをなだめるため、俺は彼女の肩を軽く叩いてやった。
「喜んでるところ申し訳ないけど、お前と一緒に地獄に行くわけにはいかないんだ。生まれたときに洗礼を済ませてるし、地獄に行くような悪事は何もやってない。だから……」
「それは一体……あれ?」
リリスが問い返す前に、足元の床に青い十字の転送陣が浮かび上がった。